Chapter-04 十年前、競馬学校(1)
瀬川迅一。かの有名な競馬一家の長男で、父親も母親も祖父もジョッキー。十五歳とは思えないほどの高い騎乗能力と、完璧な筆記試験成績に加えて面接試験の口頭試問も全て完璧に答える。
まさに──〝望まれた騎手〟という代名詞がふさわしく、誰もが彼に対して憧憬のまなざしを向けた。同期の中でも抜きんでた実力者なのは疑いようがなく、出される課題は小石を超えるようにひょいひょいとこなしてしまう。
いつしか教官でさえ、瀬川に要求することは、プロに対して求めるようなことに変わった。
しかしそんな瀬川と対照的に、常に最下位を這いずり回っている紅一点がいた。
白綾后子。シングルファザー家庭出身でしかも借金まみれ。乗馬経験なしのド素人。騎手には向かないほどの高身長に、目を引く金髪碧眼。筆記試験成績は普通程度、面接の口頭試問は気合いで乗り切って中身はゼロのグダグダ。そして騎乗能力試験は「とりあえずまぁ乗ってはいる」という最底辺成績。
顔採用では? と疑われるほどの容姿の良さだけが彼女の取柄だった。
出された課題には何とか合格、補習常連で落馬も日常茶飯事。常に湿布を腕やら肩やら足に貼り、テーピングも欠かせない。
だが誰のことも顧みず、ただひたすらに前を向いている。〝馬が誇れる騎手になる〟という己の目標だけを見据えて同期のことなど毛ほども気にしない。
だからだろうか。一年生が終わろうというその冬の日。その芯の強さに惹かれるように、俺──瀬川迅一は白綾が落馬したのを良いことに、助け起こすみたいに話しかけた。
「大丈夫か?」
「ぁあ、うん。スイングウィズミーに落っことされんのはいつもの事やし」
「そうか……。う~ん……」
「用事無いならもうええ? ウィズミーの機嫌がマシなうちに、乗っとかなあかんねん」
「あ、ああ。……怪我、気を付けろよ」
「言われんでも。ウィズミー、乗せてや……嫌なん? うっ……」
左腕を抑えたまま白綾は鹿毛の牝馬、スイングウィズミーに話しかける。恐らく左腕がかなり痛むのだろうと思った。以前とは異なり受け身も取れていなかったように思う。今回は結構派手に落馬していたので俺は心配しつつ彼女の様子を見遣った。
スイングウィズミーに乗ろうとする白綾はうまく左腕が動かせないようで痛みに耐えながら鞍に手をかけ、鞍上へ行く。先ほどよりも大人しくしているスイングウィズミーは白綾を乗せたまま、軽く歩き始めたが鞍上の白綾はじっと左腕を抑え険しい表情を浮かべていた。
同期十四人の中で唯一の女子生徒。だが振るわない成績のせいか教官にもしょっちゅう怒られているし、スイングウィズミーにもしょっちゅう振り落とされて芝の上に転がされている。それでも前を見据えられる理由が俺にはわからなかった。
普通に考えて「向いてねえから辞めたらどうだ?」とまで言われたら退学を選んでもおかしくないと思う。それに入学してから一度も教官から褒められているところを見たことをなかった。
他だとスイングウィズミーの馬房では思い切り前足で蹴られたとか、そういう話も聞く。
午前中の騎乗訓練を終えて戻ってくれば、教室に白綾の姿はなかった。同級生に聞けば「さぁ?」というぼんやりした返事が返ってくる。俺は先ほどの左腕を抑える彼女の姿が妙に気になり、教室を出て廊下を歩いていた教官をとっ捕まえ話を聞いた。
「白綾? ……ああ。落馬して左腕折った。病院だよ」
「そう……でしたか」
「別にお前が気にする必要はない。あんだけ落馬してんだ、いつ骨折ったっておかしくねえよ」
「それは、そうかもしれませんが……。でももう少し何か」
「やたら気にするな? 気にしなくていいっつってんだろ。あいつは本当に才能がない。面接官が通したのも受験生の中で唯一女だったからだ」
何てこと言うんだ、と反論したかったが、その言葉が口から出る前に教官は去って行く。俺は結局口を噤んだまま教室に戻り椅子に腰を下ろす。
才能がない、のたった一言で片づけられる白綾の事が頭によぎる。
ならば俺は? 確かに俺の父も祖父もジョッキーで、俺は幼いころから馬に触れ合いジョッキーになるものなのだと、そう思って競馬学校にやって来た。
周囲の人間にそうあることを望まれてここにいる。だが白綾は違う。
自分の意志で決めてジョッキーになることを選んだ。その選択を才能がないという一言で片づけるのはどうなのだろう、と思う。
