Chapter-04 ロジェールマーニュ


 その騎手は不思議なヒトだった。

 今まで「好きに走っていい」だなんて言われた事はなかった。

 僕と騎手は意見がぶつかる。それが普通だったし、面倒だったので、僕は騎手の指示を振り切ってきた。


 僕は一番前を走りたい。でも騎手は馬群の前目で抑えたがる。正直、体が他の馬より大きい自覚はあるし体力が有り余っているのもわかっている。

 だから、一番前を走りたかった。他の馬の間を縫うように走るのは窮屈で苦手で好きではなかった。騒がしいのだ。気持ちも、周囲の景色も。

 風を切って走るのが心地いいのは認めるが、僕はひとりで遥か彼方へ駆け抜けるのが好きだ。馬郡に埋もれるのはどうしても好きではないし、何度やっても好きになれない。

 芝を蹴って、最後に「本当に好きにしていいのか」と問うつもりで動く。彼女は僕の背に乗ったまま言った。


「ロジェ、合わすさかい好きに走ってや」


 好きに走る。どんどん前へ、爆発的な加速で風になるつもりで走ること。馬群からずっと抜け出した状態で、最初から最後までトップスピードを維持して走る事。

 今まで僕に乗っていた騎手よりも細身の彼女は、驚くほど軽かった。何も乗っていないようで、それでいて僕の意思を邪魔せず正しい方向へ、無駄のない動きを導いてくれる。


(すごい)


 脚が想像を超えるほどに軽かった。どこまでも走れると錯覚した。最終コーナーを目が捉える。その少し手前でまだ加速できると思いさらに強く芝を蹴って加速した。加速のタイミングで完璧にコーナーを導いた彼女は、背中で楽しそうに「はは……!!」と声を上げた。


(僕も、楽しい)


 競馬で勝つための調教。勝つ事だけが、僕の存在意義なのだと仔馬の時から思っていた。だけど、楽しかった。このスピードでずっと走りたい。彼女は僕の意思を優先してくれるが、徹底的に僕が走る上での無駄な動きを減らすよう動静してくれる。

 騎手と意思がぶつからないのは初めての事だった。気づけばゴールしていたのでスピードを緩めて走り、常歩に切り替える。

 調教用コースが異様な静けさに包まれていた。もしかして彼女が怒られるだろうか。僕に好きに走っていいって言ったから。好き勝手に走ったのは僕だ。


「何だ……この、時計……」


 時計。僕が走った時間。多分速かったんだろうが当然だ。今まで使ってこなかった本来の脚を使ったのだから伸びるに決まっている。まだ余裕で走れるよ、と嘶いてみた。


(……彼女、后子って名前なんだ)


 国美は彼女を「后子さん」と呼んだ。仲が良いのだろうか。

 僕の背にいた后子は特段何も言わなかった。先ほどから黙って何かを考えているようだったので、僕は大人しくする。暫くして后子は厳かに口を開いた。


「ロジェ」


 僕は声のほうへ首をかしげる。

 決意の滲む表情で后子は続きの言葉を僕へ告げた。



「────私と一緒に、クラシック制覇しよ」



 吹き抜けた風が、后子の金色の髪が揺らして隠された半分の表情を見せた。不安でいて高揚と、そして期待と衝撃の入り混じった複雑な表情が浮かんでいる。

 后子の本心が、手綱の奥から滲む。

 きっとその三冠制覇は誰かの願いだろう。彼女自身の願いは何だろうと思った。


 けれど、闘志の燃え滾るその美しい表情が、いつまでも僕の中で焼き付いて消えなかった。



 ✤



 牡馬クラシック第一弾──皐月賞。

 最も「はやい」馬が勝つと言われるレース。


 芝二〇〇〇メートル・中山競馬場で競われるそれは、今後のクラシック路線を占うだけではなく、勝馬に永遠の冠を与える。そんな歴史あるレースに挑戦できる馬はほんの一握りだ。騎手もそれは同じことで、新たにロジェールマーニュの主戦騎手になった私──白綾后子はくりょうこうこも例外ではない。


 五年前に、日本ダービーに出る馬に乗せてもらったことがあった。

 土砂降りの雨の中行われたダービーだった。


 私が乗った馬は人気も二桁で着順も二桁になってしもたけど、ダービーという誰もが新たな最強馬の誕生を待ち望む特別な舞台は、やはり違う。


 熱気。闘志。覇気。


 そういう熱さが洪水のように押し寄せて、多くの願いを混ぜながら競馬場に満たしていく。


 そんなダービーの前に行われる皐月賞は、やはり特別な意味を持っている。

 皐月賞もダービーも下す最強馬の台頭か。それとも新たな怪物の出現か。幕開けの一戦なのだが。




「……なんでやねん……なんで……なんでやね~~~~~~ん!!」




 虚しい叫びが雨音にかき消されながら周辺へ響き渡った。

 どうやら、ロジェと出会って運が良いと錯覚したらしい。


 私は相変わらずピンポイントに大凶を引き当てるタイプの人間やった。

 なんでこうなんねん。これで落鉄とかしたら目ぇ当てられんでほんまに。どないすんねん。


 ゴロゴロと遠くで鳴る雷がさらに嫌な予感を増長する。心なしか雨足はさっきよりも強くなっている気がした。ちょ待ってや、今向こうでめっちゃ雷光ったがな。うわ、いやドカーンやあれへんねん。めっちゃ近いがな。何でこんな嵐やねん。



