人生を二度生きて

甲斐 多人

前編 不思議な能力

 平成28年、一人の男が亡くなった。享年60歳。男には息子が一人いた。若くして妻に先立たれた男は、男手ひとつで息子を育てた。幼稚園の送り迎え、小学校のお弁当、少年野球の応援、高校、大学の受験など、男は仕事をしながらも、精一杯の愛情で息子を育てた。息子も感謝の気持ちでいっぱいだった。やがて大人になった息子は、家庭を持ち幸せに暮らし始めた。そのことを一番喜んでいた男だったが、不幸にも事故に遭い、その人生を閉じてしまった。息子は男の死に目にも会えず、男は独り寂しくこの世を去って行った。



 しばらく天国で穏やかに過ごしていた男に、神様が語りかけた。

「おまえは生前、良いおこないをたくさんして『徳』を積んで来た。ゆえに、おまえの望みを一つ叶えてやろう」

「でしたら、もう一度生まれ変わって、息子に会わせてもらえませんか?息子は子供の頃から聞き分けの良い子で。母親がおらず、寂しい思いもしただろうに、一度も無理を言って私を困らせたこともありませんでした。いつも私に「ありごとう」って言ってくれて。息子はあれから、幸せな人生を歩んでいったのか、辛い思いはしなかったのか、この目で見たい。できることなら、もう一度側にいて、支えてやりたいのです」

「もう一度生まれ変わることは可能だが、全く同じ人生を歩むとは限らんぞ。人生にはいくつもの分岐点がある。そこで右と左、違う方を選んでしまうと全く違った人生を歩むことになるからな」

「最初の人生と同じように選んでいけば良いのではないですか?」

「人間は生まれ変わる時に、先の記憶の全てが消えてしまうのだ。別の人間として生きていく為にな。ただ、おまえには、たとえ遠回りの人生を歩んだとしても、必ず息子と巡り逢えるようにしておいてやろう」



 昭和31年、富山県で一人の男の子が生まれた。その子は優司と名付けられた。父親の小椋正夫は名家の末っ子だったが、太平洋戦争の時に両親を失っていた。そして家督は20歳年上の長兄が継ぎ、当時まだ中学生だった正夫は、実家におりながら居候のような状態になっていた。正夫は25歳の時、ふたつ年下の光子と知り合い結婚した。光子は貧しい家の娘で、小椋家にはそぐわないとして、結婚は反対されていたが、正夫は半ば強引に結婚した。その為、光子はことあるごとに「どこの馬の骨かもわからぬ女」と蔑まれていた。そして正夫と家長である長兄は、ついに大喧嘩となり、正夫、光子、優司の三人は、着の身着のまま家を追出されることになった。12月の暮れも押し迫った頃であった。

 正夫はいっときの間、知合いの家の屋根裏に、住まわせてもらうことにした。当時の北陸の家は合掌造りの家が多く、親子三人が屋根裏に上がることは可能であったが、屋根の隙間から雪が舞込むような状態で、とてもそこで暮らせるものではなかった。正夫は自衛隊に勤めていたので、仕事で使うテントを持っていた。それを屋根に貼り付けようと、金槌を使っていた時だった。金槌を振上げた次の瞬間、急に軽くなった。おかしいなと思い周りを見渡すと、金槌の頭は下に転がっており、そこには生後3ヶ月の優司が寝ていた。泣きもせず右目から血を流した状態で。「きゃああ」光子はぐったりとした優司を抱きかかえると、家の外へ飛び出した。「死んでしまった、うう。死んでしまった、うう」光子は泣き叫びながら、近くの医院を目指して走った。外は雪からみぞれに変わっていた。すれ違う人達も「赤ん坊が死んだらしい」と光子の後を追って医院までやって来た。医者が優司の目を触ると「んぎゃあ」と泣いた。

「応急処置はしたけど、目にどれほどの影響が出るかはわからん。大きな病院で見てもろうた方がいい。失明しとらんかったらいいが」


 優司は2歳になった。幸い失明はしておらず、眉の辺りにあった傷も目立たなくなっていた。借金だらけの生活から始まったこともあり、一家の暮らしは相変わらず貧しかった。光子は優司の世話をしながら、来る日も来る日も部屋で内職をしていた。住んでいたぼろアパートの前には小さな公園があり、昼過ぎには子供達の元気な声が聞こえてきた。声が聞こえるたびに、優司は窓まで走って行き、ガラスに顔を押しつけて「あしょんでぇ、あしょんでぇ」と子供達を呼び続けた。しかし、そんな声が届くはずも無かった。光子は優司を不憫に思ったが、どうしてやることもできなかった。やがて諦めた優司は、独り部屋の中で絵を描いて遊ぶようになった。


 もうすぐ3歳になる、ある夏の暑い日だった。光子は優司を連れて質屋に向かった。手には1枚の安い着物を入れた風呂敷包みを持って。それは、光子が故郷から夜汽車に乗って、富山まで嫁いで来た時に、光子の親が持たせてくれた、たったひとつの嫁入り道具だった。駄菓子屋の前を通りかかった時、優司が光子にねだった。

