第一章 一緒に見たい夢がある
Chapter-01 全戦全敗の騎手
芝コースを柔く照らす日差しを受けて、馬体を煌めかせる馬たち。それを横目に、恨めしそうな表情で見つめる騎手がいた。
中央競馬は栗東トレーニングセンター。
金色の少しうねった髪の毛に青色の瞳。身長は一八〇センチぐらいか、騎手にはありえない高身長である。彼女は他の職員や調教助手──騎手と並んでも、物理的に頭一つ以上抜けている。
────
競馬ファンの間では「最も運の無い騎手」と呼ばれ、時として「全戦全敗の騎手」とも呼ばれた。
「白綾騎手……これは、提案です。あくまで提案です。あの……一応進退を考えて頂けないでしょうか」
このような勧告を受ける割には、彼女の身内からの評価は高かった。それがなおさら、彼女のなけなしのプライドを傷つけた。
身内の評価が高い理由は二つあった。彼女がどんなに成績不振でもへこたれない事、それから調教で后子が乗った後はぐんと馬が成長する事。この二つが身内から評価される理由だった。
だがそれらはどちらも、騎手に求められる能力には少しずれた能力といえる。
「おいちょっと待てよ。どういうことだそれ」
「いや、あの」 エージェントが眉を軽く寄せて言いよどむ。「これはあくまで提案です」
「后子を追い出そうってか!?」
近くにいた往年の厩舎関係者が声を荒げた。后子は「待って」とそれを制する。
「……私まだ、諦めたくありません」
騎乗エージェントは「あくまで提案ですから……」と重ねて言うが、実際后子にとって騎手を続けていくうえで最善の選択は地方競馬への移籍だった。
「重ねて言いますが、これは強制ではありませんし、まず僕に強制できるものでもありません。提案です」
「はぁ……」
何度も考え頭によぎった騎手引退──それが現実のものとして目の前に転がされた。
后子はぼんやりとした返事を返しつつ、エージェントの方を猜疑心に満ちた視線で睨む。彼は眼鏡の位置を正しながら、鬱陶しそうに后子の方を見た。
「しかし、今より生活はよくなると思います。確か御父上の借金を────」
「私が勝ててないのは事実です。せやけどまだやめるわけにはあかん。ありがたいことに、地方に来てみいひんかって話があるんです」
「……もちろん、今すぐどうこうとは言いません。それでは失礼いたします」
エージェントはそう言ってその場を去って行った。后子はその後姿を見送り、深いため息をついて、残っていた麦茶を一気に飲み干した。
✤
全戦全敗の女性騎手。そして、中央競馬の客寄せパンダ。
それが白綾后子という騎手である。
競馬情報サイトの掲示板には酷評が並び、極め付けは彼女が騎乗するという情報は載れば一気に人気が下降する始末。ファンの関心は后子がどこまで負け続けるかで、いつ勝ち星を拾うかなどは誰も気にしていない。
近づいたと思えば離れ、離れればほしくなる。それが勝利というものだ。
レースで勝てないならば騎手である意味はない。
そして后子には絶望的に勝負運がない。
「
「うげえ……瀬川。なんでおんねん」
爽やかな雰囲気の男が後ろから后子に話しかけた。
弱冠二十五歳で八大競争を完全制覇している天才騎手。獲得タイトルなし、負けっぱなしの后子とは真逆の存在だった。
「聞いたぞ。地方に移籍する気らしいな」
「そうやけど。なんか文句あんの?」
瀬川は何かと后子にやたら絡む。本当にやたら絡むのだ。そしてその気遣いは全て空回りしているのだが、瀬川はその事実に全く気付いていない。
后子は足を止めず話を続ける。
「頑張れよ。戻ってきたらまた同じレースで戦おう」
「はぁ〜〜……無自覚な嫌味おおきに。一生中央には戻れへんやろからもうそんなんあらへんで。ほなな」
「そんなのまだ分かんないだろ? あ、そうだ。これやるよ」
后子は眉間に皺を寄せながら、その紙袋を受け取る。そして右横を歩く瀬川を無視したまま改札まで向かった。歩幅が大きい后子はずんずんと進んでいくものの、背も歩幅も小さい瀬川は小走りで后子についていく。
立ち止まって、紙袋が妙に重量があることに気付く。菓子か何かの箱だと思っていたそれは、乗馬の本だった。しかも馬場馬術の。
「自分……ほんまに……人の神経逆撫でするの上手いよなぁ……」
こめかみにぴきぴきと青筋が浮かんでいるのを感じつつ、后子はその紙袋を突き返すように瀬川へ押し戻した。
「えっ、もしかして気に入らなかったか?」
「~~~~……うるさいわアホ!! これは持って帰れ!! 無自覚な嫌味がいっちゃん腹立つねん!!」
「えっ、い、いやあの白綾、ごめん! 俺、お前の気に障ることしたか!?」
「何もかもが気に障んねん!! この……この無自覚嫌味野郎!! 天才騎手!! はよ帰れ!!」
「えっ、えぇ~~~~!?」
白綾后子は、ひたすら敗北の辛酸を舐めていた。
だがジンクス化した「全戦全敗の騎手」──その呪いを晴らすことは容易ではない。
后子が幼い日、宝塚記念で驚異的な大逃げで勝利を収めた馬がいた。
青毛に、額の白い星がトレードマークの馬。
黒の一族の最高傑作、黒曜石の輝き、そのように呼ばれ──サラブレッドには珍しい青毛の馬体はどの馬よりも目を引いた。シャルルは驚くほど足が速かった。かの名手が理想のサラブレッドだと絶賛するほどの足を持ち、誰もがシャルルに夢を託した。
そしてその伝説とも言われる宝塚記念。幼き日の后子は、記者が関係者以外立ち入り禁止と止めるのも振り切って、鞍上の騎手に聞いたのだ。
「どないしたら、そんなふうになれますか」
「馬が、この騎手は自分の唯一無二の相棒なのだと誇れるようになったら、きっとなれる」
僕がそうなれているかはわかんないけどね、とウィンクして彼は幼い后子へ言った。
そして彼は己の鞭を后子へ渡した。未だ手になじむそれに、后子は思いをはせる。
そのあこがれと執着だけで、今の后子は成り立っていた。
────なんものうなった。
負けて、負けて、数えるのも馬鹿らしくなった。
馬が私を相棒やと認めることなんかあれへん。だって一回で騎手交代が普通なんやもん。馬主界隈の私の評価は最悪や。
私に騎手としての実力や才能は、無い。
それだけは認めたくなかったけれど、認めるしかない。
后子はそんな思いを押し殺して駅を抜けた。見たことのないようで、見たことのあるような地方都市の街並みが目の前に広がっている。
ぼんやり市街を眺めていれば、唐突にスマートフォンに着信が入る。
誰やねんもう──そう思いながら画面を見れば、そこには中央競馬会の番号が表示されていた。后子は恐る恐る通話ボタンを押す。
「……今すぐ戻ってこい? いやいや冗談くさいですわ、こっちはもう……はぁ……いや何でまたそんな……」
地方を選ぶか中央を選ぶか、それは現状の后子には大差ない。勝ちたい。それだけが后子を突き動かす。
電話を切り、来た道をUターンしてみどりの窓口へ向かう。
この運賃で、本当に后子の貯金は底をついた。
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