Chapter-02 春の盾
天皇賞・春──二日前、夕方。
『……発達した積乱雲が近畿地方に向かっており、週末は大荒れの天気が予想されます。ベランダに出しているものは家の中に収納するなど、風・雨対策をお願い致します。
こちらは京都市の現在の様子です。かなり……風が強いようで、ああカメラが揺れていますね……横殴りの雨がアスファルトに叩きつけられています』
スマートフォンのワンセグ機能で流れるテレビのニュースがそんな風に言う。僕は馬房から顔を出して国美の方を見た。死んだ魚のような目でスマホを見ている国美は、僕の視線に気づいたのかスマホの電源を落としてズボンのポケットに収納した。優しく僕の顔を撫でてくる。別に撫でてほしいわけじゃない。
当日天気が悪いとなれば皐月賞の時のように不良か重、回復しても稍重の馬場となるだろう。僕は撫でられるがまま、特に抵抗せずに考えた。
三二〇〇メートルという未知の距離を駆け抜けるレース、天皇賞・春。僕の兄であるラヴウィズミーは昨年と一昨年の勝馬となり今年は三連覇がかかる大一番。僕は去年の有馬記念で二着になった。兄に競り負けた。二度同じ負けを喫することは無い。
(ただ前へ。前へ行く。僕にとって、意識するのはそれだけで十分……いや。クラシックの時のようにはいかない。古馬の戦場はレベルが違う。いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた優駿たちの戦場。勝つには、〝ただ心地よい速度に身を委ねる〟だけでは駄目だ。きっと后子ならそう考えているはず────)
「有馬記念負けて悔しかったか、ロジェ」
そんな風な事を問う国美は、どこか安堵した様な表情のまま僕を撫でていた。と言っても僕が国美に対して思うことは当然すぎる質問するなこいつ、というただ一点である。どうにも国美は后子を当てにしすぎている気がしてならない。理由はよくわからないが、「ヤナ」というヒトが関係しているのだろうな、というぼんやりした察しはついた。
「なんでそんな目で俺を見んだよ……。まぁ、勝てるさ。お前不良馬場得意だもんな……俺が心配なのは当日の雷よ……雷雨予報出てんだもんこえぇよ……」
(雷が怖いの? 四十代も後半に差し掛かろうというのに?)
「お前今俺のこと若干馬鹿にしたろ。こえぇのは雷雨で天皇賞が中止になることだっつの」
僕の呆れる様な視線に国美はそう言った。確かに雷雨で天皇賞中止なんて最悪のシナリオだ。しかし皐月賞の時も当日は土砂降りの大雨で、発走時刻直前に雨があがった。国美はそれを期待していればいい。僕は馬場が悪かろうが良かろうが正直関係ないし、后子の導く道筋はいつだって勝利に最も近い距離なのだから。僕は導かれた様に、最速でその道を突っ走る。
后子と言えば、彼女は僕とクラシック二冠を達成して以降調子が良い。乗る馬ほぼ全てが掲示板圏内と、以前とは真逆の成績を叩き出して破竹の勢いで快進撃を続けている。これは渚情報だ。
先日行われた新馬戦では左隣の馬房に住む僕の弟──ドライフラワーとコンビを組んで快勝。
現在ドライフラワーはオープンクラスに昇格したらしい。次走は夏──北海道開催のレースが待っている。新馬戦よりも強い馬がいる舞台で勝利を収められれば、GⅠへの道が少しずつではあるが開けるだろう。と言ってもダートなので、基本的に同じ舞台で走ることはないのだが。僕よりもかなり小さい弟は、その小さい体ながら驚くほど軽やかに──俊敏に駆け抜ける。
担当の厩務員に洗われて戻ってきたドライフラワーと目が合う。僕はじっと見つめ返してそっと鼻先を小さな弟に寄せた。
(お兄ちゃん、春天がんばってね! いっぱい応援する!)
