風に消える花へ
くまねこ
風に消える花へ
恋人が、消える。
「消える」って、なんだろうか。
例えば誰かが死の淵にいたとしても、それは「消える」とは言わない。それは「死ぬ」という。たとえ死んだとしても、その人物が存在したという証拠は記憶や記録に残り続ける。
ただ、僕の恋人は日付が変わるとともに世界から消える。彼女が存在したという証拠すら、消えてなくなってしまう。
彼女はそんな運命を背負って生きてきた。
「なあ、今日は学校サボろうか」
ある夏の日、僕は彼女に電話をかけて開口一番にそう提案した。今日は平日で、高校生の僕は普通に登校日である。
『ダメだよ。あたしはいなくなっちゃうけどキミはこれからも生き続けるんだから』
叱るような口調の彼女の名前は風花。神に親族を捧げて影ながら世界の秩序を保つ巫女の家系の長女であり、今日が終わると人柱としてこの世界から消えてしまうという残酷な運命を背負った僕の恋人である。
「残念、もう欠席の連絡は入れてある」
彼女の呆れたような声が電話越しに聞こえて僕は苦笑する。
「風花もサボるだろ?」
『キミがサボるならね。最後の一日はキミと二人で過ごしたいから……よし学校に休む連絡完了!』
僕と風花は学校をサボることにした。
「お邪魔しまーす」
三十分後、風花がうちに来た。Tシャツにジーパンというラフな格好であった。僕は冷蔵庫から麦茶を取り出して二つのコップに注ぎ片方を風花に渡して僕はそれを喉に流し込む。
「ねえ、どこか行こうよ。最期なんだし」
二人でテレビを見ていると風花は突如としてそんなことを言い出した。僕は少しだけ悩み、答えを口にする。
「僕らの思い出をたどろう」
「あ、エイだ! やっぱりお腹のところの顔キミに似てて可愛い」
「似てるか〜?」
「絶対似てる! ほら写真!見て!」
そこからはいろんな場所に行った。
隣町にある大きな水族館に行ったり、駅前にあるカフェでコーヒーを飲んだりした。
それはいつものデートのようで、ただ違うのは今までのそれは二人の絆をさらに強固にするためのものであり、今回のそれは、ただ思い出をなぞっただけのものだということだった。
真新しさなど必要なかった。
ただ、隣にいる大好きな人ができるだけ長い時間心の底から笑えるように、消えるという死よりも理解できないことに対する恐怖をできるだけ感じなくて済むように。僕らは最期のデートを楽しんだ。
タイムリミットは迫ってきている。楽しくて、永遠に続けと願った時間ほど早くすぎてゆく。僕らは最期の目的地に向かうべく電車に乗り込んだ。
「ねえ、どこに向かうの?」
無邪気に風花がたずねてくる。僕は通路側に座る彼女に微笑んで答える。
「最初の場所だよ」
「なるほど。最期にはふさわしい場所だね」
僕は耐えきれなくて目を逸らした。そして外の景色を見る。
太陽が沈んでいく。茜色に染まった空と影となった山々。それらが流れていく。
その景色に否応にも不安を感じてしまい、僕は窓のカーテンを下ろした。
金属が軋む音を響かせながら電車は止まり、僕たちはホームに降り立つ。
太陽はすでに沈み、少しすると電車は走り去った。誰もいない閑散としたホームで言葉が口をついて出る。
「風花」
「ん?どしたの」
「手、繋いでもいいか?」
僕は小さく震える左手を彼女に差し出す。俯いている僕からは彼女の表情は窺えないが、微かにクスリと笑った声が聞こえた。そして左手に感じる確かな温もり。
「なんでキミの方が不安がってるのさ。キミは消えないんだよ」
「ごめんな。堂々とできなくて」
謝罪を一つ。隣で堂々と立たないといけない。この運命すらも受け入れて風花と付き合ったのだから。
「いいんだよ」
