Chapter-03 アスコットゴールドカップ(2)

 アスコットゴールドカップは平均決着タイムが四分と少し、という長丁場のレースだ。


 日本はこのレースが行われている時間は真夜中。深夜十二時過ぎというのにも関わらず、栗東トレセン内の独身寮──その共有スペースには多くの騎手が集まっていた。


 その輪の中心にいるのは后子の同期である瀬川迅一である。后子とロジェールマーニュ同様に、七月にはフジサワコネクトと共に英国遠征をおこなう予定だ。

 キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークスに挑む。過去日本馬の最高成績は二着。しかし瀬川は「フジサワコネクトなら勝てる」という確信を持っていた。

 そしてそれと同じように、「ロジェールマーニュと白綾后子なら、アスコットゴールドカップを勝つ」と思っている。



「……白綾」


 日本語の実況でスタートしました、という声がテレビから聞こえる。瀬川は不安を紛らわすようにハイボールの封を切った。普段よく飲むはずのハイボールの味を全く感じないぐらいに瀬川も──横にいつの間にか座っている武内秀吉も、后子を慕う後輩の市村も、緊張しきっている。自分のレースよりはるかに緊張してテレビ画面を凝視していた。


「ロジェールマーニュ、前行かなかったな……怖いな……なんか、なんか怖い迅一ィ!!!!」

「ちょっ秀吉さん抱き着かないで!! い、市村!!」

「いや二人ともそう言いつつ抱き着かないでもらっていいすか!? むさいっす!!」


 男二人に抱き着かれる市村は嫌がりながら抜け出そうとするが、存外に力の強い二人から抜けることは出来ない。画面の中で駆け抜けるロジェールマーニュは、馬郡の後方──その外側に位置取って、芝の比較的綺麗な場所を走っている。コース取りは相変わらず巧いなと瀬川は感心しながらテーブルの上の寿司を口へ放り込んだ。味はしない。ハイボールを流し込んで寿司をほぼ丸のみにする。


 スタンド前を通過し馬たちは第一コーナーへ向かい走っていく。ロジェールマーニュは相変わらず後方の外側を走り、その内側に帯同馬のナヴィアヴェラがぴったりと伴走する形で走っているのを見た。


「后子ちゃん、徐々に上がらせる気だなこりゃぁ。ロジェールマーニュって春天じゃぶっ飛ばしてるけどよ……映像振り返るとロングスパートかけてるんだよな」

「確かにそうですね。……ロジェールマーニュの走り方というか、脚質……ですけど。本当は追い込み掛けるのが得意な馬なんじゃないんすか? 脚が速すぎて、逃げているだけで」


 市村はマグロの寿司を取り皿にとって醤油をつけ、口へ運ぶ。瀬川はテレビを見ながらぼそりと呟いた。


「マルゼンスキーかよ……」

「新時代のマルゼンスキーだなぁ」

「……瀬川先輩、これ本当に勝っちゃうんじゃないすか? ……なんか位置……上げ始めてません?」


 市村は震えながらテレビ画面を指さす。そこには、再び徐々に外側に持ち出して──前へ進出を開始するロジェールマーニュと、鞍上・白綾后子の姿がガッツリ映っている。




 ✤




 第二コーナーを通過して二本目の直線へ突入する。僕は前を見据え、二番手に追走する馬の横顔を捉えた。僕に位置を譲ってくれたナヴィアヴェラは僕から三馬身後方につけており、僕は出来るだけ彼が前に行けるだけの隙間を作ったうえで前を狙った。それも后子の指示だ。


 二番手と三番手は横に広がっており、今の位置では外を回らなければ先頭へ行くことはできない。今外を回れば距離を無駄に走る必要が出る──というのは、僕と后子の一致した思いだ。


(流石に簡単に勝たせてもらえるわけあれへんな)


 そんな声が聞こえる気がする。だが、后子は落ち着き払っており僕もそれに倣う。僕は后子の意志の輪郭を理解し始めていた。

 恐らく、この直線が終わるギリギリまでこの位置で粘る。そうするとこの馬たちはコーナーロスを減らすために内側へ入る。となると、外を通る道が開く。そこが開いた瞬間に加速し、その外を回って──前へ。


 僕の予想と后子の思惑は嚙み合っている。それは手綱から銜へ伝わる感触でよくわかる。



「────行くよ、ロジェ」


(ああ、行こう。そのために────ここにいる)



