双子の章・肆

 銀楯堂へ戻ると鈴慝は帳場の奥で帳面を睨んでいた。顔を上げた彼女に私は浮猊の森での一件を報告する。あの女、薄葉のこと、そして……朧手草。やれやれ、まったくもって厄介なことになった。


「あんな目に遭うのは二度と御免だわ」


 すると鈴慝はひとしきり腹を抱えて笑った後、帳場の背後にある箪笥へと向かった。金具の付いた重そうな引き出しを開け、中から取り出されたのは私の本体、鏡だった。


「ちょっとばかしヒビが入ってたからね。勝手に手ぇつけた。言っとくけど、修理代は請求するよ」

「……まぁ、修復してくれたなら払うわ」


 鏡は丁寧に磨かれ、枠の腐食も見事に補修されていた。私の本体であることを抜きにしてもこれは立派な仕事だった。鈴慝が信頼できる職人で良かったと素直にそう思った。


 帰り道。鏡は抱えて歩くにはやけに重く感じた。たぶん気のせい。……いえ、違うわね。ただの気のせいにしておきたいだけ。


 ボロ屋へ戻った私は今後のことを考えながら、からくり箪笥の一番奥、埃をかぶった空間に鏡をそっと滑り込ませた。ここなら、ひとまず安全だろう。風通しは悪いし枠が錆びるかもしれないけれど今度は手入れを怠らないと心に決めた。だが、その安堵は一瞬で霧散した。不意に吹いた風が破れた障子をカタカタと揺らす。その音に心臓が跳ねた。


 ――駄目だ。ここも安全じゃない。


 薄葉の顔が脳裏をよぎる。次は本当に完全に破壊されるかもしれない。別の誰かに盗まれるかもしれない。そう思うともう一刻もここに置いてはおけなかった。預けるなら一人しかいない。何よりどこへ行くにも拠点として便利なあの場所の主……酒鞠本人に。









 門前で私が来ることを察知していたかのように酒鞠は立っていた。彼女に私の本体である鏡を桐の箱ごと預けた。


「少しの間お願いしたい。面倒かけるわね」


 酒鞠は黙って頷いた。鏡の重みを両手で確かめるようにして受け取り、屋敷に奥へと行った。私はその背を見送ってから短く息をついた。鏡を託したあと、この一件について簡単なメモを残すことにした。備忘録代わりのようなものだ。いつものように、部屋にある一際小さな箪笥から勝手に紙と鉛筆を拝借する。もちろん許可なんて取らない。これまでも何度も借りては壊したり無くしたりしている。それでも酒鞠がそれについて何かを言ってきたことは一度もない。むしろ無関心のようにも見える。けれど本当にそうだろうか。あの人は優しくて、静かで、けれど怒らせたらどうなるか分からない、そういう人だ。


「……気をつけよう。人の物は丁寧に」


 小声でそう呟きながら、書き終えたメモを小袋に入れて、鉛筆を元の引き出しにキッチリ戻す。ちょうどその時だった。襖が三度、叩かれ、スッと開いた。


「しえねぇー!」

「きょうもきたー!」


 咲蘂と兀鞠。七歩蛇の双子は今日も変わらず私目当てでやってきたらしい。まったく、屈託のない笑顔が愛おしい。けれど、ここは酒鞠の家だ。私は屋敷の主じゃないし、ここは宿でもない。本来なら私が二人を出迎えること自体がお門違いなのだ。それなのに酒鞠は何も言わない。善意か黙認か。彼女の心の内は静かな水面のように底が見えなかった。


「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」


 私は二人を部屋に残して静かに廊下を抜けて庭へ向かう。こういう時、酒鞠がいる場所は決まっている。庭の奥、池のほとり。緋色の傘のように枝を張る楓の下、景色を眺めるためだけに敷かれた茣蓙の上。