選ぶこと。選ばないこと。選択することには勇気がいる。自分の意志で自分の道を決められることは一種の才能だ。白綾が己に掲げる「馬が誇れる騎手になる」という一つの目的は、きっと誰かから与えられたものじゃない。俺はそんな風に自分の往く道を自分で決めてここにいるわけじゃない。
──望まれて、ここにいる。
その差がいつかきっと顕れる日が来るような気がして、俺は白綾の事を考えるのを辞めた。
全治一か月の骨折を負った白綾が病院から戻ってきたのは三日ほど経ってからだった。腕を釣っているのかと思っていたが、存外に骨折自体は軽微だったようで普通に両腕を動かしている。だがやはり痛みは走るようで以前よりも動きが遅い。教官はその様子をじっと見ながら何も言わず黙っていた。
俺は馬装の手入れをし始めた白綾に近づき話しかけるが、「別にいい、頼んでへん」と一蹴されてしまう。白綾は俺を一瞥して思いつめた表情のままスイングウィズミーの蹄にオイルを塗った。馬房での馬の扱いは同級生の中でも一番上手いと思う。
気難しいと有名なスイングウィズミーも最近では大人しく白綾にされるがままで、蹄が終われば鬣をブラシで梳かしてもらっている。気持ちよさそうに目を細める彼女はブラシに頭を摺り寄せて「もっと」と要求する。白綾は少しだけ口角を上げてスイングウィズミーの体もブラシで軽く撫でた。
全ての授業が終わり夕方になれば、寮の談話室に白綾がいたので俺は前に座った。知らぬ間に白綾の事を探していたと気づく。探すには金色の髪は見つけやすいが白綾はあまり好きではなさそうだと思ってしまう。
片方の眉を器用に上げて、白綾は俺をちらりと見る。何か大学ノートに書きつけているようだったが、俺が前に座るとノートを閉じて右ひじをテーブルについたまま視線を逸らした。
「骨折、軽くて良かったな」
「せやね」
「白綾はその……何でそんなに頑張れるんだ?」
「……は?」
「いや、嫌味とかじゃなくて純粋な疑問! だってほら……めちゃくちゃいっつも怒られてるし……モチベーション、どうやって維持してるんだろう、って……」
白綾の表情がさらに険しくなった気がして、慌てて俺は言葉を付けたす。青い瞳が俺を捉える。じっと見つめられて流石に俺はちょっとドキドキしてしまう。
何せ白綾は顔で食っていけるレベルの美人だった。顔採用は否定するが、彼女が美人なのはどうあがいても否定できない。
「私はただ、馬が誇れる騎手になるって決めてるだけや。それ以外なんもない」
「一つのブレない芯を持つこと……か?」
「まぁ、敢えて言うならそういうことやね」
「何が……馬が誇れる騎手になる、だよ。まともに馬乗れねえくせに」
一つの声が空間に響く。白綾は声の主のほうへ目線を遣ったが、特に気にする様子もなくそのまま黙っていた。俺は嘲笑するような声音で語った同級生を制止する。
「おい、佐々田……お前な」
「瀬川。お前なんでこいつの事やたら気にしてんだ? どうせ卒業しても成績不振ですぐクビだろ。才能がねえ奴に懇切丁寧に教えようが無駄なだけだ」
「っ、お前何言ってんだ!」
思わず声を荒げれば白綾は冷たい視線で俺たちを一瞥した。本当に心底どうでもいい、という感情が見て取れる。
俺が白綾のほうに向き直って黙れば、狙っていたかのように沈黙を割いて白綾は冷徹な感情を孕んだ声で佐々田へ告げた。
「……瀬川。別にええ。慣れてる。……佐々田。そういやお前も成績最底辺彷徨ってたっけ。上ばっか見上げてたら首痛なるから、下におる私で自分の立ち位置確かめてんねやろ?」
佐々田を小馬鹿にするような口調だが、自分自身への自嘲が含まれていることには嫌でも気づく。図星を突かれた佐々田は青筋を立てて白綾の事を睨みつけた。
「な……!!」
「何とでも。まずお前らと目指してる場所が最初からちゃうし。〝馬が誇れる騎手になる〟って、何もレースで勝ちまくること前提に考えてへんから。……用無いならもうええ?」
白綾は黙りこくった俺たちから視線を外して自室へ戻っていった。揺るがないものを抱えているからこそ出てくる言葉がずしりと重たくて、俺は思わず下を向く。
『お前らと目指してる場所が最初からちゃうし』
だがその一言だけは、まるで自分に言い聞かせているようで──どうしても耳にこびりついて離れなかった。
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