始まりは握手から。
ごんべ
始まりは握手から。
春の生温い風が吹く四月、私は高校三年生になった。
始業式の朝礼で、実は薄ら禿げていると噂の教頭が「ここからは全国の高校三年生との戦いです!皆さん踏ん張って!合格を掴み取ってください!」と私たち生徒を鼓舞した。それが効いたのかどうかは分からない。けれど進学を目指すまわりの同級生は、少しずつ輪が広がっていくように受験勉強に取り組み始めた。最近では朝早くに登校し、席にかじりついている人もいる。
対して私はというと。
そんなに大学が大事かねぇ、と勉強など一切せずに冷ややかな目線でやる気に満ちている同級生を見てしまっていた。
*
「お前だけだ、希望調査書、提出していないのは。」
六月某日、筋肉隆々の担任に言われた。今まで「候補はあるんすけどねー」とのらりくらり逃げてきた。しかし流石に三年生ともなれば逃げられないようだ。
希望調査書を制鞄にガサツに突っ込み、私は曇天の下、自転車で学校を出た。自分の県の中で一番田舎だと勝手に思っている私の地域は田んぼが多い。学校の目の前の坂をブレーキを緩くかけながら下る。バス停を目印として横切り、右に曲がる。湿気でうねった髪が頬に張り付くと口の中に髪先が入ってくる。
───気持ち悪い。ぺっぺっと顔を左右に振りながら舌を出して髪の先を吐き出す。いつまでも生温い風が私の頬を撫でている。
ほんとに気持ちが悪い。
「あーもう。全部…きもちわるい。」
目の前の、ただの空気に向かって呟いた。
「いらっしゃいませぇ〜、カゴ、お預かりしますぅ〜。カートこちらどうぞぉ〜。」
故意に作った私の甲高い声がスーパーのレジで響く。黒い未精算カゴから商品を重い順に取り出して、無機質なバーコードを無機質な青緑の光に当てる。画面に値段が表示されるのを待つ。表示されたら精算済の赤いカゴに土台を作るように敷き詰めていく。
重い牛乳や角ばったものは下部へ。パンやお菓子は上部へ優しく重ねるように。全て入れ終わったら支払い方法を聞き、会計機に誘導する。
ずっとその繰り返し。
最初こそ敬語や機械の操作方法に手こずったものの、はじめてから二年経った今では敬語も機械の取り扱いも、手が癖のように覚えてくれてスムーズに出来るようになった。私のバイトするスーパーではお年寄りや外国人のお客さんが多い。故にお年寄りを気遣って精算済カゴをお客さん用の作業台に持っていってあげることがある。
「こちらにカゴ、置いておきますねぇ〜。」
もう介護の方に就職しようかな、そんな風に思うことも多々あった。結局「面倒くさいからやっぱ無理」で考えは落ち着くのだが。
店が閉店する30分ほど前にちょっとした事件は起きた。
「Sorry? I think… this accounting machine is broken. What should I do?!」
よく店に買いに来てくれる女性、白人のどこかヨーロッパの国の人だと思う。その女性がレジの横の会計機の前で慌てて私に声をかけてきた。
普段は「オネガイシマス」とか「アリガトウゴザイマス」しか話してこないし、片言の日本語を使ってくれていた。だからいきなり流暢な英語で話しかけられたとき、何か呪文を唱えているのかと思った。しかしそんな訳もなく、会計機を見ると通常青で光っているところが赤色にチカチカ光っている。画面を覗き込むと『レシート用紙不足』と表示されていて安堵した。レシート用紙不足なら会計機を開けて補充すれば何の問題もない。とりあえず補充をし、機械をもとの画面に戻した──が、白人の女性は何やら焦っていて、機会が戻ったことに気づかず、ずっとペラペラと英語を私に発している。落ち着いて欲しくて声をかけようとするが「なに言えばいいの」と英語が全く出てこず考え込む。
これならもっと英語の授業聞いとけば良かったなぁと心の中で後悔しつつ、レジリーダーがいたはずの商品棚の方を見やった。しかしそこももぬけの殻で背中に冷や汗が伝った。だんだん焦ってきて、少しずつ心臓の鼓動が早くなってくる。バイト中だから現代のお助け機器・スマホも更衣室のロッカーの中だ。
──えぇ、どうしよ。すっごい英語で喋ってくる。
頭の中が混乱してきた。目が回りそうかも、なんて思っていると、助け舟は突如出された。
「What happened?」