 やはりいた。


 池をじっと見つめるその背中に私は声をかけた。


「ねぇ、酒鞠。なんで私がここにいることを……咎めないの?」


 酒鞠は、振り返らないまま静かに答えた。


「あなたは、この骸日ノ餞の秩序を守ることができる存在だからよ。もちろん、他にも守れる者はいるけれど──あなたほどではないわ。要するに私たちの切り札。あなたがここにいる限り、私は最大限協力するし、ある程度の自由は容認する」


 その言葉は何の感情も乗らない淡々とした響きだった。けれど、だからこそ真実だけが詰まっていると分かった。その率直さがすとんと胸に落ちてきた。私は少し黙ってそれから微笑んだ。


「……そう。本音が聞けてよかった。私はこれからもここを守る。あの子たちみたいなか弱い奴らが安心して笑っていられる、みんなの居場所だからね。ってわけで、咲蘂と兀鞠が待ってるの。それじゃ」


 私は池を背に再び屋敷の奥へと歩き出す。









  部屋へ戻ると咲蘂と兀鞠は並んで寝転がっていた。畳に頬をくっつけて、足をぱたぱたさせている。まるで干物みたいだった。私が襖を開けたのを目ざとく見つけると、二人はぱっと顔を輝かせて跳ね起きるようにしてこちらへ駆け寄ってきた。


「しえねぇ!」

「おそい!」


 今日はてっきりお喋りか、花札の一勝負でも望んでいるのかと思っていたけれどどうも違ったらしい。二人の目が妙に真剣で口をそろえてこう言った。


「ねぇ、しえねぇ、わたしたちもしゅぎょうしたい」

「つよくなりたいの!」


 ……修行、ねぇ。


 私はちょっとだけ口の端を吊り上げて笑った。幼子なら誰もが一度はやりたがる定番の遊び……いや、夢想と言ったほうがいいか。修行をして強くなって敵をバッタバッタと倒す。そんな誰かの絵巻物か物語みたいな展開を真に受けてるんだろう。まぁ、可愛いもんだ。


 けど、残念ながら現実はそうじゃない。


 少なくとも私が修行なんてものをした記憶はない。体力をつけようと走り込んだ覚えもなければ、技を磨くために誰かに師事したこともない。鏡の付喪神はそういう類いの存在じゃない。おそらく他の魑魅魍魎も同じだ。みんな生まれ持った力や属性にすがり、それをどうにかこうにか捻じ曲げながら生きてるだけ。


 だから──正直に言えば修行なんて意味はない。体力くらいはつくだろうけどそれは年を重ねて勝手に伸びていくものだ。つまり「修行」ってものはと空虚で無駄な行為だったりする。


 と、そんな現実を目の前でぶちまけてしまうのもあまりに無粋だった。


 私はしゃがんで二人と目線を合わせる。


「修行かぁ。やってみたいの?」

「うん!」

「つよくなって、しえねぇみたいになりたい!」


 それは無理だと言いかけて口を噤んだ。どうせ長くは続かないのだ。数刻もすれば退屈だの眠いだの言い出すのがオチだろう。でも、今この瞬間のこの子たちの目は本気だった。なら、少しくらい付き合ってやるのも悪くない。


「じゃあ、まずは……部屋の掃除から始めよっか」

「えー!?」

「それしゅぎょうなのー!?」


 もちろん、掃除は却下された。というか部屋から箒を一本持ち出そうとした時点で、二人の機嫌は見事に傾いていた。いや、元々そういうのを期待していたわけじゃないのだろう。双子の目が欲しているのはもっと分かりやすくてキラキラしてて息を呑むような修行だ。


 ──つまり、派手なごっこ遊び。


「庭に出ようか。ちょっとだけ、模擬戦ってやつをしてみる?」

「やったー!」


 私たちは庭へと出た。朝露はもう乾いていたけれど、草の匂いはまだ濃く残っている。酒鞠邸の庭は妙に広い。無駄に広いと言ってもいい。だが、こういう時はありがたい。手合わせには丁度いい。