「アイシュクリーム食べたい」

「うん、用事が終わったら買ってあげるからね」

質屋に着き、店主と光子の会話を、優司は光子の後ろから顔を覗かせ、じっと見ていた。話の内容は、幼い優司にはわからなかった。ただ、店主の困り切った表情や、光子が何度も何度も頭を下げ、わずかなお金を受け取っている姿を見て、何かとても辛く悲しい場面であることは感じていた。帰り道、二人は駄菓子屋の前で立ち止まった。

「さあ、アイスクリーム買おうね」

「いらない」

「どうして?食べたいって言ってたでしょ」

「お母ちゃんの、おべべが」

優司はそう言うと、それまで堪えていた涙が溢れ、泣きながら駆け出した。


 優司が4歳の頃、一家は名古屋に引っ越した。光子は優司を保育園に預けパートタイムで働くようになった。優司は聞き分けの良い子で、保母さん達にとっても世話をしやすい子だったが、あまり人の輪に入ることもなく、いつも部屋の隅の方にポツンといる子だった。


 優司が小学生になると、光子はフルタイムで働いた。そして毎年夏休みには、光子は優司を自分の実家に1ヶ月間預け、毎日残業もしていた。優司が小学3年生の時だった。夏休みの終わりに、いつものように光子が迎えに来たが、帰る家は名古屋ではなく大阪だった。正夫が自衛隊を辞め、知人の紹介で大阪の民間会社に転職していたのだ。一家は優司の夏休みの間に、名古屋から大阪に引っ越してしまっていた。優司は仲の良かった友達に、最後の挨拶もせずに大阪に連れてこられた。

 当たり前のことだが、大阪の小学校では先生も生徒もみんな大阪弁をしゃべっていた。独り名古屋弁で話す優司には理解できない言葉もいくつかあり、あまりにも孤独だった。「こいつ変なしゃべり方」子供とは残酷なもので、ちょっとでも自分達と異なる者は、寄ってたかって笑い者にした。優司は毎朝、学校へ行こうとすると吐くようになり、登校拒否症となってしまった。病院にも通い、担任の先生も何度か家庭訪問して、ようやく3ヶ月後に何とか登校できるようになった。

 優司は家が貧しく、何かをすぐに買って貰えることが殆ど無かったので、物を大切にする子だった。特に小学校に上がる時に買って貰ったランドセルは、ことのほか大事にしていた。だが、ある日の下校時、クラスのやんちゃ坊主が優司のランドセルに、針金の先で大きくバッテンをして傷を付けた。優司は生まれて初めて家まで泣いて帰った。後日、やんちゃ坊主が親と一緒に謝りに来たが、卒業するまでランドセルの傷も心の傷も消えることは無かった。

 当時、一家が住んでいたのは狭い公営住宅だったが、その周りは戸建ての家が建ち並ぶ住宅地だった。そこではお誕生日会なるものがあった。誕生日の子が友達を家に呼んで、ホームパーティーを行うのである。呼ばれた友達もそれぞれプレゼントを持って集まり、親交を深めるというものだ。友達の母親は優司の家庭事情を知っていたので「小椋君も来てね。何も持って来なくて良いからね」と言ってくれた。しかし、自分だけ手ぶらで何も持たずに行くなんて、できる訳がないと子供心にもわかっていた。それに呼ばれたら、今度は自分の誕生日の時に友達を呼ばないといけない、それをしてもらえる家庭でないこともわかっていた。


 光子はよく働いて家計を助け、優司が中学生になる頃には、一家も人並みの暮らしができるほどになっていた。優司は真面目に勉強し成績はクラスでも上位だった。体育以外はどの教科も平均的に良かったが、特に美術は学年のトップで、絵画などは常にコンクールで表彰されるほどであった。

 高校は府立高校に合格した。そしてこの頃、ついに一家は多額の銀行ローンを借りて、夢のマイホームを購入するのだった。

 人生とは皮肉なもので、優司が大学に合格したと同時ぐらいに、正夫の東京本社への転勤が決まった。マイホーム購入から僅か2年のことだった。優司は大阪の関西大学へ入学したので、大阪にとどまることは決まっていたが、問題は家をどうするかであった。優司は子供の頃から、自分の身の回りのことは自分でできたが、正夫は若い時から、自分独りでは何もできない人間だったので、光子は正夫に付いて東京へ行くことにした。2、3年経ったら、また大阪に戻してもらえるだろうと、家はそのまま優司が住み続けることにして、正夫と光子は東京で借家住まいをすることになった。まさかその後、正夫が定年退職をするまでの15年もの間、大阪に戻れなくなるとも知らずに。

 優司は大学の学費は親に出してもらっており、住む家もあったので、食費等の生活費はアルバイトをして自分で稼いだ。家庭教師、百貨店の売り場店員、配送センターの作業員等々。授業も真面目に出席し続けた。あの貧しかった幼少期から大学に行かせてもらえるまでになった、親への感謝の気持ちもあった。優司は勉強、サークル活動そしてアルバイトと充実した日々を送っていた。


 優司は20歳なった頃から、不思議な体験をするようになった。人には見えない物が見えたり、感じたり、ちょっと未来のことがわかったり。それは目に見える、耳に聞こえるという感覚ではなく、脳内に映し出されるスクリーンのような物に映像が映るとか、心に直接誰かが話しかけてくるような感覚だった。