 コーナーが迫る。前の馬たちは予想通りコーナーロスを減らすために内側へ少し入った。后子は手綱を動かして僅かにできた外側の道へ僕を誘導し、僕は後ろ脚で芝を蹴り飛ばして更に加速した。コーナーリングは正直日本よりも大変で──アスコット競馬場のコーナーは急で素早く手前を交代させる必要がある。そうしないとただでさえ外側にいるのでさらにロスが生じるからだ。三本目の直線へ入り、二番手に付けて先頭を走る馬の影を踏んだ。後方の馬たちはかなり縦長になっており、ナヴィアヴェラは中団より少し上ぐらいか、四番手から五番手の位置にまで上がってきている。


 後半。ここから全体のペースは上がり始め、隊列がさらに縦長に展開していく。最後方にいる馬が前に届くかどうかはここからの展開がカギを握るだろうが、この段階で二番手まで位置を押し上げた后子の腕は正しいと僕は確信していた。脚は残っている。息も続いている。芝の感触には最初の長い直線で既に慣れている。だから、このレースには──



 勝てる。



 后子は手綱を前へ動かした。第四コーナーが迫り始める。僕は真横を走っていた欧州馬を抜き去って前へ躍り出た。前にはもう誰もいない。僕らだけだ。追われるのは慣れている。しょっちゅうだ、そういうレースをずっと日本国内でしてきた。




「……行ける!!!!」


(──勝てる、いや……勝つ!!)




 何かが軋むような音が僕の耳に飛び込んだ。僕は手綱の動きに従って走るリズムを速くして脚を素早く動かす。このコーナーを超えれば残りは直線となる。手前を交代させながら最短距離の直線を突っ走ればいいだけのことだ。手前を交代させるのは后子の指示がある。考えるな。脚だけ動かせばいい。右鞭が入れば右へ手前を変え、左鞭が入れば左へ手前を変えればいいだけのこと。



 ──脚を動かせ、馬体を前へ運べ!



 後続が迫ってきているのは音でわかっている。スワンレイクリターンズが来ている。彼女の鹿毛の馬体がもうすぐそこまで追走しているのはわかっている。振り切って逃げて、そして突き放す。そうやって勝つのが僕らのやり方だ。


 僕は后子の鞭を合図にさらに加速し、手前を左に変える。ゴールが迫って来る。踏みつける足場が後方へ飛ぶ。景色が視界で流れ去る。




 ゴールまで、あと二〇〇────



 欧州の馬場は重い。本当に重い。速く走ろうとすればするほど、一気にスタミナが削れていくのがよくわかる。

 過去の日本馬が敗戦した理由もよくわかる。本当にしんどい。もう今すぐに走るのをやめて帰りたくなるぐらいには。それでも僕は絶対に走るのをやめる気にはなれない。


 だってそうだろう。

 鞍上には后子がいる。もう負けないと誓った。后子に敗北の泥を被せないと決意した。后子を乗せてどこまでも駆け抜けていくと誓った。



 ゴールまで、あと一〇〇────



 右に手前を変える。半馬身程前に僕はいるが、スワンレイクリターンズを振り切れない。やはり欧州の歴史的名牝を振り切って何馬身もつけての完勝は厳しいかもしれない。


 いや、そんなことを考えている場合じゃない。もうあと数歩で決着がつく。目の前にゴールが迫っている。スタンドの歓声が耳を叩く。后子の左鞭が飛ぶ。手前を変えてさらに前へ。



「──ッ、ゔぁァア!!」

(──振り切れる、行ける!!!!)




 真横にはスワンレイクリターンズ。

 ────刹那、ゴール板を通過した。


 彼女と同時にゴール板を通過し、僕は向こう側まで走ってスピードを緩めていく。


 分からない──本当に僕が先着したのか? 想像以上に息が上がっているのが自分でもわかる。僕は手綱を引かれて常歩に切り替えて歩き息を整えた。


 后子の口から血が出ている。唇も切れているようだが、口の中から血液が漏れているように見えた。僕は后子を気にしながら、彼女の誘導に従ってスタンド前へ戻り来た道を帰る。


 スタンド含め、場内はざわついていた。恐らくまだ決着が出ていないのだろうな、と僕と同じように帰っていく、スワンレイクリターンズを見て思う。


 未だ決着はなく────熱の残る会場では、騎手たちの声も馬の歩く音も、何もかもが全て遠いもののように聞こえていた。


 拍動している心臓の音だけが、僕の鼓膜を揺らしている。

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