Chapter-03
思えばこれは、私のちっぽけな意地から始まった戦いだった。
「瀬川迅一に負けたくない」という、実にしょうもない思いから始まった戦いだ。
誇りがある。誰にも譲れない目標がある。〝馬が誇れる騎手になる〟というゆるぎないただ一つの目標さえあれば何とかなる。
そう思っていたが現実はそう甘くはない。
最初でこそ見習騎手の減量特典やら、女性騎手の恒久的な減量やらそういうもので勝ててはいたが、結果私はそこで自分の実力を見誤ったのだろう。
もしかしたら、瀬川を超えられるかもしれん──
なんて甘っちょろい考えを抱いてしまったこと。
それこそが私の最大のミスで、最大の驕りだった。
そして勝つうえで一番必要な勘違いだった。
「うるっっっさいねんどいつもこいつも!! ────皐月賞はロジェールマーニュが勝つ!! いいから黙って走れやこのドテカボチャ!! バーカバーカ!! ハゲ!!」
そんな罵声を瀬川に浴びせて、私はロジェールマーニュと共に皐月賞へ向かった。
そしてロジェールマーニュは私の手綱に従って応え、直向に走って逃げて後続を突き放し皐月賞を楽勝した。
ダービーでは出遅れが響き二着となったが、菊花賞では本来の走りを見せてフジサワコネクトを下し一着。差されても差し返す力を持って、最強を証明して見せた。
最も速く、最も強い馬。
それがロジェールマーニュという馬だ。私が憧れた青毛のシャルル。その憧れが遺した血脈に生きる馬。私は今憧れの遺した背にいる。それがどれほど幸運なことか。どれほど幸福な話か。
だからロジェ。知っててや。
ロジェールマーニュという馬が強く、速く──美しいことを。
みんなに愛される最高のサラブレッドやってことを。
数々の名勝負を演じ、黒曜石の如き切味の脚ですべての馬を突き放していく〝理想のサラブレッド〟やってことを。
何より、己の限界を己でこじ開けられる強靭な精神力の持ち主ってことを。
そして誰よりも、私がロジェールマーニュという馬を愛していることを。
「知ってて、ロジェ」
私は控えから出てロジェがいるところまで小走りで向かい、いつものように顔を寄せては甘えてくるロジェを抱きしめた。パドックの観衆からざわりと声が上がる。私はすっと顔を上げたロジェを離して、頬を優しく右手で撫でて彼の鼻先に唇を落とした。
「ロジェ」
(何? 后子)
「私を騎手にしてくれてありがとう」
(何を言ってるの、君は最初から騎手でしょう)
「……ううん、私はロジェのおかげで騎手になったんやで。知ってて、ロジェ。私が己を信じられるようになったのも、限界を超える意味を知ったのも、全部ロジェのおかげや」
(僕は何もしていないよ。寧ろ僕の方が君に導かれて、ここにいる)
「やから最後にもう一度力を貸して。フジサワコネクトを打倒して、真の最強はロジェールマーニュと証明したい。勝って終わりたい」
(そうだね。……じゃあ僕からも言わせて。后子、最後にもう一度だけ力を貸して。僕を最短距離で勝利へ導いて)
ロジェは私の左頬にそっと鼻先をくっつけた。
まるで恋人を愛しむように優しく触れる。
「……ロジェ。私に多くのものを与えてくれて、ありがとう」
(礼を言うのは僕の方だ、后子。……必ず勝つよ。僕が、君の夢になってみせる)
私は国美さんに手伝ってもらってロジェの背中に跨った。
いつも通り、落ち着いた足取りでパドックを後にする。一枠一番にも関わらずパドックを出たのは最後だった。
観客から時折鼻水を啜るような音が聞こえていた。
その音を背に聞きながら、私は落ち着き払っているロジェの首筋をいつも通り撫でる。
全ていつも通りだった。
音が良く響く地下馬道を歩く。既にもう本馬場へ行っている馬もいるだろう。これも最後だった。何もかもが終わりへ向かう。
けれどそれを哀しいとか、寂しいとかはあまり思わなかった。
「また会えるよ、ロジェ」
くるりと右の耳が私の方を向いた。優しく頭を撫でて、光が溢れる本馬場へ出る。芝を踏んだのを見計らって渚ちゃんが手綱を外した。私が走るよう指示を出せば、いつものように軽い足取りで芝を駆け抜けてスタート地点へ向かう。
驚くほどに晴れ渡った空は、美しい青に染まっている。
雲はなく、時折冷たい風が初夏の熱気を奪っていく。ポケットでぐるぐると回る馬たちの列へ加わってみれば、『一八』の番号を背負うフジサワコネクトがいた。
冠を分け合う二頭が最内枠と大外枠──。
気合いは十分と首を動かすフジサワコネクトは、一瞬こちらを見て視線を外す。負ける気がしないという気持ちが伝わってくるが、私らだって負けてやる気はあれへんよ、と思う。ロジェは相変わらずどっしりと構えていて、何も気にするものなどないらしい。