 大学の同じ会計学研究サークルの友人で、一番仲の良かった阪本という同級生がいた。彼は丹波篠山出身だった。夏休みに優司を含む三人が彼の実家に招待され、JR福知山線の三田駅まで車で迎えに来てくれるという約束だった。予定通りの列車に乗り、約束の時間に三田駅に降り立った三人だったが、迎えの阪本の姿は無かった。

「あれ、おらんなあ」

しばらく待っていたが来ない。家に電話をしてみると早くに家は出たとのこと。その時、優司の脳裏に阪本がパチンコをしている姿が映った。

「あいつパチンコしてる」

優司が呟いた。

「まさか、俺らをほっといて?阪本がパチンコ?」

「じゃあ、この駅前にパチンコ店が3軒あるけど、どの店や?」

優司はまるで見えているかのように指さした。

「あの店」

行ってみると、確かに阪本はパチンコをしていた。予定より早く着いたので時間潰しにパチンコをしていたら、玉が出始めて動けなくなったと。心の中で「小椋、ここや!」と叫んだと。他の二人は

「おいおい、テレパシーかあ、ハハハ」

と大笑いをした。阪本は

「俺と小椋は波長が合うねん。だから俺の心の叫びは小椋には聞こえるねん」

と得意そうに話した。確かにそうだった。優司に見えたり、聞こえたり、ちょっと未来のことが分かったりするのは、ごく一部の親族・友人・知人に関する事象や自分の家庭・学校・職場に起きる事象だけだった。ちょうど無線機や携帯ラジオの周波数がピタッと合った時だけ海外の放送が聞こえたりするように。


 昭和55年、優司は大学を卒業して地元の大阪銀行に就職した。1年間、支店で窓口等を担当し、2年目からはコンピュータを扱う本店のシステム部へ転勤となった。当時どこの銀行でも、オンラインシステムは富士通やIBMといった企業が担当していたが、大阪銀行はNCRという会社がメインとなって、銀行の行員が、自分達でオンラインシステムを構築するという変わった銀行だった。そのため、入社時には全員が適正テストを受けており、適正のある者をシステム部に引っ張るということをしていた。

 優司にとっては寝耳に水であった。大学も文科系の商学部出身で、コンピュータのコの時も勉強したことがないのに、なんで自分がと思った。2進法だ、16進法だと言われても、ちんぷんかんぷんで「何のこと?」っていう状態から始まった。毎日がつらくて早く支店に戻して欲しい、そればかりを願っていた。

 しかし後に、数々のプログラムをすっきりと綺麗に書くテクニックや、速くて丁寧でプログラムミスを出さない仕事ぶりが、後輩達の良き手本となったのは、やはり本人すら気づかない適正があったのかも知れない。

 システム部に配属されてしばらくした頃、銀行の新しい顧客サービスについて行内公募による募集があった。当時はまだキャッシュカードは現金引き出しの機能ぐらいしか無かったが、優司は、そのキャッシュカードにクレジットカードの機能も追加して、一枚のカードでキャッシュカードとしてもクレジットカードとしても使えるようにしてはどうかと提案して出した。結果は不採用であった。しかし、その2年後、バンクカードという新商品が全国地方銀行協会で開発された。まさにキャッシュカードにクジット機能を付け、カード一枚で事足りるようにするものであった。優司は「あれ、僕のアイデアのまんまやん。なんであの時、不採用やったんやろ」と思った。


 優司が30歳の頃、8歳下の敦子と知り合い、付き合い始めた。しばらくは幸せな日々を送っていたが、敦子にはひとつ夢があった。それは東京へ出てファッション関連の仕事をすることだった。そして、敦子は悩んだすえ、自分の夢の方を選んで、優司の前から姿を消した。優司は心にポッカリと穴が開いてしまった。その後、優司は特に誰かと付き合うことも無く、友人達と飲みに行ったり、ひとり旅をしたりと独身生活を続けるのだった。


 年号が昭和から平成になると、後輩の数も増え、優司を慕う十名ほどの者からなるグループもできた。職場内の者はそのグループを『小椋軍団』と呼びからかった。優司は彼らに仕事を教えるのはもちろんのこと、約束を守る、時間を守る等、社会人としての基本的な行動を説いた。その反面、それ以外のことには大らかで甘々の先輩だったので、後輩から慕われていたのかも知れない。


 青山という後輩が入社して来た時のことだった。歓迎会をしてやろうということになり、小椋軍団のメンバーが店に集まっていた。ところが肝心の青山が来ていない。メンバーの一人が

「小椋さんが怒り出したらどうしよう。歓迎会が送別会になってしまうで」

と心配して、何度も店の外を見に行ったりした。しばらくして青山はやって来た。

「すみません遅くなりました」

優司は青山をチラッと見て、特に怒りもせず

「時間は守らなアカンで。もう社会人やからな。さあ始めよか」

と言い、歓迎会は和やかに進んでいった。メンバーの一人が

「小椋さん今日はあっさり許しましたね」

「あの子、顔は笑ってたけど、心の中で凄く反省していた。もう二度と遅刻することは無いやろ。それがわかったから、もう怒る必要もない」

と、優司は笑って答えた。優司には青山が心の中で思っていることが、手に取るようにわかった。偶然にも青山は優司と波長の合う人間の一人だったようだ。


 青山と優司は13歳の年の差があったが、青山は優司と一緒にいるのが好きだった。優司は外見が実年齢よりも10歳以上若く見えるうえに、独身で呑気に暮らしているせいもあって、精神年齢も10歳以上若かった。青山は優司に対して年の差を感じておらず、ちょっと上の先輩ぐらいの感覚でいた。また、二人はカラオケが大好きという共通点もあり、カラオケボックスなどはよく一緒に行っていた。さらに、小椋軍団でも、みんなで旅行に行くことがあった。たとえば夏になると、

