Chapter-06 泥中の蓮(2)
『ちょっとアクシデントもあったようですが、無事枠入りが終わりまして……係員が退避します。
最も「はやい」馬が勝つ、第××回皐月賞──スタートが切られました!』
日曜日とあって、その道頓堀にある動物病院は休みだった。
しかしその場には老若男女総勢十名近くが病院の待合室にある大きなテレビに齧り付いて皐月賞の中継を見ている。
その人垣の中心には無精髭に白衣、手には競馬新聞と赤ペンというどこからどう見ても競馬好きのおっさんにしか見えない男がいた。
しかしこの男、白綾后子の実の父である。皐月賞に娘が騎乗した馬が出走するとあってリアタイせんとしていたのだが、どこからか情報を聞きつけた地域住民が動物病院に集結し────みんなで競馬観戦となったのである。
「なぁ先生、后子ちゃんの馬って……」
「二枠四番……ん? ちょっと待て。今ハナを一、二、三……八馬身!? 八馬身リード!? おいおいおいおい、何つう騎乗してんだあのバカ娘、それはねえぞ后子!! 無茶苦茶過ぎんだろ!?」
「何でもええわねもうそんなん!! 勝てばええんよ勝てば!!」
「でも掛かってる感じじゃないわ。どっちかっていうと……これロジェールマーニュのペースっていうか……」
「冗談だろ…………勝てんのかよ、これ。勝ったらやべえぞ。単勝オッズ六七・五倍だぞ……!? 一番人気のフジサワコネクトは最後方にいんな……いや」
「フジサワコネクトって追い込み脚が強かったろ!? 差しにくるでこりゃあ……うわぁ────っ!! 逃げろ后子ォ────!!」
「ちょうるさいねんお前!! 実況聞こえねえだろ!!」
后子の父と道頓堀の住民たちは騒ぎながらレース展開を息も忘れて見守る。だが一つの確信と信頼があった。
白綾后子は負け続けても諦めなかった。どれだけ嘲笑されようと、不運に見舞われようと、決して投げ出して諦めなかった。
だから今度こそは、勝利の女神も微笑むはずだと──そういう確信が心に満ちていた。
父親はスマートフォンに映るネット投票画面を点灯させたまま握りしめる。
(勝て。后子。……馬が誇れる騎手になれ)
スマートフォンの画面には単勝一万円で購入された、二枠四番ロジェールマーニュの馬券があった。
✤
スタート直後から馬群を突き放し先頭を駆け抜けるロジェールマーニュに、競馬場が愴然としているのがわかる。誰も彼も、無論背にいる私でさえこの状況には驚いているし、なによりもそんなに飛ばして大丈夫なのかと不安に思う者も多いはずだ。
だがロジェであるならば、そんな事は関係ない。彼に限った話かもしれないが、逃げに極振りした脚質を先行策で序盤は抑え目に走らせるのが間違いなのであって、ロジェにとってこの選択は間違っていないし私もそう確信している。
コーナーは出来るだけ内を回る。大雨の影響で泥濘んでいる所は避けるのが普通だが、ロジェはまるで良馬場の芝を蹴るように突き進むことを選んだ。私はひたすら方向指示器に徹する。
無駄な動きは極力減らし、ひたすらに前へ。前へ進む。風のように速く。音よりも軽く。
────前へ。誰もいない、その先へ!
第三コーナーを通過して第四コーナーへ向かう。芝二〇〇〇メートルの皐月賞も佳境を越えラストスパートとなる。地を蹴る馬たちの音が近づいてくる。だがそれがどうした。
逃げ切る。逃げ切って勝つ。それ一択のみ。
ジリジリ差を詰めてくる後続の馬群。背後の圧に一瞬怯みそうになったが、私は右手に鞭を持ち考える。仕掛けどころはまだ。まだあと少し粘る。まだ。まだ。まだ待つ。ギリギリまで、粘る。
『────来た!! 来た、来た来た来た来た!! フジサワコネクトやはり仕掛けてきた!! 最後方から馬群を一気にごぼう抜き!! ハナを進むロジェールマーニュに迫る!!』
(今────ここ!!)
誰もいない先頭を睨みつけて私はロジェールマーニュに鞭を入れた。中盤のトップスピードを遥かに超える加速力で前へ駆ける。背後からフジサワコネクトが迫っている事などとうに知っている。敢えて粘った。コーナーが終わるギリギリまで。直線加速が強いロジェの脚を溜めるために。
────この直線で一気に後続の馬を離すために!