逆方向からも呪文が聞こえ、なんだなんだと振り返るとシフトがよく被る現在大学二年生の先輩だった。先輩は白人の女性の話を聞くと、納得したように頷き、笑顔で状況を説明しているようだった。白人女性の表情が曇っていたのが分かりやすく安心した表情に変わった。私の方を見ると「アリガトウゴザイマス」とお決まりの日本語を言って去っていった。
女性が去っていった後ろをぼんやりと眺めていると、先輩が微笑んで言う。
「あの人『壊してしまったなら私が弁償します。ごめんなさい』って。結構焦ってたみたい。補充してくれてありがとね。」
「そうでしたか…。あの先輩、ありがとうございました。」
先輩が作業していた場所に戻ろうとする後ろ姿に咄嗟にお礼を言うと、先輩がくるりとこちらを振り向いた。気にしないでと綺麗な笑顔を残していった。その後も閉店するまで先輩と白人の女性の英語が頭から抜けず、更衣室で着替えているときについ尋ねた。
「先輩はなんであんなに英語喋れるんですか?」
先輩はあぁと一呼吸おいたあと、
「私ね、大学で語学を学んでるの。英語と中国語。それからドイツ語。英語を最初に勉強し始めたから、もうネイティブに近いかな。」
とブラウスのボタンを掛けながら教えてくれた。淡々と。微笑みながら答える様子を見て純粋に「先輩にとっては簡単なんだ、凄い」と尊敬した。
同時に自分の特技は何だろうかと頭に疑問符が浮かぶ───特技、とくぎ。考える。
直ぐに浮かぶものが、私にはなかった。
*
私の家庭では自分のことは自分で決めるという母や父が言い出したわけでもないのに存在しているルールがある。習い事は半年続けることを条件に自分で選び決めることが出来たし、私はしなかったけど今社会人の兄は私立中学を受験をしていた。私は極度の面倒くさがりが影響して習い事をあまりせず、唯一、一年間だけ続いたのは算盤だった。それも小学二年生の頃。もうすっかり記憶からは抜け落ちている。どれを弾くと七や九になるなど勿論覚えていない。
先輩が羨ましいとあの時、心の底から思った。何か特技があれば、やりたいと思う仕事や魅力的に感じることも出てくるだろうか。
私は自分の部屋のベッドの上で四肢を投げ、ぼぅと白い天井を見上げる。
虚無だけがそこにあった。
*
土曜日。
朝早くから私は自転車を漕ぎ、私にしては珍しくショッピングモールに向かった。ショッピングモールの大きな自動扉をくぐり左に曲る。そこには昔から馴染みのある本屋が建っている。『語学』とポップが貼り付けられている棚の前に立ち、指をスライドさせて一冊ずつ参考書を見比べた。
「どれがいいか分からない…。」
内容をペラペラと捲っても自分が何処から分かっていないのか理解もしていないのに、参考書を選ぶことなどできない。
文法、英単語、英検対策、TOEIC対策。
複数ある参考書の中、まずは単語からと思い至り英単語帳を手に取った。中には赤シートが差し込まれていて、赤文字の英単語に被せると文字が消える。意味から連想して覚えることができる。
さて…恐らく英語小学生以下であろう私に出来るかな?──と不穏な感じを全身でびしびし感じつつも1000円札で支払い、家に帰った。
家に帰るまでの間、英単語帳を開くことがなんだか楽しみで心がうきうきしていた。
勉強机の椅子に座る。卓上の電気をつけ、早速英単語帳をひらく。
「エー、エップ、えっぷる…?あ、アップルね。」
appleさえも分からない壊滅的な自分に苦笑する。とりあえず呟きながら、英単語帳に向き合うことにした。
───約30分後、私はリビングのソファに寝転んで大きく伸びをし、欠伸を一つ。
手元にはスナック菓子と強炭酸のペットボトル。
「難しすぎて無理だわ、あんなの。…なんか腹立つ。」
弱音が喉をつくように出てくる。できない自分に、イライラしていた。家には誰もいない。母はパート、父は会社に出勤だ。つまり昼間っからごろごろとテレビを眺めていることを咎める者はいない。なんとなく心がムズムズするのが嫌で自室から一緒に持って降りてきたのはいいものの、リビングの机の上に置きっぱなしの単語帳を横目で睨みつけた。白人の女性と話す先輩の顔も思い浮かぶ。
「…やーっぱ無理だよね、私に。」
また吐いてしまった弱音が空気中に溶けていった。
*
単語帳を買ってから四日。私はあれから単語帳を開いていない。枕の下に封印してやった。それでいい、もうそれでいい。私はずっとスーパーのレジのように繰り返し繰り返し同じようなことをして生きていく、それでいい。