「今度みんなで海水浴に行こうって言ってるんですけど、小椋さんも行きますよね?」

「いやあ、僕はやめとくわ。よう泳がんし、日焼けして肌が真っ赤になるタイプやから」

「ええ、行きましょうよ。もう小椋さんも人数に入っているんですよ。大きい浮き袋と日焼け止め、持って行きますから」

結局、優司も行くのだが、現地では砂浜でパラソルを立てて、みんなの荷物番をしていることの方が多かった。また、冬になると、

「今度みんなでスキーに行こうって言ってるんですけど、小椋さんも行きますよね?」

「いやあ、僕はやめとくわ。スキー滑られへんし、板も持ってないし、寒いとこも高いとこも嫌いやし」

「ええ、行きましょうよ。小椋さん行かないと始まらないじゃないですか。板は向こうで借りたらいいし、教えますよ、滑り方」

結局、車に押し込まれて連れて行かれた。そして現地では、リフトで高台に登って行くこともなく、下の方でちょろちょろっと滑って終わりというのが常だった。どちらかというと、優司の出番は夜の宴会要員だった。


 ある日、優司と青山と女子行員の三人で飲みに行くことになった。二人が付き合っていることは優司も知っていた。また青山の方から「結婚するかも」と聞いていた。話も盛り上がり、少し酔いも回ってきた時だった。優司の脳裏に結婚式のシーンが映った。しかし驚いたのは、新婦は確かにその女子行員だが、その隣にいる新郎は優司の知らない男だった。

「えっ?」

思わず声に出てしまった。一瞬で状況を把握したのか、女子行員が

「小椋さん、何か見えたんですか?」

と顔をのぞき込んだ。

「あ、いや、ウェディングドレス姿の君が見えたから、もう結婚しちゃうのかなと思って」

「いややなあ、まだ、まだですよ」

青山の方がニヤケタ顔で答えた。

 それから3ヶ月ほどして女子行員は突然退職することになった。そしてさらにその翌月、その女子行員が結婚したという噂を耳にした。優司が慌てて青山に確認すると、やはり別の男と結婚したということだった。

「小椋さん、あの時、一緒に飲みに行った時、小椋さんに見えてたのって、こういうことだったんですか?言ってくれれば良かったのに」

「いやあ、言われへんやろ。この子は他の男と結婚するで、なんて」

哀れな青山であったが、彼の方もその何年か後に、結婚して幸せな家庭を築いてくれた。あんなギリギリまで二股をかけるような女性と一緒になるより、その方がよっぽど良かったと優司は思った。


 バブルの時代は終わり不況の嵐が吹き始めた頃、銀行の新しい経費削減について行内公募による募集があった。優司は女子行員の制服に着目した。

「なんで女子だけ制服なのか。千人近い女子行員の夏服、冬服、着替えの分を支給して、何年かに1度、リニューアルもする。誰を基準にしているのか分からないが、似合っている者もいれば、可哀想なくらい似合っていない者もいる。いっそやめてしまえば経費削減にもなるのでは」と書いて提出した。優司はさっそく上司に呼び出された。

「君なあ。もっと真剣に考えたらどうや。こんなん、本部に出されへんから書き直しや」

「えっ、でも、皆が書いてるような、文房具をどうのこうのとか、コピー用紙をどうのこうのなんて、大した経費削減にはなりませんよ。要るもんは要るでしょうから」

結局、優司の考えは理解されず、お説教を食らうだけだった。しかし、その2年後から、大手都市銀行を皮切りに、地方銀行も追随して、女子行員の制服が廃しされていった。そして大阪銀行もしばらくして追随するのだった。優司は青山と居酒屋にいた。

「な、言うた通りになったやろ。あの時、都市銀行より先に、うちの銀行が女子行員の制服を廃止していたら、すっごいインパクトがあったし、この3年分の経費も削減できたんや」

「小椋さんは未来が見えちゃうから、どんどん先へ行っちゃうけど、時代が小椋さんに追い着かないんですよ。ハハハ。」

時代が追いついていない。確かに青山の言う通りかも知れないと思った。


 優司が40歳の時にようやく縁があった。知り合ったのは真弓39歳だった。特に大恋愛というわけでもなく、まあ一緒に飲んでいて楽しい相手だった。性格はまるで反対で、几帳面で綺麗好きで何事も計画的な優司に対して、どちらかというとおおざっぱで、細かいことは気にしない、自由奔放の真弓は、結婚というイメージのわかない女性だった。真弓は長崎の五島列島出身で、貧しい家に育ち、若くして大阪に出て来て働き始めた。なかなかの苦労人だった。自分も貧しい家で育った優司は、話しを聞けば聞くほど、心は傾いて行き「この人には幸せになってもらいたい」と思うようになった。そして結婚に至った。


