Chapter-05 十年前、競馬学校(2)

 三年生になれば、二年生の後半同様に四月から九月まで各トレセンで厩舎実習を受けることになる。俺と白綾は含め、七人の同期は栗東に二年生の時から放り込まれていた(恐らく俺が美浦に放り込まれなかったのは親父が所属しているせいだろう)ので顔見知りも多い。


 自然と皆から「あぁそんな時期か~」という風に歓迎されるが、春はGⅠが連続開催されるとあって調教が公開される日には記者陣が多くいる。俺たち学生は厩舎で馬の世話をしつつその様子を窺えば、名だたるレースを勝つ馬たちが調教コースに向かうのが見えた。



「シャルルマーニュ」



 ぽつり、と隣の馬房から出てきた白綾が呟く。厩舎の周辺をうろつく青毛の牡馬、シャルルマーニュは無敗の三冠馬となった最強の馬だ。今年から古馬の一員となり、今週末の大阪杯へ挑む。


 極限まで研ぎあげた一切の無駄がない筋肉。夜空を写し取ったような黒い馬体が、朝日に照らされて輝いて──何て美しい馬なんだろうか。

 シャルルマーニュはぶるぶると頭を振って一度白綾のほうをじっと見た。ふい、とすぐに視線を外したが一度嘶いて、鞍上の武内騎手が歩くよう指示しても動かないままじっとしていた。



「あれ。おーい。シャルルマーニュ。……梃子でも動かねえな。機嫌悪い? 動きはそこまで……」

「あの、武内さん」

「ん? どしたん后子ちゃん」

「ちょっと……すみません。堪忍な、シャルルマーニュ」


 そう言って白綾はシャルルマーニュの前に行き、口へそっと手を当て銜の位置を軽く変えてやった。するとシャルルマーニュはお気に召したのか白綾が右に退いたのを見計らい動き出した。軽く歩いて一周し元の位置に戻る。遠目で見ていただけなのに銜が気持ち悪がっているのに気づいたのか、と驚いていれば、武内さんは鞍上から白綾を見下ろして言う。


「ありがとね。こいつ俺が触ると嫌がるのに。馬に好かれる体質?」

「そないなこと……ありませんよ。学校じゃいっつも振り落とされてましたし」

「うは、俺も落とされてたわ~。んでめちゃくちゃ教官にどやされた。それが今じゃこんなすげえ馬に乗せてもらえぉぉおお!? こらこら暴れんなって!!」

「た、武内さん! ……ああもうしゃあない、堪忍な」


 白綾は頭絡に思い切り右手の指を突っ込んで引っ張る。シャルルマーニュを下に向かせれば大人しくなったので、俺は慌てて駆けよりシャルルマーニュの状態を確認していく。特段これと言って問題があるようには見えなかったが、左前足にそっと触れてみれば何か────熱い。白綾も気づいていたようで、俺に視線だけでそれを訴えた。俺は余計なことかもしれないとは思ったが思い切って口を開く。


「あの、武内さん」

「ん? やっぱなんかあったか?」

「左前足に若干熱感が……炎症かもしれないです」

「マジか。……あ~~……これはちょっとまずいかもな……サンキュー后子ちゃん、瀬川ジュニア。ちょっと二人でシャルルマーニュ見張ってて。俺獣医さん呼んでくる」


 ひょいと馬から降りた武内さんは厩舎の横にあった自転車に乗って診療所へ向かって行った。厩舎の前にはシャルルマーニュと、俺と白綾が残される。


 存外に白綾に捕まっているシャルルマーニュは大人しくしている。白綾がシャルルマーニュの顔を優しく撫でれば、気持ちいいのか目を細めて右足で地面をひっかきながら白綾に擦り寄っていた。



「かなり好かれてるみたいだな」

「どうやろ。せやけど、シャルルが残した唯一の産駒に関われるとは思てへんかったわ」

「シャルル……十年ぐらい前の。骨折して一年休養を挟んで宝塚記念を勝った……」

「そう。柳沢騎手が騎乗して、無敗の三冠馬になって……んで、天皇賞・春も勝って。めちゃくちゃ強い馬やったけど骨折して。でも戻って来たんや。結果的に五歳になって挑んだ宝塚記念が最後になってしもたけど、やからこそ……みんな唯一無二の馬やて思てるはず」