そんな優しい声がして、直後に額に痛みが走った。僕が痛みにうめき、そこを見ると風花が左手を開いた状態でニヤリと笑っている。
「でも意気地なしなキミにはデコピンの刑」
僕は目を丸くして、直後に笑いが込み上げてきて、それは風花も同じだったらしい。
「このピザを私の肉、このファン○グレープを私の血と思いなさい」
「風花ってキリストだった? パンというかピザだし、飲み物もだいぶジャンキーだし」
「ふふ、だって、最後の晩餐だからこういうこともしてみたいじゃん」
僕らは駅から近いファミレスにやってきて夕食を食べていた。誰の連絡も受け付けないようスマホの電源は切っているので時刻はわからないが、空を見ているともう八時くらいにはなっているだろう。
ふと店内の時計を見ると七時半。三十分だけ僕の中の時計は早かったようだ。
そのことに少しばかり安堵して僕らは二人でピザを分け合った。
波が砂浜にぶつかって、砕ける。
「いやー、やっぱりここは良いね!」
ほんのり苦い匂いのする潮風に吹かれながら風花は大きく伸びをする。
「だな」
僕はこの砂浜を見渡した。
ここには一年前にきたことがある。その時の僕と風花の関係は友達で、彼女の屈託のない性格に片想いをしていた夏休み、何人かの友達とやってきたのがこの海だったのだ。
海から帰る直前に僕から告白し、付き合うことになった。
だから、ここは僕らにとっては最初の場所であった。
それからしばらく二人ではしゃぎ、十一時を回った頃。風花は真っ暗な海を見つめながら砂浜に膝を抱えて座った。
そして横をポンポンと左手で叩く。こっちに来いという合図だと僕は理解してそこに座る。僕らの間に言葉はなく、ただ寄せては引く波だけがあった。
目の前の海は暗く、静かだ。少し、上に視線を向けてみると海の向こうには星が瞬いていた。
「綺麗だよな」
「そうだね」
返事が来たことに安堵したが、そこで会話は終わってしまう。無言に耐えていると、今度は風花が言葉を発した。
聞かれることのないと思っていた質問。そして、答えられるはずのない質問。
「明日からの予定を教えてよ」
予定、そんなものあるわけない。でも、これを答えないと風花が不安になるだろう。だから僕は適当に思いついたこと、僕にとっての理想を語る。
「まずは僕らが住んでる街の花火大会に風花といくだろ?あ、プールとかも行きたいな。風花の浮き輪姿とか絶対可愛いだろ。うーん、あとは……」
続きを言おうとしたら、頬に強い衝撃を受けた。よろめいて、ひんやりとした砂浜に横から倒れ込む。
「真面目に考えてよ!」
「ふう、か……?」
僕は右頬を押さえながら彼女を見る。暗闇でも分かるくらい、彼女は苦しげに顔を歪めて、そして、涙を流していた。風花が口を開く。
「私はいなくなるんだよ! キミが今いった未来は来ない! そんなに期待して、何が楽しいの!?」
心の中で沸々と激しい感情が湧き上がるのを感じる。理性でなんとか抑えようと努力するが、無理だった。
「そんなの分かってる! でも! 最期くらい希望を見たいんだよ!」
潰えると分かっている、ただ楽観的でバカな考え。だけど、それに縋りたいのだ。
僕は大きく深呼吸をする。冷静になっていく思考。再び口を開く。
「風花はさ、不安?」
僕の問いに風花は涙を拭いながら答える。
「不安だよ。当たり前じゃん。私は消えて、誰の記憶にも残らなくなるんだよ」
「分かった。じゃあ、やってやる」
僕は一つ決心した。覚悟も決めた。それはこの世界の理に反することなのだろう。
「やってやるって、何を?」
風花の疑問の声。僕は彼女の手を強く握って、伝えた。
「僕が死ぬまで、風花のことを好きでいてやる」
「え」
彼女はその綺麗で大きな目をまん丸にする。僕が、その中に滲む。