 優司は結婚した翌年、『社会保険労務士』の国家資格を取ろうと思いたった。実は優司は大学3回生の頃、大学卒業後は労働基準監督署や社会保険事務所といった所で働きたいと思っていた。しかし、会計学研究サークルの殆どの友人が銀行へ就職したこともあり、優司もなんとなく銀行へ就職した経緯があった。今更、銀行を辞めてどうこうではなく、ただ国家資格を取りたい、そんな思いだった。

 週末は専門学校へ通い1年間勉強した。しかし、結果は不合格だった。「まあ、そんな簡単に合格することは無いわな」自分でもよくわかっていた。優司は諦めずに、もう1年、専門学校へ通うことにした。今度は本気だった。学校、家、往復の通勤電車の中でも一生懸命勉強した。しかし、結果はまたしても不合格だった。

「もうあかん。もう無理や。諦めるわ」

「もう1回だけ受けてみ。今まで勉強して来たのにもったいないやん」

普段は口を挟まず傍観していることが多い真弓だったが、珍しく背中を押した。優司も思い直して、もう1年だけ勉強を続けることにした。同じ専門学校の授業を受けても講義の内容は一緒なので、今度はテキストだけを購入し、自習室で自分のペースで勉強することにした。試験日直前では、時間を計って問題を解く練習を繰り返した。とにかく問題量が多いので、いかに速く問題を解いて行くかの勝負だと思った。

 12月、試験も終わり、結果通知を待っていた優司に、少し大きめの封筒が届いた。恐る恐る封筒を開けると、中に合格通知と案内書が入っていた。優司は声を上げて泣いた。真弓も側で泣いていた。優司は高校受験も大学受験も、合格しても一度も泣いたことは無かった。しかし、今回は泣いて喜んだ。それほどまでにこの合格は嬉しかった。


 21世紀を目の前にして、銀行は『平成の大合併』の時代を迎えた。生き残りをかけて各銀行が合併していったのだ。平成12年、大阪銀行も例外ではなく、ライバル銀行であった近畿銀行と合併することになった。銀行の合併で重要な項目は、どちらが存続銀行となるか、本店をどこに置くか、オンラインシステムはどちらに統合するかの3点だった。

 存続銀行については、地方銀行協会に加盟している大阪銀行が存続銀行となった。よって名称も『近畿大阪銀行』となった。本店については、大阪のビジネスパークに新しいビルを建てていた近畿銀行の本店を新銀行の本店とした。

 優司たちの一番の関心事はどちらのオンラインシステムを使うかであった。結果は、近畿銀行のシステムへ統合と決まった。これにより大阪銀行側のシステム部所属行員50数名は不要となり、移行作業要員の数名を残し、皆、散り散りばらばらに転勤して行くことになった。若くしてシステム部に配属され、20年以上システム部に所属していた行員も多く、今さら営業店に戻されても、営業店の仕事はすっかり様変わりしていて、苦労するのは目に見えていた。

 幸いにも、優司は社会保険労務士の資格を持っているということで、本店の個人営業部へ転勤となり、年金相談の仕事に就くことになった。社会保険労務士協会に会費を納め、正式にバッジ付けて『社会保険労務士』を名乗って仕事をするのである。もちろん、その会費は銀行が負担してくれた。

 年金相談というのは、各支店に年金相談会の日程を組んでもらい、順番に支店を回って、顧客の様々な年金に関する相談を受け、回答していくという顧客サービスであった。事前に5,6名の顧客に予約を取ってもらい、一人につき30分から60分程度で対応する。一番多い質問は、やはり「もうすぐ60歳になるが年金請求の手続きはどうすればよいか」であった。請求書の書き方や年金受取口座の説明をし、口座を持っていない顧客には、新たに口座開設をしてもらった。また、およその年金受給額なども算定し、老後の生活の話もした。現在持っている資産の運用などの話が出た場合は、相談会終了後に支店の得意先担当者に連絡し、後日対応に当たってもらった。毎日相談会が終わると、一度本店に帰社し、その日の報告書を書いて提出した。銀行全体の年金の受給件数の増減がダイレクトに優司達の成績となったので、減少傾向の支店があると、会議を開き対策を練るのも優司達の仕事だった。優司達には銀行の年金部門を背負っているという自負があった。


 平成15年、近畿大阪銀行は、りそな銀行グループの傘下に入ったため、経営の見直しということで『早期退職制度』の名のもとに人員削減がおこなわれた。ターゲットは昭和50年から55年入行の者であり、ちょうど優司達がその対象となった。

 優司達の年代は、まさに、支店長・次長クラスに昇進するタイミングであったが、りそな銀行から多くの出向者が押し寄せ、そのポストは置き換えられていった。そう言ったこともあり、50名近くいた同期の7割以上が退職を申し出た。

 優司は迷った。実は優司は銀行側から残って欲しいと個人的に依頼があった。もともと年金相談会は銀行の行員4名と外部委託の社会保険労務士3名でおこなっていた。今後は、外部委託の社会保険労務士3名とその取り纏めをする行員1名で継続して欲しいというのである。確かに残ってくれと言われるのは光栄なことだったが、りそな銀行は年金相談会など不要という考えのようなので、ゆくゆくは、この仕事は無くなるであろうと思われた。

