Chapter-04 三センチ

「……ロジェぁぁああ!! ロジェ!! これ……これ勝てるぞ!! ロジェ!! 頑張れ!! 后子ちゃん!!」

「秀吉さんうるさいですよ、聞こえないじゃないですか……いや、でもこれは行ける!! 行けるぞ白綾!! 白綾ぉ────!!!! 頑張れ────ッッ!!!!」

「いやうるっさ!! 瀬川先輩も人のこと言えないっすよ本当……ってえ!!!? 先頭!? ロジェールマーニュ先頭!? 嘘、マジかよ!? スワンレイクリターンズだいぶ引き離してんじゃん!! は、白綾先輩頑張れぇ────!!!!」



 共有ルームは后子の名を叫ぶ者、ロジェールマーニュの名を叫ぶ者と半々程度だったが、誰もがテレビ画面の中で先頭を高速で突っ走るロジェールマーニュの姿を凝視していた。


 引き離されている牝馬スワンレイクリターンズは鞭を合図に再加速してロジェールマーニュを捉え始める。彼女は六戦六勝の歴史的名牝、それだけではなくエリザベス女王の所有する馬だ。騎手も女王の御前で負けてたまるかと檄を飛ばす。

 しかし白綾后子もまた同様に負けられない、負けたくない意地がある。騎手二人の意地がぶつかり合う直線でついにハナを突き進むロジェールマーニュの二分の一馬身ほどまでにスワンレイクリターンズがやってきた。



「逃げて后子ちゃん!!!! あとちょっと!!」

「差される!! 白綾逃げろ!!」

「白綾先輩、あとちょっと!! ロジェールマーニュ……!!」


 何だか悲痛な武内の声を皮切りに、残り数十メートルとまで迫った画面越しの二頭に騎手たちの声が浴びせられる。必死に后子の鞭に応え、スワンレイクリターンズを引き剥がそうと試みるロジェールマーニュ。絶対に差すと差を詰めていくスワンレイクリターンズ。



『……──ロジェールマーニュ、スワンレイクリターンズ!!!! もつれ合うようにゴォォオオオオル!!!! どっちだぁ〜〜〜〜!!!!』



 その部分だけ、妙に実況の声が大きく聞こえた。先程まで大騒ぎしていた騎手たちは全員黙る。写真判定となったようですね、と解説が付け加えた。まだ確定した、という言葉は出ない。アスコット競馬場の場内映像がテレビ画面には映し出されている。


「同着でええやんか……」

「女王の御前なんだからさぁ、気前良く優勝カップ二つくれよ」

「……もう審議始まって五分は経ったろ」


 不安感を紛らすように騎手たちはいつにも増して口喧しく喋っていた。既に審議開始から十分が経過しようとしている。

 瀬川は徐に二本目のハイボールを開けた。武内は立ち上がって枝豆と焼き鳥を何処からともなく持ってきて食べ始める。市村もほうじ茶を自分のマグカップに追加した。




『あっ!? 確定しました!! ──優勝はスワンレイクリターンズ!!』




 しん、と一瞬で共有ルームが静まり返る。ロジェールマーニュ失格とか言われないよな、という緊張が、口に誰も出していないのに公然と共有された。


 ロジェールマーニュの名がアナウンサーの口から出る。そっぽを向いていた騎手たちは一斉に視線を画面へ戻した。




『──で二着!! 決着はなんと、レコードタイムです!!』


「ハナ差……三センチ……」




 瀬川の声がポツリと床へ落ちた。

 あれほど強い馬でも負けるのか。

 白綾后子とロジェールマーニュでも欧州には勝てないのか。


 ほんの僅かな差だった。誰が見ても同着で、映っていたスワンレイクリターンズの騎手でさえ首を捻っていた激闘。

 そんな戦いで、決着はレコードタイムというおまけ付き。


 テレビ画面の向こう側で、いやあ激闘でしたね、ロジェールマーニュと白綾騎手、本当にお疲れ様でした──そんな声が聞こえてくる。二着でも大健闘どころか、超がつく好成績だと言いたいのだろう。


 だが、そういうことではないのだ。

 白綾后子を含め、ロジェールマーニュ陣営は〝勝利〟のために欧州へ挑んだ。

 二着と一着では天と地ほどの差がある。だからこそ、その恨み言を口にせずにはいられなかった。



「同着でいいだろこんなん……」


 瀬川はハイボールを一気に半分まで飲み、武内が食べていた焼き鳥を一串強奪した。「あーっ!?」という武内の声は無論、無視して。




 ✤




 スワンレイクリターンズに軍杯が上がった。

 ハナ差三センチでこっちが後ろにおったらしい。


 私は馬装やらを全部外して国美さんに預け、検量室でパトロールビデオを繰り返し見ていた。私は少し寒さを感じて着ていたジャージのファスナーを一番上まで上げた。


 スワンレイクリターンズという六戦六勝の欧州が誇る歴史的名牝。しかもエリザベス女王陛下所有の馬で、そんな名牝と互角に叩き合った。その事実は変わらない。スワンレイクリターンズを追い詰めたのは間違いなくロジェールマーニュなんやから。



「ミス白綾」

「マーティンさん」


 話しかけたのは私同様金髪碧眼のマーティン騎手だった。彼はスワンレイクリターンズの主戦騎手で、新馬戦からずっと手綱を取っている。昨年もこのゴールドカップを制し、スワンレイクリターンズはこれで二連覇となった。