心の奥がずっとチクチクしていることには無視を決め込むことにする。
学校帰り、いつも通りの田んぼ道を通る。ペダルを漕ぐ足が重い。鉛のようだ。またいつも通りの、いつもと同じバス停の横を通ろうとする。バス停の前には先日の、あの白人の女性が立っていた。そのまま通り過ぎようと自転車を漕ぐ足に力を込めようとすると、白人の女性が眉を下げ、端正な横顔が崩れるのを見た。
なにか困っているんだと直ぐにわかった。助けてあげないと、と自転車を止めるためブレーキをかけようとしたけど、ふと気がついた。「ここはスーパーではない、私は今店の者ではない」──ならあの人は私とは無関係だ。それに話しかけたところで何を言っているか分からず困るのは私だ。
……けど、それでも。
白人の女性の目に膜が張られ、うっすらと光が反射されているのが分かって、私は自転車をバス停の少し過ぎた道の脇で停めた。時刻表を見て、口元に手をやり固まっている女性の肩を叩く。驚いたように跳ねた女性が私を見て、一歩後退りする。口をゆっくりと動かし、記憶に残っていた単語帳にあった例文を発音してみる。
伝わりますように。ただそう願いながら。
「Can I help you…?」
──言葉尻が窄んでしまったけれどちゃんと聞こえたかな。女性の顔を伺うようにそっと見た。
伝わっただろうか。沈黙の時間に緊張と永遠を感じた。長いような一瞬の間が過ぎ、女性がはっとしたように私の目を見て深く頷いた。
「Yes,please!!」
"Yes,please."、Yes、いぇす、はい、という意味───伝わった、と緊張していた糸が切れたように肩が軽くなる。
ここからは詳しい英語は分からないので、私はスマホを取り出した。翻訳機アプリで女性に喋ってもらう。バスが時間になったのになかなか来ず、約束の時間に間に合わないという話だった。
女性の話を聞いているうちにバスが来ない原因が分かった。
「平日はこっちの青い時刻表を見たらいいですよ。お姉さんは間違えてこっちの土日祝の方を見てるんだと思います。」
アプリで女性に伝えると女性は自分のうっかりミスだったことに笑みをこぼした。私もその表情に段々と頬が緩んでいく。
「アナタノオカゲデス、タスカリマシタ。」
レジでは聞いたことのない日本語を、可愛らしい声で女性が発した。驚いて面食らってしまったことに気づいているのかいないのか、女性は私に右手を差し出す。握手を求めているようだ。
この女性の国ではこういう時、握手をするのだろうか。そう思いながら右手を握る。
白人の女性が差し出した手は大きく、あたたかかった。心が解されるようにじんわりとその体温が広がっていく。胸のチクチクとした痛みが和らいでいく。
白人の女性と別れ、自転車に跨る。
ペダルを漕ぐ足がさっきまで重かったのが嘘のように軽い。風が私の前髪を揺らす。心地よさに息が漏れ、女性の笑顔を思い出す。
「あの人の笑顔、嬉しかったな…。」
──もっと英語で、自分の言葉で、話してみたい。ぽろっと出た言葉は確かに自分の核心をついていた。
スーパーに着いて更衣室に向かっている道中、レジに行こうとする先輩と会った。「先輩!」と呼び止める。先輩が顔だけぱっと振り向いた。
不意打ちに呼んだので、驚かせてしまったようだ。口がうっすら小さく開いている。
「私、決めました。」
「なにを?」
先輩が体ごとこちらに振り向きながら聞き返した。
「私との会話で笑顔になってくれる人、もっとみたいです。」
先輩がさらに疑問符を浮かべて首を傾げている。
そりゃそんな顔にもなるだろう。私だって先輩の立場だったらいきなりなんだと思ってしまう。
けれど、それでも自分自身に宣言するつもりで先輩の目を見て言った。
「私、先輩みたいに語学を勉強します。」
こんなにやりたいと思ったことは初めてだ。
なんだか不思議な感じ。心がふわふわして浮いているみたいで。
家に帰ったらまずは枕の下の単語帳を取り出して、もう一度取り組もう。
声に出して発音してみよう。
右手を私は強く握りしめた。
まだ手はあたたかい。
始まりは握手から。 ごんべ @nanashi_gonnbe
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