 優司は真弓にも相談した。

「あんたが悔いの残らんようにしたらいい。この先、何があっても私は大丈夫や」

真弓の言葉には感謝したが、やはりどうしたら良いのか分からなかった。こんな時こそ少しでも自分の未来が見えたらと思った。しかし残念ながら、いつも自分自身の未来については全く知ることができないのだった。


 優司の遠い親戚にあたる方で、何年も修行をした立派な行者さんがいた。その先生は怖いくらい何でも言い当てる方で、悩める人の相談事にアドバイスをしてくれていた。それを本業としてやっている訳ではなく、ご厚意で見てくれるので、本当に困っている人の相談に限られていたが、優司も何か大きな迷い事がある時は、その先生を頼っていた。

 優司が20歳を過ぎて不思議な現象が起こり出した頃、それを相談しに行ったことがあった。その時は

「この方は生まれながらにして、そういう力を持って生まれて来られたようやな。世の中にはそういう使命を持って生まれてくる方がいる。私のような凡人と違って、こういう人が修行をして、もっとその力に磨きがかかったら、多くの人を救えるのにな」

と言われた。

「いやいや、僕はそんな先生のような立派な人間にはなれないです」

と笑って答えるしかなかった。

 また、40歳で結婚が決まった時もその先生に報告の挨拶に行った。その時は

「それは良かった。おめでとう。良いお嫁さんを見つけられた。このお嫁さんとはとても相性が良い。良い家庭を築かれる。それと、男の子が」

と言いかけて

「ま、まあ、それは」

と言葉を濁された。一瞬、優司は「うん?」と思ったが、その後、真弓との間に子宝に恵まれることもなかったので、あの時、先生は何か言い間違いでもされたのかなと、特に気にも留めていなかった。


 今回の早期退職に関しても答えの出なかった優司は、この行者の先生に相談に行きアドバイスを受けることにした。

「もともと銀行の仕事は不向きだったかも知れんな。銀行の中でもちょっと特殊な職種に就いていたことで、何年も続けて来られたんでしょう。銀行の一般的な職種に戻されると、遅かれ早かれ辞めることになるでしょうな」

「やっぱり、そうなんだ」優司は思った。同期の者は支店で得意先担当の仕事をしている者が多かった。彼らの主な仕事は、得意先に融資をすることだった。お金が無くて借りたいという先には、危険だからという理由で貸さず、お金は有るから借りなくてもいいという先には、お願いしてでも借りてもらうという、よく分からないことをすることもあると聞き、自分にはそんな仕事はできないと常々思っていた。もし今後、支店に転勤になったら、そういう仕事もせざるを得なくなる。優司は銀行を辞める決心をした。

 優司は有休が20日以上残っていたが、各支店を回るスケジュールが先に決まっていたので、退職日の前日まで、1日も休まずに仕事を続けた。そして平成16年1月31日、退職の日を迎えた。定年退職と違い、中途退職は寂しいものだった。朝礼の後、自分の机の中の整理をしたり、人事部に必要書類を提出しに行ったりした。周りの席の社員に挨拶をして、誰に見送られるでもなく、静かに職場を去って行った。職場はいつもと変わらず、電話の音と人の声で溢れていた。


 優司が銀行を早期退職する1年前から、正夫は癌になり入退院を繰り返していた。優司は結婚して大阪市内のマンションに住んでいたが、銀行を辞めて高い家賃も払えなくなるのと、父親のことも心配だったので、実家の近くの小さいアパートに引っ越すことにした。

 再就職は思った以上に大変だった。30社ほど履歴書を送ったが、面接にこぎ着けたのは10社ほどだった。残りは書類審査で落とされた。そしてその10社ほどの面接も口を揃えて

「実務経験はありますか?当社としては即戦力が欲しいんですが」

と言われ落とされた。ハローワークでアドバイスされたのは

「希望職種をシステム関連で探されたらどうですか?20年以上のキャリアがあるわけですから」

「システム関連の仕事は初めからあまり好きでは無かったし、もう年齢的にも無理だと思います。それより、経理・総務関係の仕事をしたいんです。学生時代に日商簿記2級も取りましたし、社会人になってから社労士も取りましたし」

「うん、いくら資格をお持ちでも実務経験を言われてしまうとねえ。それと経理・総務関係の仕事となると、やっぱり女性の方が有利なんですよね」

もう履歴書を送れそうな会社もなくなり、一緒に退職した同期の人間が、次々に再就職を決めたという話を聞くと、焦り始める優司であった。


 辛い時には辛いことが重なるもので、入退院を繰り返していた正夫が亡くなった。そしてその日に1本の電話が入った。電話の相手は、優司が登録していた人材紹介会社だった。

「急なことなんですが、明日、面接をしたいという会社がありまして、ご都合はどうでしょうか?」

「ああ、実は、今朝未明に父が亡くなりまして、明日はお通夜なんです」

優司は断りの返事をしていた。側で聞いていた光子が

「面接、行っておいで、こっちのことは心配せんでいい」

と小声で言った。優司は一瞬戸惑ったが

「わかりました。行かせてもらいます」

と返事をした。

 人材紹介会社の担当者と訪問したのは、大阪市内にある、株式会社大國という乾物問屋だった。応接室に通され、中で待っていた社長は、優司よりも10歳以上若い男性だった。面接が始まり、1時間近く、社長が会社の説明やら、商品の海苔の説明をしてくれたが、その間、優司に対しての質問は一切無かった。帰り道、優司は力なく人材紹介会社の担当者に言った。