 私は好き放題に乱れた髪の毛をさっと綺麗にしてから彼に向き直る。にこやかに握手を求められたので握り返せば、「ありがとう」とだけ言われた。


「……貴女と、ロジェールマーニュと戦えて良かった。私はあなた方のような素晴らしい人馬がいた事を忘れません」

「こちらこそ、歴史的名牝とこんな風に戦えて光栄です。ありがとう」


 あはは、と笑って私は視線をパトロールビデオへ戻す。とんでもない戦いだったと思う。日本馬の過去最高着順を更新し、無敗の名牝に土をつける後一歩手前まで追い詰めた。

 だがあと僅かに勝利へは届かなかった。レース運びは驚くほど完璧に進んだはず。スワンレイクリターンズとマーティンの意地──それが僅かに私たちを超えていたという事だろう。


「またイギリスへ来てください。その時はもう少し余裕を持って」

「はぁ……でも、私がまたアスコットに来るかは馬主さんが決めはりますから」

「はは、確かにそうだ。それじゃあ私は表彰に行ってきます」


 マーティンはそう言ってどこか残念そうに去っていった。私は妙な引っ掛かりを覚えながら検量室を後にする。外では国美さんと神代さんが待っていたので私は慌てて駆け寄った。


「やあ后子ちゃん。いいもの見せて貰ったよ」

「神代さん、国美さん……こんな凄い馬に乗せ続けてくださってありがとうございます。私……」


 二人を前に頭を下げ、思う。

 勝てる要素は転がっていた。だが競り負けた。何度目だろうか。一度抜き去ったはずの馬に差されるという展開は嫌というほど経験している筈だったのに。置き去りにしてきた悔しさがこみあげてくる。

 私は唇を噛んで泥で少し汚れたズボンを握りしめた。


「顔を上げてくれ。……僕はね、君はロジェールマーニュと出逢うべくして出逢い、そしてその背中に跨っていると思っているんだ。だからそんな顔しないでくれ。日本馬が欧州で勝つなんて、シャルルマーニュでもできなかったことだ。上々さ」

「……次が、あるなら。次があるなら、私は」


 最早懇願だった。負けたくない意地もあったが、ロジェールマーニュの背中を誰にも譲りたくないという、どうしようもない独占欲だった。

 だが神代さんはそれに柔らかく微笑み、一言だけ零す。


「ああ、無論だよ。来年も来よう。こんだけ走れるなら、海外GⅠを勝てる日はそう遠くない。そうだろう、国美くん」

「そうですね。フジサワコネクトも遠征するそうですし……秋に向けてしっかり休んで、また力をつけてもらいましょう」


 国美さんはそう言って、戻ってきた勝馬のスワンレイクリターンズを見遣る。彼女はどうよ、やってやったわよ、と言うような誇らしげな表情を浮かべていた。流石に女王の馬だからか、その表情もすぐにやめて柔らかく品のある顔つきに戻っていた。


 鹿毛の美しい馬体をバランスよく揺らして歩くスワンレイクリターンズ。周囲には多くの人たちが彼女を囲んでいる。その中には無論──馬主である女王の姿もあるのだろうが、かなりガタイのいい黒服たちがいるので、それを伺い知ることはできない。



 ぼんやりスワンレイクリターンズを眺めながら、私は脳裏に今までの敗戦を思い出す。フジサワコネクトに追いつけなかった日本ダービー。ラヴウィズミーにあっさり逃げ切られた有馬記念。そしてそれ以前、酷い有様だった何百連敗の冬の日。

 スワンレイクリターンズは欧州が誇る歴史的名牝だ。連綿と受け継がれた血脈の先にいる彼女は、私の視線に気づいたのかぴたりと脚を止めてこちらをじっと見た。


 それに気づいたのか、一人の子供を連れた女性が私の方へ向かって歩いてくる。金髪碧眼だった。美しいストレートロングを流し、小さな子供を抱きかかえている。男の子は、スワンレイクリターンズを模したぬいぐるみを大事そうに抱えている。



「白綾后子騎手ね」

「あ……初めまして。ええと、申し訳ありません、無作法で」

「いいえ、気にしないで。スワンレイクリターンズは貴女を気にしているようだわ。良ければ撫でてあげて。……耳の間を撫でられるのが好きなの」


 彼女はそう言って私をスワンレイクリターンズの前に連れて来た。初めて見る私にきょとんとしている彼女は、耳を立てて私の方へ鼻を寄せた。匂いを嗅いで私のことを窺い知ろうとしているのだろう。


 少し顔を下げたのを見計らって、私は言われた通り耳と耳の間を撫でてやった。気持ちよさそうに鼻を伸ばして、数度瞬きをする。私は「またね」と声を掛けて離れた。



「貴女に逢えてよかった。そしてごめんなさい。……またイギリスへいらしてね」


「え」



 彼女は子供を抱えて離れていった。私はそこで漸く気づく。

 母は私と同じく金髪碧眼だった。父曰く、容姿も似ているらしい。殆ど記憶にないが、唯一違うのは、この波打ったくせ毛だったという。


 目の前の女性の、美しい──真っ直ぐな、月色の金髪。

 蓋をしていた記憶が溢れ出す。




「待って」


 その声は掠れていた。彼女は気づかず足を止めることは無い。スワンレイクリターンズと一緒に遠ざかっていく。




「待って、お母さん」

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