あの教室で、僕らはまだ名前を呼べない
三日坊主の遺言
放課後、名前のない隣の席
「教室って、落ち着くよね」
夕方。空気がゆっくりと沈む放課後の教室で、彼女はそう言った。
「そうだね」
僕は机に肘をついたまま、ぼそりと返す。
この教室に残っているのは、僕と彼女だけ。
廊下のざわめきも、窓の外の部活の声も、ここには届かない。
いつの間にか、それが僕たちの日課になっていた。
誰よりも早く登校するわけでも、特別仲がいいわけでもない。
ただ、放課後の数分だけ、ふたりきりになる。
それが、ずっと続いていた。
彼女の名前は……知らない。
というのは、さすがに嘘になる。
出席番号も誕生日も、SNSの裏垢の名前まで知っている。
でも、呼んだことがない。
呼べなかった。
呼んでしまったら、この関係が終わってしまいそうで。
「今日、ちょっと寒いね」
「うん。そろそろ長袖かな」
彼女がシャツの袖を引っぱりながら、ふっと笑った。
その仕草が、なぜか胸に刺さる。
名前を呼びたいと思ったのは、何度目だろう。
でも、喉の奥で引っかかるように言葉が出ない。
彼女は、僕にとって“匿名の誰か”であって、
でも、それが一番大事な誰かでもあって。
教室の時計が午後五時を指す頃、彼女はカバンの紐を握った。
「そろそろ、帰ろっか」
「……うん」
彼女は立ち上がると、後ろを振り向かずに教室を出ていった。
その背中が、小さく、遠く、切なかった。
名前なんて、ただの記号なのに。
どうして、それを呼ぶのが、こんなに怖いんだろう。
***
翌朝。
僕はいつもより早く登校した。
別に意味があるわけじゃない。
でも——会えるかもしれないと思っていた。
教室に入ると、そこに彼女はいなかった。
窓際の席、僕の斜め後ろ。
いつも彼女が座っていたあの場所は、空席のままだった。
僕は少しだけがっかりして、席についた。
眠気を誤魔化すようにノートを開くと、
なぜか、そのページに小さな紙片が挟まっていた。
それは、折りたたまれたメモだった。
《相澤くんへ》
一行目で、心臓が跳ねた。
呼ばれた。僕の名前が——。
《昨日、話せなかったことがあるから、今日の放課後、美術室に来て。》
文字は小さくて、少し震えていた。
だけど確かに、彼女の筆跡だった。
***
その日一日、僕は落ち着かなかった。
教科書の文字が上の空で、先生の声も耳に入ってこない。
午後のチャイムが鳴ると同時に、僕は教室を飛び出した。
廊下を抜け、階段を上がる。
美術室の前に立つと、扉の向こうからかすかな物音が聞こえた。
ノックをしようとした、その瞬間——。
「久しぶりだな、陽翔」
中から出てきたのは、見覚えのある顔だった。
黒髪、無表情、そして無駄のない動作。
「福田……蒼馬……?」
「まさか、またお前と同じ学校になるとはな」
彼は小さく笑った。
懐かしさよりも、冷たい感覚が背中を這った。
過去の記憶が、少しずつ引きずり出されていく。
名前を呼べなかった理由。
忘れたふりをしていた、あの日のこと。
そのとき、彼女の声がした。
「福田くん……もう行くの?」
僕の背後から、彼女が歩いてきた。
その手には、小さなスケッチブック。
「うん。後は、相澤くんに任せるよ」
彼はそう言って、僕と彼女の間をすり抜けていった。
すれ違うとき、ほんのわずかに彼の目が僕を見た気がした。
彼女は僕の前に立つと、ぎこちなく笑った。
「……ごめんね。いきなりこんなふうに呼び出して」
僕は、ゆっくりと息を吸った。
「ううん。いいよ」
ただ、喉の奥がまだ熱かった。
呼びたいのに呼べない。
彼女の——その名前を。
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