「今日はありがとうございました。せっかく紹介してもらって、付いて来てもらいましたが、何の質問も無かったし、不合格みたいですね」

「そうですね。まあ、でもまだ、決まった訳ではないし、明日、明後日中に先方から合否の連絡はあるので」

担当者も返答に困っているようだった。

 翌日、人材紹介会社から採用が決まったと電話があった。優司は喜んだが、何か吹っ切れないものがあった。

「でも何の質問も無かったのに」

すると葬儀に来ていた親戚の者が

「その社長は凄い人を見る目がある立派な方で、優司が座って居るのを見ただけで、この人材は欲しいと思ってくれたんちゃうか。良い会社に採用されたやん」

「そうかなあ」

葬儀も終わり、翌月初までの間に、光子の相続の手続きや遺族年金の手続きで走り回ったあと、株式会社大國に正式に入社した。人材紹介会社の担当者は

「正式に入社する前に給料の交渉をしましょうか」

と言ってくれた。銀行に在籍していた頃の半分近くに給料が減ってしまうからである。しかし優司は

「いえ、この会社で頑張って働いて、社長に認めてもらい、給料を上げてもらいます」

とかっこ良いことを言ってしまった。後で後悔することになるのだが。


 この会社は同族会社で、社長は三代目、前社長の息子だった。おそらく社長は前社長の息子として入社したので、面接などは経験したことが無かったのであろう。優司より後に採用となった後輩達に確認したが、やはり面接では、ほぼ何も質問されなかったらしい。まあしかし、採用してもらえたのはありがたいことだったので、優司は真面目に一生懸命働いた。

 優司の仕事は大まかに言うと銀行関係の仕事だった。手形・小切手の作成・管理、パソコンを使った振り込み支払い・入金処理、韓国などからの輸入に対する海外送金決済、銀行融資の新規借り入れ・月々の返済、会社の資金繰り等々であった。これらは、営業店の経験が少なかったとは言え、銀行員としての最低限の知識は身に付けていたので、最初から特に問題無く仕事をこなしていった。また、経理部の仕事だけでなく、手が空いている時は営業部の社員に混じって、コンテナからダンボール箱に入った入荷商品の荷降ろしを手伝ったり、倉庫内に山積みにされた返品商品の整理なども手伝った。

 中途入社であったが、優司は早い段階から会社に馴染み、他の社員とも仲良くなった。ただ唯一、社長とはそりが合わなかった。全社員がイエスマンだったのに、優司だけがもの申す社員だったからであろう。たとえば、銀行の担当者が来て社長と面談し、融資の話を決めたあと、優司がその内容を確認し、会社にとってデメリットの取引であれば、社長にその旨を進言した。社長は優司に

「じゃあ断っといて」

と後始末を任せた。そうすると銀行担当者は次回から、社長ではなく、先に優司に融資の話は持って来るようになった。そうすると、社長は、それはそれで気に入らないようであった。

 また、ある日、優司は取引先の株式会社恵比寿屋の受取手形が気になった。最近、微妙に支払期日を2、3日後ろにずらしているのである。ひょっとして自転車操業ではと、社長に報告した。

「たまたま、期日が土日やったから後ろにずらしただけでしょ。小椋さんは知らんやろけど、恵比寿屋は先代からの取引先で立派な会社や。うちがしんどい時、助けてくれたこともあった。1日や2日、入金が遅れてもどうってことないでしょ」

と、全く意に介さない様子であった。どうも社長も認めたうえで、手形期日をずらしているようだった。「忠告はしましたからね」優司はそう思った。それから1ヶ月後、営業担当者が血相変えて戻って来た。

「社長、えらいことです。恵比寿屋、いかれました。今日行ったらシャッター閉まってて、張り紙がしてありました」

当然、受け取っていた手形はすべて不渡手形となった。優司は淡々と後処理をするのだった。


 56歳の時だった。優司は会社のパソコンを操作していて目眩がして倒れた。しばらく安静にしていれば落ち着いたが、ほぼ毎日のように目眩がするので、病院に行くことにした。内科や脳神経外科にも行ったが異常なしで原因が分からなかった。最近、物が見えづらいということもあったので、眼科にも行ってみた。

「老眼が始まっているというのはありますが、目眩がして倒れるというのがねえ。小椋さん、ひょっとして。これを見ていてください。はい、消えたんちゃいますか?」

「消えました」

「これでどうです?」

「ああ、見えました」

「小椋さん、普段、物を片目ずつで見ると、物が斜めに動きませんか?」

「ええ、子供の頃から。でも、みんなそうなんやろと気にもしていませんでした」

「小椋さんは右目と左目の視点の高さが違うんですよ。若い頃は自分の目の筋肉で高さを調整して物を見ていた。だけど年齢とともにその筋肉が衰えて調整しづらくなり、パソコン等をじっと見ていると、目眩を起こすようになったんだと思います。あと、右目なんですが、少しだけ網膜剥離を起こしています。何か右目に強い衝撃を受けたことはないですか?」