 そう語る白綾は今までにないほど輝きに満ちた表情をしていた。白綾が言う「馬が誇れる騎手になる」という目標は、当時シャルルに騎乗していた柳沢俊一騎手の言葉でもあるという。柳沢騎手のような騎手を目指しているのかと問えば、それは違うという答えが返ってきた。


「騎手としての私は、唯一無二になることを目指してる。馬が、……そんな騎手になりたいねん。やから、私は己に負けたくない」


 そう言い終わった瞬間に、白衣を羽織った獣医を乗せて武内騎手の運転する自転車が戻って来る。

 獣医に向かって露骨に嫌そうな表情をするシャルルマーニュは、白綾の肩へ頭をもたげて隠れるようにしているが、容赦無く獣医は診察を始めるのだった。



 結果的にシャルルマーニュは大事をとって大阪杯の出走を回避した。屈腱炎を発症している訳ではないにせよ、たった一頭のシャルルの産駒ということも出走回避に関係しているか、という風に新聞は書いていた。


 白綾はこの一件でシャルルマーニュの馬主さんからいたく感謝されたらしいが、存外に嬉しくはなさそうな表情を浮かべている。シャルルは競走馬引退後すぐに死んでいるため、一頭しか産駒がいない。その唯一の産駒であるシャルルマーニュが不調である、という事には思う部分があるのだろう。



 栗東トレセンに来てから幾度となく思ったが、白綾は馬の扱いが異様にうまいと思う。スイングウィズミーが気難しい馬だったから、他の馬の機微を読み取るのがうまくなったのかはわからないが、少なくとも同期の中で馬の気持ちには一等敏感だった。

 最近では落馬もしないし、やはり周囲の白綾に対する評価は僻み込みのものなんだと俺は結論づけた。


 隣の馬房にいる牝馬は白綾がお気に入りのようでしょっちゅうちょっかいをかけている。寝藁を掃除する白綾の背中に鼻を寄せてもそもそと動かしたり、時折タオルに噛み付いて引っ張って遊んだり。俺の担当している馬はしらっとしていて、特に俺にも他の厩務員にも興味を示さない。


 調教に乗せてもらえるときも大概そうだが、俺は特段そんなに難航することもない。白綾と喋るのは厩舎にいる時だけなので彼女がどういう騎乗をしているのかはいまいち知らなかった。今日は偶然坂路での調教が重なって久々に白綾の姿を見た。


 とん、と軽く馬の腹を押して合図を出せば白綾が乗る馬は走り始める。軽やかな足取りだったのが段々と強く地面を蹴って坂路を駆け上がる。俺は長身を上手く馬の背に沿わせ微動だにしない白綾に、時折馬の背にいないのではないかという錯覚を覚えた。



 馬が自由に駆けているように見える。

 ひたすらに馬が自由に、前へ脚を運んでいく。驚くほどに軽やかに坂路を駆け上がったその馬の背は既に遥か彼方にあった。



「おーすっげえな后子ちゃん」

「武内さん」

「瀬川ジュニアとはちょっと違う凄さだわあれは。何つうかな。馬に溶け込むような騎乗っつうかね。馬が自由だ」

「やっぱりそう思いますか!?」


 俺は思い切り武内さんに食いつく。今まで競馬学校では聞かなかったストレートな白綾への謝辞がそこにあった。自分のことみたいに嬉しくて俺は思わず口角を上げた。



「思う思う。お前は馬を上手く操って人馬一体っつう感じだけど、后子ちゃんはもう馬になる感じ。今はまだ芽が出なくても、……あれは確実にもっと化けるぞ」





 ✤



 ──現在




「秀吉さんの言うとおりになりましたね」


 俺は独身寮の共有ルームで、ノンアルコールビール片手にほかの騎手とテレビを見ていた武内秀吉に話しかけた。持ち家もあるだろうに、何故か彼はよくここに入り浸っている。人好きな性分だからだろうと思われた。