私は前だけを見据える。ひたすら前へ駆けるロジェは先ほどよりもさらに加速し後続と差を開いていく。足音は遠く、勝利まであと二〇〇メートル。差させない。絶対に差させない。
離せ。背後をもっと突き離せ。他の追随を許すな。絶対はある。私たちが勝つ。
フジサワコネクトは粘るだろう。そういう馬だ、だがそれが何だ。
圧倒的なスピード、スタミナ、パワー。それらの前では無意味。
ロジェは私の指示通りさらに加速する。ひたすら貪欲に速度だけを追い求めて、スピードのその先へ突き進む。
誰もこの馬の前を走る事など、罷り通るものか。
「────皐月賞は……
ロジェールマーニュが……勝つ!!」
そしてロジェがスピードを落とし始めて、漸く私は自分たちが皐月賞一着を獲ったのだと悟った。
どくどくと、興奮冷めやらぬ私の心音が酷く大きく聞こえた。
勝った、と自覚が持てない。
ターフビジョンに『確定』の文字と、着順が表示される。一着には馬番「四」、そしてタイムが表示される。
レコードの赤い文字が点灯しているのが更に現実感の無さを増幅させていく。二着には「一五」──フジサワコネクト。そして着差は「四 一/二」の文字が踊る。
四馬身と二分の一。近年稀に見る大逃げと、大差での決着。
私と同じ顔をした別人の騎手が乗っているのではと思うほどの圧勝だった。
「負け確騎手」の私が、勝った。
しかも……皐月賞を。現実感の無さにふわふわしているのがわかる。
「白綾」
背後から声をかけてきた瀬川は、別人かと驚くほどに険しい表情を浮かべていた。私はサングラスをヘルメットに引っ掛けて振り返る。
「瀬川」
「ダービーは俺とフジサワコネクトが勝つ。首洗って待ってろ」
そうだ。まだ終わっていない。私とロジェールマーニュは始まったばかりなのだ。一つの勝ちに気を取られ、忘れそうになっていた。私は一度自分の頬を引っ叩いて瀬川に向き合う。
クラシック三冠を目指すなら、否応なく立ち塞がる相手。瀬川迅一とフジサワコネクト。この人馬を甘く見る気にはなれない。
きっとさらに己の武器を研いでくる。さらに強く、速くなって。だが、それでも。
「……誰も、ロジェールマーニュの前は走らせん」
「望むところだ。俺たちも、もっと強くなる」
それだけ言い残して、瀬川はフジサワコネクトを歩かせ地下馬道へ導いていった。ターフの上にはロジェールマーニュと背にいる私だけが残される。疲れたやろ、とロジェを撫でればゆるゆると首を動かす。私らも馬道へ──と思った。
あれ。なんか……なんか、忘れとる気がするんやけど。なんかあったやん。ほら。待って待ってロジェ。帰ろうとせんで。まだ何かあんねん。ほらあの一着になった競走馬だけがやるやつ。あぁ思い出したウイニングラン。いやそれはええねんけど。
ええ……ねんけど。
「…………いや……ウイニングランってどうやってすんねん!?」
私の絶叫が中山競馬場に響く。なお、この様子はガッツリ全国にリアルタイムで放送されていた上にニュースでも使われたらしい。それを見た観客は、案の定大爆笑していた。
✤
「惜しかったな、迅一」
惜しい、か────嘗て自分が白綾后子に対して思っていた言葉を、そのままそっくり言われる日が来るとは思わなかった。瀬川はヘルメットを外し、汗に濡れた頭をひっかきまわして言葉を返した。
「惜しいだなんて。嫌味ですか? ……あんな、誰がどう見ても圧勝だったのに」
「ハッ。普段白綾に知らねぇ間に嫌味ぶつけまくってるお前が言うかよ。……まぁだが、圧勝以外に言葉が出ねえのも事実よ」
「? ……俺は白綾に嫌味を言ったことなんてないですよ?」
「質ワリィな本当お前……」
調教師はそう言ってため息を一気に吐き出す。握り拳を作る手があまりにも力を籠めるので、瀬川の指先は白くなっていた。
「……驚かされました。ロジェールマーニュ……想像以上に凄い馬です。あんな大逃げ、しかも終盤でさらに加速する。それどころかあの馬、ゴールしてもまだ余力残してましたよ」
「あぁ。騎手が変わるだけでここまで変わる馬ってのも珍しいもんだが……何より化けたのは白綾のほうだな。もう別人だ、ありゃあ」
この調教師はあまり人を褒めないことに定評のある男だった。だが瀬川はその評価を当然のものだと受け入れる。
確かに白綾は化けた。勝てないというジンクスを己の意志で打ち壊し、ロジェールマーニュに溶け込むような騎乗をして、人馬一体、勝利への道を突っ走る。前には誰もおらず、後続はどの馬も、どんなに走っても追いつけなかった。追いつこうと走ればさらに引き離され、遥かな背中を眺めているしかできない。その加速を止められない。
騎手の輪郭が消え去る騎乗。馬がひたすらに、楽しく走っているように見えた。
ずっと近くで見てきたのだ──白綾后子という騎手が、如何様な手綱さばきをするのかを。競馬学校時代から、ずっと。だからこそ悔しい。この勝利が白綾后子に捧げられたことが当然だと受け入れている自分も腹立たしかった。
「そうですね。……片鱗はあったと思います。でも白綾を怖いと思ったのは初めてですよ。……ダービーは必ず、ロジェールマーニュに追いついて、超えます」
「おう。気張りやがれ」
調教師はそう言って瀬川の背中を叩く。伝わる痛みも、掌の熱さも、心を燃やす闘志も。総てを持って、次はダービーへ挑む。
(待ってろ。白綾、ロジェールマーニュ。
……俺はフジサワコネクトと一緒に、お前らを超えて……優駿たちの頂点へ至る)
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