「風花は僕の一番大事な人だ。そんな簡単に目移りするもんか」
「それは、すごく嬉しい、けど、無理なんだよ。キミは私のことを忘れちゃう。そうしたらキミが私のことを好きだと思う気持ちすら無くなっちゃうんだよ」
「そんなこと言うなよ。大体、風花一人に何そんな運命背負わせてるんだよ。そんなクソな運命なら抗ってやる」
口ではこういったが、正直不安だ。だけど、彼女に少しでも安心してほしくて──
そして、僕は彼女を抱き寄せ、風に消えゆく花に誓った。
タイムリミットはもう目の前に迫ってきている。
「ねえ」
彼女の声。僕は彼女の目を見る。その目には僕の顔が映っていて、でもその奥には不安と恐怖が見えていた。
「最期まで、そばにいて」
今までで一番弱々しい彼女の願いに僕は胸を拳で叩いた。
「任せろ」
そうして僕はぎゅっ、と彼女を抱きしめる。確かな体温と柔らかさを持った華奢な体躯はぴくりとみじろぎして、肩を震わせた。
その震えは一度だけで終わらない。カタカタと震えて、嗚咽が鼓膜を揺らす。
「嫌だよ……私、消えたくないよ」
「そうだよな」
「でもキミがいてくれて本当に良かった。嬉しかったよ」
「僕もだ。風花が僕の隣にいてくれて幸せだった」
「ごめんね。一年間しかいられなくて……」
その運命は一人の少女が背負うには重すぎる。僕はさらに強く風花を抱きしめる。強く、強く、この腕の中からなんとしても離さないように。
「大好きだよ……!」
風花のその悲痛な叫びが鼓膜を震わせたその時。
どこかで何かが嵌まるような。時計の針が動くような。
カチッ、と。そんな音が聞こえたような気がして。
僕は前方につんのめって倒れる。
「ぁ」
慌てて立ち上がる。辺りを見渡す。
「風花?」
砂浜には誰もいなかった。確かに体の前面に感じる温もり。そして、理解してしまう。風花はこの世界から消えてしまった。
嗚咽がこぼれて、僕は膝をつく。世界が暗くなって、何も見えなくなる。
ともに感じる、強烈な虚脱感。彼女がいなくなったことを強く認識したのだろう。
そう思ったが、また別の現象が僕に起こっていることに気がついた。
彼女との思い出が、消えていく。
彼女を想う感情が、薄れていく。
彼女のどこを好きになったっけ。
彼女はどんな人だったっけ。
──彼女って、誰だっけ。
「忘れてたまるか……!」
彼女の存在が、崩れていく。
彼女が、消えてしまう。
僕は頭を押さえながらうめき続ける。
「ああっ、クソっ!」
今にも切れそうな糸を手繰り寄せ、次第に細くなる光をたどる。
頭が割れるように痛い。今意識を手放してしまえば楽になるだろう。
でも、最後に残ったこの感情、彼女のことが好きだというこの感情だけは、決して忘れてたまるものか!
一際強くなった頭痛に顔を歪ませながら僕はただひたすらに彼女のことを想い続けていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。頭痛が引いていく。少しずつ気分が楽になる。
僕は直感的に終わったと安堵しヘナヘナと座り込む。波が砂浜に打ちつける音だけが耳に届く。涙が頬を伝って砂浜に落ちる。
彼女がどんな人だったのか、どんな声をしていたのか、どんな顔で笑うのか、僕はもう何も思い出せない。
その証拠に心に痛みは感じない。
でも、心にポッカリと穴の空いたようなこの虚脱感は彼女に対してもつ感情が消えなかったことを示していて、その事実が切なくて、そして嬉しくて、僕は呟いた。
「好きだ」
風に消えた花へ──
風に消える花へ くまねこ @yakurabe
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