「ん? 何がよ」

「白綾が、『今はまだ芽が出なくても確実に化ける』って話です」

「迅一お前……よくそんな昔のこと覚えてんな」

「秀吉さんだって覚えてたじゃないですか。……」


 俺にはないものが白綾にはあるんですよ、という言葉はお茶と一緒に飲み込んだ。共有冷蔵庫を開けてみると、付箋付きのラップが引っ掛けてある焼き鳥と漬物が冷蔵庫に入っていた。武内さんが貰ってきたらしい。


 白綾の文字で「食中毒になりたないならはよ食え」と書かれていたが、どうにも白綾は妙なところで面倒見の良さを発揮するな、と思う。

 昨年クラシック二冠をロジェールマーニュと共に達成した白綾は、破竹の勢いと言うべきか快進撃を続けている。有馬記念はラヴウィズミーに競り負け二着となったものの、次の天皇賞・春に出走するという話で栗東トレセン内は持ち切りだった。


 それだけロジェールマーニュと白綾の道行きに皆が期待し目を光らせている。

 俺もフジサワコネクトと天皇賞・春には出るんだけどな、と思いながら俺は焼き鳥を口に運んだ。



「ゔッッッ!!」


 なぜか塗られていたわさびが強すぎて思わず顔を顰めれば生理的な涙がにじむ。その様子を見ていた秀吉さんは爆笑しながら枝豆をのんびりと食べた。


「なぁ迅一、お前后子ちゃんのことキレさせたろ。つか現在進行形でキレられてる」

「……何で知ってるんですか?」

「お前の話するときめちゃくちゃ不機嫌が隠せてなかったからさぁ。ど~~せお前のことだ、『お前には才能があるから~』とか『俺の分も頑張ってくれ』とか言ったろ?」

「秀吉さんエスパーかなんかなんですか……?」



 何もかも図星を突かれて俺はそんな返事をし、笑いながら秀吉さんは残っていたノンアルコールビールを飲みほして俺の焼き鳥を強奪した。この人こんだけ食って何で体重増減ほぼゼロなんだろう。



「うん、まぁなんだ……。迅一、事実お前には才能がある。つか才能の塊、って言うほうが正しい。お前は天賦の才能で馬に乗ってるだろうよ」

「……ですが、その……」

「けどはっきり言って后子ちゃんは才能云々の次元じゃねえんよなあれ。執念と羨望を混ぜくって、それを燃料にして走ってきた結果が今出てるだけ」

「羨望──ですか?」


 驚いてしまった。白綾はあまり人をうらやむようなタイプではないと勝手に思っていたから、というのもあるが……俺自身が見ようとしなかった白綾の姿を秀吉さんが捉えている事に驚いていた。いや、当然だ。


 そう。俺はきっと白綾の言うように、己の才能に胡坐をかいていたのだろう。



「うん。后子ちゃんは努力の果てに覚醒した。最初から器用にこなせてたわけじゃないはずだ。それどころかマジで才能無いって言われるレベルで不器用だったと思うよ。

 だからこそ確固たる支柱があるんじゃねえの? そんだけじゃねえ。それにある意味、お前がきっと后子ちゃんに火をつけたんだろ。『あの無自覚嫌味クソ野郎に一泡ふかしたるわ』って」

「『無自覚嫌味クソ野郎』……それ俺の事ですか」

「今のところは后子ちゃんに対してだけ、だけどな。ま、気をつけろよ~~」



 秀吉さんはそう言って共有ルームから出て行った。ひらひらと手を振って緩く「おやすみ~~」とだけ言い残して、俺は一人共有ルームに残る。




「けどこれ……ふは、……手の込んだ嫌がらせすんなよ、白綾……」



 ラップに貼られていた付箋の裏に書かれていたのは、



『わさびで寝ぼけまなこもかっぴらいたやろ。感謝せえ。天皇賞・春で腑抜けた騎乗したら許さん』



 という怒りのこもったメッセージだった。白綾なりの発破なのだと俺は思って、机に張り付けていたその付箋を剝がして、自分のノートに張り付けた。

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