 中山競馬場は九時開場だが、皐月賞は午後三時四十分出走である。しかし今年は大荒れが予想され、しかも一番人気が牝馬とあって国内外から相当注目を集めていた。


 この大嵐でも十万人近い観衆が詰めかけ、今か今かと待っている。

 騎手控室では皆「さっきより天気やばくね?」「ヤバいっすね」「これ雨上がっても馬場不良だよな」「重まで戻ってくれりゃいいんですが……」と不安げな表情を浮かべていたが。


 アホたれ。こっちはもうそれどころやないわ。

 胃の中身は空っぽだったが、胃液が逆流する感覚にえずきそうになる。


 刻一刻と迫る皐月賞。私は今回皐月賞以外乗り馬がいないので他の騎手と比べて暇といえば暇だった。なので皐月賞の前にあるレースを検量室から見ていた訳だが、マジでヤバい。馬場がこれでもかと荒とる。泥濘み、ターフビジョンで若干見る限りコース内は水が溜まっているように見えた。



 最悪や。外差しな馬が圧倒的に有利になる。


 ロジェは最短距離で、極限まで無駄な動きを減らすには内を回りたいけどこの馬場では脚が取られて思うように加速できんかもしれん。


 そうなったら確実に来る。『鉄骨娘』フジサワコネクトが外から追い込んで差しに来る。



「どないしょ……ほんまにどうしよ……」

「おおおおおちつけ俺、大丈夫だロジェは逃げれるだって后子さんがついてんだ」


 私の真横で細かく震えているのは、ロジェールマーニュの調教師である国美道長くにみみちながだった。あまりにも震えているのを見ていると、


「自分より焦ってる人見ると落ち着くのって本当のことやったんやな……」

「こっこっこうこざん俺どうしたらいい!? 俺が調教助手から調教師になって初の、はっ初の馬が皐月賞に」

「いやニワトリか。……ほんまになんかもうどうでもよぉなってきたわ。なんか落ち着いてきたわ……」

「ニワトリやないわ! どうでもよくならんでよ!? 本当頼むよ」



 私より遥かに慌てふためいている国美のおかげもあって、私の緊張は幾ばくか緩和されていた。

 出会った当初は「うわめちゃくちゃヤンキーやん……」と思っていたがだいぶ見てくれだけだったというのはもうよく知っている。

 実は人見知りで口下手なだけ。そんだけやったらまだ可愛いかもしれへんけど、八割見た目のせいで損しとるから金メッシュは絶対辞めたほうがええと思う。顔もちょっといかついんやし。


 問題は山積している。レース出走までに雨が止んでどうにか天気が持ち直してくれたらいいが、それはどうあがいても望み薄な気がした。


(……うっ、……あかん、本格的に気持ち悪くなってきた)


 美浦トレセン、栗東トレセン合わせて一四〇名の騎手の中で中央競馬唯一の女性騎手。


 五年ぶりのGⅠ参戦。


 しかし当の私と言えばこのザマで豪雨どころか嵐を引き当てる。流石に記者陣がいる前で啖呵を切った手前、異様に緊張している自覚はあった。


 刻一刻と迫ってくるレース出走時刻。二十分前には本馬場入場だが膝が面白いほど笑っていた。


 皐月賞という大舞台。誰もが新たなスターの誕生を待ち望む。

 紅一点で挑むフジサワコネクトや、弥生賞を下したミナミノテイオー。強豪揃いの中にいる「惜しい馬」、ロジェールマーニュ。そんなロジェが大逃げ脚で大差をつけて勝つ。



 誰も、彼に追いつけない。

 逃げて、逃げて、逃げて、突き放す。

 誰にもロジェのペースを乱す事はできない。最初から最後までずっと先頭を走り続ける。それがロジェールマーニュという競走馬のはずだ。




「そか。単純な話やったな。……悩む事あれへんやん」



 ロジェが楽しく、好きに走る事。私はそのロジェにとって楽しい時間をさらに心地よいものにすべく、極限まで無駄な動きを減らすよう導き共に駆け抜けていけばいい。


 私は馬〝が〟誇れる騎手になると決めた。


 ならば馬の意思を尊重して、相棒であるロジェールマーニュのやりたいようにやらせる事が一番なんや。


 私にとっては当然のことで、ほかの騎手にはほんの少しズレた価値観。折り合いガン無視、馬の好きにさせる。でもこれでいい。私は唯の方向指示器に徹し、ロジェには好きに走ってもらう。




「どうせ全員────泥まみれや」




 そう気づいた時、

 きっと私は、何もかもを捨てていた。

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