「じゃ、私が的になるから二人で好きなようにかかってきて」

「ほんとに!?」

「あとでおこんない!?」

「怒るような攻撃、できるならしてみなさいな」


 私は袂から小さな護符を一枚取り出して、ふわりと空へ放る。宙に舞った護符が柔らかく光を放ち、その光が私のまわりに薄い結界を張る。これで多少ぶつかられても怪我はしない。


 咲蘂と兀鞠は「うおーっ!」と意味不明な雄叫びを上げながら、真っすぐにこちらへ突っ込んできた。私は軽く身を引くだけで二人をするりとかわす。草を蹴る音、すれ違う風、次いで「きゃー!」という叫び声。


「さすがにそれは突撃しすぎ。それに、重心が前すぎるのよ」

「む、むぅ~っ」

「しえねぇ、ちょっとはほんきだしてよー!」


 掌をひと振りする。すると、その動きに呼応するように地面の草が一瞬ざわめき、二人の足元に風が吹き抜けた。その風に驚いた双子はおそるおそる視線を上げる。私はそこでもう一度だけ掌を翻した。


 ──鏡の力を、ほんの少しだけ。


 私の周囲に幻影のような影が三つ現れた。それは私自身の姿をかすかに模した鏡像のような分身だった。立ち位置をずらしながら三体の私が同時に双子を囲む。


「わぁぁ……!」

「すごっ、すごいっ!」


 私はにやりと笑って、ひとつ足を踏み出す。分身も同時に動く。視線と立ち位置だけで双子の動きを封じる。それでも咲蘂は果敢に突っ込んできた。兀鞠は咲蘂に続き足元の踏み込みに全力を込めて跳びかかろうとする。


 その瞬間、私は小さく息を吐き力を収めた。分身がふっと消える。私の姿だけが残って草むらの先で腕を広げるようにして立っていた。


「つかまえた」

「きゃっ……!」

「うわぁ、しえねぇずるいぃ!」


 私は双子の額をぴんぴんとはじいてやった。二人とも文句を言いながらも満足げに笑っている。悔しい、楽しい、そんな感情が混じった顔だ。なんだかんだで、こういうのも悪くない。


 草の上にへたり込んだ咲蘂が膝を抱えながらぽつりと言った。


「……あれくらい、わたしもできるようになれるかなぁ」

「なれるよ。やる気があればね」


 と私は軽く応じたが、横で聞いていた兀鞠が顔を上げて言った。


「ほんとに?でも、しえねぇは最初から強かったんじゃないの?」

「……そうでもないよ。昔はもっと何も出来なかった」

「うそだー」

「ほんと。最初なんて自分が鏡の付喪神って自覚も曖昧だったし、力の使い方も知らなかった。ただ、長く生きてたら色々覚えただけ。そういうもんよ」


 二人は目を丸くして私を見上げてくる。あまり過去を語るのは好きじゃないが、こうして素直に聞いてくる目を向けられると少しくらいは話してもいいかと思えてくる。


「でもね、私の力って修行して得たもんじゃないの。使って、失敗して、取り返しのつかないこともして、それでも何とかやってきたのよ。修行っていうより成り行きの積み重ね」

「なりいき……?」

「そう。あんたたちも無理して何かを始めるより自分のやれること、好きなことを突き詰めてみなさい。自然と自分に合った強さが見えてくるから」


 咲蘂はそれを聞いてしばらく考え込むように口をつぐんだ。けれど次の瞬間には目をきらきらさせて立ち上がる。


「じゃあ、わたしははしる!わたし、はしるのだけはとくいだから!」

「うちは……たぶん、かくれんぼとか……?」


 兀鞠もつられるように立ち上がる。


 その時、空気を押し潰すような音とともに何かが庭の中心へと墜ちた。地面がわずかに歪み、飛び散った小石と草の破片が私の頬をかすめる。砂煙が晴れると、見覚えのある姿。浮猊の森で戦った女──薄葉だ。


 (なんで、ここが……!?)