(うん。……頑張るね)
僕と同じ青毛の弟はそう言って楽しそうに馬房へ戻って行った。
率直に言って、僕は今まで「レース頑張るぞ」と気負った事がないので頑張って、と言われてもあまりピンと来なかった。
心地良いスピードに身を委ねているだけで、勝つ事を意識するのはあくまでレース直前だけだったから。
だが今は違う。
ドライフラワーの言う通り、僕は頑張らなくてはいけない。
兄に、ラヴウィズミーに負けたくない。もう僕の鞍上にいる后子に敗北の泥を被せたくない。
(そうだ。僕はもう……負けない)
僕は〝無敵の紳士〟ロジェールマーニュ。
ならばその名に相応しい、優雅かつ剛健な──圧倒的な走りで応えなければならない。皐月賞と菊花賞を奪取した世代の頂点として。
そして何よりも僕の手綱を握る后子のために。必ず完璧な勝利を手中に収め、僕が最強の馬だと証明してみせる。
──もう、負ける事は無い。己に克ち、天皇賞を制そう。
心の炎は、いい感じに灯ったままらしかった。
✤
ぽつ、と水滴が芝を濡らし、それを合図に静かな雨が降る。京都競馬場が居を構える淀の空はどんよりした雲に覆われていた。
五月初頭、初夏の気配が近づく中で行われる最長距離GⅠ──天皇賞・春。皐月賞の時ほどの大荒れではないにせよ空から音なく滑り落ちる水滴が芝と土を湿らせ、馬場をぬかるませて走りにくくしていく。良馬場得意な馬たちは苦戦を強いられるだろうが、不良馬場が得意な馬たち……ロジェールマーニュやフジサワコネクト、ラヴウィズミーなどの馬は更なる能力を発揮するだろう。
午前中は晴れていたのに、という声もちらほら聞かれたが、まず私が雨雲連れて来たみたいな感じやしなぁと思いながら私は髪を結びなおした。
地下馬道の道中、ロジェの鞍上でふと思い出す。先月阪神で行われた桜花賞に別の厩舎から騎乗依頼があったので出ていたのだが、この時は今日の比ではない大雨で馬場がもう最悪、しかも私が騎乗した馬は不良馬場が苦手ときて大敗を喫した。
若駒と古馬では馬の纏う雰囲気が違う。三歳馬の戦場といえば同世代の競争、フレッシュさもあった。
だがこの古馬の戦場ではやはり、ラヴウィズミーの存在感は想像以上に大きい。
パドックの周回映像を見ても思った──ロジェよりも一回り大きいのでは、と錯覚するほどに仕上がった体に気負いを一切感じさせない足取り。何よりも落ち着き払っていて、〝気合いが乗っている〟とかそういう次元じゃない。
やはり血筋か、泰然自若としていて何も気に掛けていない。ラヴウィズミーの真後ろを歩いている鹿毛の馬の存在感が薄く感じられてしまう。
私は有馬記念の時、追いかけるラヴウィズミーの背から菊花賞の時のフジサワコネクトと似た雰囲気を感じ取った。
あの時は背骨に噛みつくような、喉元に刃物を突き付けられているかのような気配。絶対零度の勝利への執着を纏って、芝の上で圧倒的な存在感で他の馬たちを威圧して見せた彼女に似ているものがある。
だがラヴウィズミーの「存在感」というのは、フジサワコネクトの発した勝利への執着心とは程遠く〝ただそこにいるだけ〟なのに否応なく意識させられる──目を向けずにはいられない、そんなカリスマ性から来るもののように思った。
鮮烈な逃げ足で新馬戦勝利を飾り、そこから札幌記念と菊花賞を勝ち、ステイヤーの名を確固たるものにしてみせたラヴウィズミーの強さは折り紙付きだ。
私とロジェはその強さを昨年の有馬記念で体感し、私は私自身の至らなさを痛烈に感じた。
あの時私は己に負けた。
これは勝てん、追いつけん、差せんとどこかでブレーキを己に掛けて、さらに私たちを突き放し駆けるラヴウィズミーの背をただ呆然に眺めていた。
私の中で常に足りないのは克己心。見切りをつけるのも早すぎる。
そして嘗て負け続けた事を敗戦の免罪符にできるほど、今の私はもう弱くはない。
己に勝ち、対自分との戦いにもっていくことこそ私の在り方。ずっと知っていたはずなのに──私はあの時、手綱を握る手を緩めた。
本当に騎手として恥だ。それでよくもまぁ、ロジェールマーニュという馬の騎手を名乗っていると思う。でも、だからこそ確固たる決意がある。
ロジェールマーニュという馬の前を誰にも走らせない事。
ロジェールマーニュという馬に敗北の泥を被せない事。
そして何よりも私が私自身に勝ち続ける事。
長丁場となるレースで周辺を全く意識の外へ置くというのは無理な話だが、己との戦いに持ち込めればそれでいい。
(……私はもう────私にだけは負けん)
胸の奥でドクン、と心臓が大きく脈打つ。
抱いた誓いはいつしか私だけのものでは無くなった。
国美さんが、渚ちゃんが、そしてこの舞台を見ているすべての人が、ロジェと私に期待をかける。逃げ切って欲しい、と。兄・ラヴウィズミーに勝って無敵の紳士此処にありと示して欲しいと思っている。
「いよいよ……だな。ロジェ。后子さん」
右側で手綱を引く国美さんは私を見上げながらそう言った。クラシックの時とは異なり落ち着いた表情を浮かべている。黒いスーツジャケットのポケットから白い御守りの紐が出ていた。左側にいる渚ちゃんも落ち着いて手綱を握っている。すこし緊張はしているようだが、送り出す準備は万端と笑顔で私を見遣った。
「もうめっッッッちゃ応援します! ロジェ、后子さん、気負わず楽しんできてくださいね」
「控で見ててや。……勝利の女神が微笑むかは、まだわからへんけどね」
私だって示したい。叩きつけてやりたい。日本国内に死角無し、最強の馬はロジェールマーニュだとこの舞台で示したい。
でもそれだけではなくて。これは私が私に勝つための戦い。もう己に負け続けた事を顧みない為に、もう二度と己に負けない為に。
『誰も我が前を走る事罷りならん』
────その誓いを抱いて私とロジェは芝へ躍り出た。
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