ポケットから出た馬たちがゲートの方へやって来る。もうすぐファンファーレが鳴るだろう。ロジェールマーニュがそれを耳にするのも最後。
時計の針は戻らない。最後の事実は変わらない。
シャルルから続く最優の血脈を次代へ繋ぐために、このラストランが覆ることは無い。
何よりも屈腱炎という爆弾を抱えているのだから、これが最後だ。無理はさせられない。
だからこそ、真の強さを証明して終わらなければならない。私は顎ひもを締め直しグラスを下ろす。前には誰もいない──青い芝と空があるだけだ。
そして前を塞いでいた銀色のゲートが開き、十八頭の馬が一斉に躍り出た。
ゲートが開いてロジェ含め、各々自分のペースを作らんと走る。上手くスタートを切ったロジェは内側でハナに立たんと空いていたスペースへ進出し、そのまま先頭に立つ。しかし一気に上がってきたナイストゥミーツがハナを奪ってペースメーカーのような形で走り一コーナーへと向かう。
少し芝が荒れている内側しか場所がないので、どこかのタイミングで空隙が開いてくれることを祈るしかないがそれは望み薄だった。コーナーロスを減らすために馬たちは一気に内へ入って来る。黒っぽい芦毛馬が待っていたとばかりに私とロジェの前へ位置取り、横と前、そして後ろと三方向から完全に囲まれる。
私は暫くこのまま馬込みで走りつつ、向こう正面に入ったところで少しずつ馬郡が崩れて縦長になり始めると考えた。前が徐々に位置取りを前へ押し上げ、後ろを見遣れば少しずつだが予想通り馬郡が伸び始めている。だが完全にマークされているために馬郡から抜け出してハナを取ることができない。無理に内から抜こうとすれば確実に大事故になりかねないので、ここから抜け出すには前との距離が開きはじめなければ不可能だ。
二コーナーを超えて向こう正面へ、予想通りここは平坦なので隊列が縦長になっている。三コーナーに差し掛かるところから後続との距離が詰まり始めるはずだ。そろそろ前も後方も仕掛け始める──特にフジサワコネクトは、この向こう正面に入ってからの後半でロングスパートをかけて上がって来る。最後方まで凡そ十馬身はあるだろうか、その差を一気に詰めて三コーナーでは大体三番手まであがって来るので、それから逃げようとする前の馬たちもペースを上げ始める。
そうなれば──。
すっと、今私たちが走っている内ラチ沿いのスペースに、青い一直線の道が見えた。
全ての馬が視界から消えた。燃えるような心音と、ロジェの息遣いだけが私の耳に聞こえている。驚くほどに開けた視界が広がっている。
(あ、これ……勝てるわ)
過去の自分がいたならば、そんなんありえへんわアホ、と速攻で否定するだろう。だがしかし今の私は自分たちが勝つと確信していた。ほぼ無意識に手綱を前へ動かす。ほぼ同時に突如前の芦毛が左へ寄れて進路が開く。私は左手に持っていた鞭を素早く持ち替えて右へ叩き込んだ。私の激に応えたロジェはギアを変えて加速し始める。「⑥」のハロン棒を横目に通過する。一気に馬郡を突き抜ける。だが大外を回ってフジサワコネクトが視界に入る。
赤。
青。
私と瀬川の瞳が一瞬だけかち合った。
大外からフジサワコネクト。最内からロジェールマーニュ。そんな実況が一瞬だけ聞こえた。
私とロジェは四コーナーを引っ張る形で走る。外から来たフジサワコネクトが猛追して半馬身まで迫っている。だが私とロジェは、前だけを見ている。無意識ですべきことを体は知っている。左鞭を入れる。ロジェは少し内ラチから外へ持ち出して芝が綺麗な場所を走り始める。私はもう一度右へ、ロジェは手前を変えて無駄を極限まで減らして真っ直ぐに走る。
後続は来ない。突き抜けている。フジサワコネクトは追い縋っているが、影すら踏めていないことは音でわかっている。ゴールまであと僅か、仁川の直線には坂がある。
ここで距離が詰まるが、ロジェは更に私の激で加速して、〝坂で〟さらにフジサワコネクトの追撃を躱す。
私は坂を上りきったロジェの呼吸音を聞いて手綱を前へ前へと押す。もう一度右鞭を叩き込む。
ゴールまであと僅か。フジサワコネクトの剛烈な足音が聞こえる。
ゴールまであと僅か。けれど、
『────ロジェールマーニュが差を広げる、ロジェールマーニュだ、ロジェールマーニュだ!!!!
もう他には誰も来ない、ここは紳士の戦場だッッ!!!!
貴方と私、最後のワルツ──────!!!!!!』
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