「生後3ヶ月の時に、右目に金槌の頭が落ちたというのを、母から聞いたことがあります」

「そうですか。それが原因という可能性はありますね。メガネですが、右目のレンズにプリズムを入れて左右の視点の高さを揃えるよう処方箋を書きますので、メガネ店で作ってください。網膜剥離については毎年検査して進行していないかチェックしてください」

優司は早速メガネを作り、それ以来、目眩を起こすことは無くなった。


 それから3ヶ月ほどした頃、母方の叔母が癌で入院したと連絡があった。叔母は優司が子供の頃からよく可愛がってくれ、大人になってからもずっと交流はあった。ちょうど70歳で古希を迎えたと喜んでいたし、つい半年前、夫婦で大阪まで遊びに来たほど元気にしていたのだ。

 最初は放射線治療をおこなっていたが、担当医が手術をした方がいいと勧めたらしい。その話を聞いて、優司は心に語りかけてくる声が聞こえた。

「手術をしたらあかん。手術をしたら死んでしまう」

優司は光子に相談した。

「お母さんはあんたの言うことを信じる。けどな、これは命に関わることや。何の根拠も無しに、ただ、そう聞こえただけでは、人に言うたらあかん。逆に手術をせんと亡くなってしまった時、責任取られへんで」

優司は悩んだが、やっぱり手術は止めなければと思い、お見舞いという形で叔母の入院先に出向いた。お見舞いを終えて、義叔父に駅まで送ってもらう車の中で、話を切り出そうとしたが、義叔父の方が先に話し始めた。

「担当してくれてる先生が、良い大学出た立派な先生でな。まだ若いんやけど、安心して私に任せてくださいって言うてくれはって。ほんまにありがたいことや」

涙ながらに話す義叔父の姿を見て、優司は何も言えなくなってしまった。

「そう、良かったな」

そう答えるだけで精一杯だった。後日、手術はおこなわれ、術後の経過が悪く、叔母は帰らぬ人となってしまった。優司は手術を止められなかったことをずっと後悔した。

 

 早いもので、優司が再就職して10年が経った。ある日、実家に寄っている時に、一枚の分譲住宅のチラシが郵便受けに入っていた。優司は子供の頃から、分譲住宅の間取り図を見るのが好きだった。ずっと狭い公営住宅に住んでいたので、いつかは広い家に住みたいという願望が、いつしか趣味のようになってしまったのだ。

「なんや、どれもこれも、もうひとつの家ばっかりやな」

何気なく裏を見ると、中古物件が載っていた。

「へえ、この間取り良いやん。えっ、これここの近くやし、駅からも3分か。まあ、僕はいらんけど」

チラシをテーブルに置いたまま、用事を済ませて優司は帰って行った。翌日、光子から電話があった。

「昨日あんたが帰ってから、あんたが見ていたチラシを見たんよ。で、さっそく不動産屋に電話したら、日曜日、見学されますかって。行って来たらどうや。あんたが間取りが良いって言うのは珍しいから、よっぽど気に入ったんやろ。お母さんは、あんたらと同居する気はない。でも近くに住んでくれたら安心や」

じゃあ見るだけということで真弓と二人で見学に行った。築10年以上だったがきれいにリホームされており、特にここが気に入らないという箇所は無かった。この家と縁があったのか、話はとんとん拍子に進み、58歳にして、マイホームを持つことになった。銀行を退職した時に貰い、虎の子として持っていた退職金を頭金として、残りは75歳までの銀行ローンを組んだ。


 株式会社大國では、一応60歳が定年で、その誕生日をもって退職となっていた。優司は2ヶ月前に社長室に呼ばれた。

「小椋さんも、もうすぐ60歳になられるので、一応、定年退職という形を取らせてもらうけど、小椋さんが希望すれば、再雇用という形で65歳まで続けて働いてもらえます、どうしますか?仕事の内容は、今まで通りで、勤務時間は少し短くなります。で、給料は時間給になるので、その分少なくなりますが」

優司よりも年上の社員はみんな再雇用を希望して残っていた。社長は当然、優司が再雇用を希望すると思っていた。しかし、優司は最初から60歳で辞めるつもりでいた。この会社に何年いても社長とはそりが合わなかった。12年間勤めて1度しか昇給が無く、それもたった千円上がっただけだった。他の社員が毎年少しずつでも昇給していたにもかかわらず。

「長い間お世話になり、ありがとうございました。他にやりたいこともあるので、せっかくですが、再雇用は希望しません」

社長は少し動揺した。優司の誕生日は9月13日だったので、その日をもって退職するのだが、9月末が中間決算になるので、銀行関係を一人で対応していた優司には、せめて9月末までいてもらわないと困るのである。翌日、経理部長の口から退職日を9月30日まで延期してほしいと依頼があった。

「わかりました。最後まで中間決算の対応をします。で、ひとつお願いがあるのですが、有休が殆ど残っているので、2ヶ月間、毎週土曜日に取らせてもらってよろしいでしょうか?仕事は銀行関係なので、土曜日なら休んでも影響無いかと思いますので」

当然、会社側はOKだった。そして2ヶ月後、平成28年9月30日、優司は株式会社大國を定年退職した。同僚達からは花束や記念品を貰い、取引銀行の担当者達も、わざわざ訪問して来て、最後の挨拶をしてくれた。優司は12年間の頑張りが報われたと思った。


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