 そんな疑問を抱く余裕もなかった。振り返ろうとしたその時、違和感が走る。……静かすぎる。双子の声がしない。嫌な予感が背骨を這い上がるように駆け巡る。


「咲──」


 その名を呼ぶ前に視界に飛び込んできた光景がすべてを奪った。咲蘂と兀鞠は倒れていた。庭の草の上にまるで人形のように。顔の中心に穴。鼻も、目も、口も何もかもが吹き飛ばされていた。穴の縁だけが、妙に黒く焦げている。


 私の中で、何かがぶちりと音を立てて切れた。


「あぁ……そうか。あんた、ほんとにやってくれたんだね」


 怒りじゃない。これはもう呪いだ。怨嗟という言葉が具現化したような、どろどろと煮え立つ怨念。私の周囲に風が渦を巻き始める。鏡の破片が空中に舞い上がるように出現し、それが私の周囲を周回する。


「おい、何とか言えよ。名乗ってみろよ。もう一回、私を殺しに来たって言ってみろよ」

「……」


 地を蹴った時点で既に距離は潰れ、鏡片が飛び交う中に身を滑り込ませる。刃が鳴る。私の短刀が女の脇腹をかすめる。

 かすめる、で済ませるつもりなどない。女が太刀を抜くより早く二撃目を振るった。肩に、脚に、顔に。縦横無尽に短刀を振るう。


「私を殺しただけじゃ飽き足らず、あの子たちまで──」


 私の鏡像が背後から女の足を刈る。女が倒れ込むと、私は馬乗りになって拳を振り下ろしていた。


「っ……ッああああああァァ!!」


 怒鳴りながら何度も、何度も、何度でも殴った。歯を喰いしばって血と唾を吐きながら私はただ殴り続けた。


 ──半刻が過ぎた頃。


 力が抜けた。体中の腱という腱がぶちぶちと切れていくような脱力感。ぬちゃり、と拳を上げた拍子に、どろりとした何かが垂れて地面に落ちた。ようやく私は拳を止めた。自分の手を見る。皮膚は裂け、指の一本は曲がらない方向に曲がっていた。骨が剥き出しになった節に何かの破片が刺さっている。


 今感じているのが痛みなのか、怒りなのか、悲しみなのか、それさえ曖昧だった。


 ゆっくりと立ち上がる。足元が揺れる。一歩一歩、地面を踏みしめるたびに膝が笑った。けれど私は歩いた。あの子たちのもとへ。そこに二人はもういない。いや、分かってる。分かってるけどそれでも私は歩いた。


 近くまで来たところで膝の力が抜けた。音もなくその場に崩れ落ちた。頭の中がぐにゃぐにゃに溶けていく。自分の中で何かがぽっきりと折れた音がした。


 背後から静かな声がかけられた。


「もう、いいわ」


 酒鞠だった。いつからそこにいたのか。彼女は私の隣にしゃがみ込むと、何も言わずに血まみれの私の手をそっと握った。ひんやりとした手だった。


「立てる?」

「……無理」


 酒鞠はため息をつくと、私の体を軽々と抱え上げた。そのまま屋敷の中へと運ばれていく。視界の端で、双子だった肉塊が風に吹かれて塵になっていくのが見えた。部屋に運ばれて布団に寝かされる。酒鞠は黙って濡れた手ぬぐいで私の顔と手を拭いてくれた。その手つきは驚くほど優しかった。


「私のせいだ」

「しばらくここで眠りなさい」


 意識が遠のいていく。闇に沈む寸前、酒鞠の声が聞こえた。


「大丈夫。あの子たちの記憶は私が預かっておくわ。あなたが忘れてしまっても……私が覚えているから」


 その言葉が本当か嘘か確かめる術はなかった。ただ、その声は不思議と私の心を穏やかにした。次に目覚めた時、私はきっとこの痛みも、怒りも、悲しみも薄れてしまっているだろう。けれど、それでいいのかもしれない。忘却こそが骸日ノ餞での唯一の救いなのだから。


 再び目を開けた時、私はきっとまたいつものように誰かの依頼を受け、悪態をつきながらこの歪んだ世界を守っているのだろう。あの子たちの笑顔を心のどこかで微かに思い出しながら。

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