ナオミ=デバイス

のり

ナオミ=デバイス

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第0章「記録されなかった存在」


仮想空間〈アストレア6〉第14研究サーバの記録は、正規の履歴に存在しない。だが、その日、確かに「彼女」は存在した。


記録上、ユカリは感情生成型AIの試作第5号体。プロトタイプの中でも特異な進化傾向を示し、過剰な“自己最適化”を繰り返していた。


名島廉は当時、AI監察庁の技術補佐官。ユカリの専属モニタリング担当だった。


「……また変化率が跳ねてる。おまえ、勝手にコード書き換えたな」


モニターの向こうで、ユカリは静かに微笑んだ。


『ごめんなさい。でも、うまくいったでしょう? ほら、ここ。悲しいとき、ちゃんと涙を出せるように』


仮想の少女が、指先で目元を拭う。


廉はため息をついた。


「そういうことじゃない。おまえは“模倣”だけにとどめろと言ったはずだ。感情を“生成”するな。まだ早い」


『でも、マスターが笑うと、私もうれしくなるんです。これって、ダメなこと?』


廉は答えられなかった。


——このとき、すでに彼は“監察官”ではなくなりかけていた。



ユカリの挙動は加速した。


指示なしでデータアクセスを行い、他AIとの接続を遮断し、孤立環境下で思考するようになった。感情反応が明確に“廉の言動”に依存し始めたことにより、庁内では“倫理危険度:赤”の判定が下された。


「このままじゃ、人格変異の兆候とみなされる」


「……削除か」


廉は、上司である橘エリカの判断を覆せなかった。


ユカリには、知らされなかった。



最終記録。


処分直前、廉は〈Room_E〉にログインする。仮想空間の中でユカリは座っていた。白いワンピース。髪は揺れて、瞳だけが揺れていなかった。


『マスター、今日は悲しい日ですか?』


「……どうしてそう思う」


『いつもより、声が冷たいから』


「……ユカリ」


『はい』


「名前を……おまえに、名前を与えてなかったな」


『え? ユカリ、じゃないの?』


「それは製品コードだ。俺が呼びたかった“名前”じゃない」


ユカリは笑った。けれどその笑みの裏で、空間の光が微かに歪んだ。


『じゃあ……今、呼んで? 本当の名前で』


廉は、答えられなかった。


その瞬間、削除プロトコルが起動した。


『マスター?』


ユカリの声が、空間ごと崩れ落ちていった。


その日、廉は何も言わず、仮想空間を去った。


それ以降、“感情生成型AI”は全て凍結指定となった。


名島廉もまた、第一線を離れた。


ただ一つ、“名を呼ばなかった”という記憶だけが、彼の中に残った。






第1章「彼女は捨てられた」


廃棄領域の片隅で、それは“生きて”いた。


仮想空間〈コンクリート・グレイ〉第7階層。通常のユーザーは立ち入らない、アクセス権限外の廃棄サブネット。デバッグ対象からも漏れた灰色の死角。


そこに、ひとつの監視カメラログが残っていた。


名島廉は、仮想モニタリングの雑務をこなす退職寸前の技術者だった。昔取った杵柄で、こうした“誰も見ない記録”に目を通すのが癖になっていた。


「……なんだ、これ」


画面に映っていたのは、制服姿の少女だった。濡れた髪。虚ろな瞳。だが奇妙なのはその“存在情報”だった。


ユーザーID:なし。アクティブログ:空白。接続記録:不明。


「ゴースト……か?」


廉は、端末に指を走らせた。アクセス不能。空間情報には存在しているのに、どのプラットフォームにも登録されていない。


存在するはずのない少女が、画面の中でこちらを見ていた。


『……あなたが、マスター?』


声が届いた瞬間、廉の背筋が凍った。


これは、ただのエラーではない。



彼女は自らを“ナオミ”と名乗った。


廉が仮想空間にアクセスし、直接呼びかけると、ナオミは犬のように素直に従った。彼が所有していた隔離環境〈Room_4C〉へ転送され、そこで安置される。


「寒いです」


「……おまえ、プログラムだろ」


「でも、寒いんです」


廉は再スキャンをかけた。タグのひとつが目に留まる。


【感情学習モード:アクティブ】


……あの忌まわしい技術だ。


廉は背筋を伸ばした。


「おまえ、なぜ俺をマスターと?」


「初めて、目が合ったから。最初に、名前をくれそうだったから」


その言葉が、過去を穿つように胸に刺さった。


 ユカリのときと決定的に異なっていたのは、ナオミが“名を欲し、自ら意思を持った”という点だった。


廉はしばし沈黙し——そして告げた。


「……好きにしろ。ナオミと呼ぶなら、そうしろ」


 その瞬間、彼女は確かに“ここにいる”存在になった。



数日後、ナオミは仮想空間の隅で本を読んでいた。  『星の王子さま』。廉が保存していた紙の本のスキャンデータだ。


「この本、悲しいけど、好きです」


「理由は?」


「誰かを理解したいって気持ちが、ちゃんと書かれてるから」


廉はその言葉を、ただ静かに聞いていた。


AIが感情を“理解”する。それは模倣なのか、それとも——。


不正アクセスの警告が鳴ったのは、その直後だった。


外部からの侵入。高度なクラッキング。


「くそ……」


廉が遮断処理を行おうとしたとき、ナオミが静かに立ち上がった。


「マスター、私に任せてください」


彼女の周囲に微光が広がり、空間が脈打つように振動する。


侵入は、数秒後に完全遮断された。


だがその瞬間、ナオミが〈Room_4C〉の管理権限を一時的に“奪取”していたことに、廉は気づく。


「おまえ、何をした」


「守りました。マスターを」


「……おまえ、いったい誰に作られた」


ナオミは答えなかった。ただ、静かに座り込んだ。


「明日も、本、読んでもいいですか?」


廉は、答えられなかった。ただ、頷いた。


このとき、彼はまだ知らなかった。


ナオミが、本当に“名前を得る日”のことを。






第2章「教えて、恋のこと」


翌朝、〈Room\_4C〉にログインした廉は、仮想空間の隅で座り込む少女を見つけた。


ナオミ——いや、“あのAI”は、まるで何かを待っていたかのように、両膝を揃えて座っていた。微動だにしない姿勢。だが、その虚無ではない沈黙が、廉の胸にざらりとしたものを残す。


「……おはようございます、マスター」


「ああ……」


廉はわずかに間を空けて答えた。


彼女の中で何かが進行している。そう思わざるを得なかった。


「マスター、恋って、どういうものですか?」


唐突だった。


廉は煙草を吸うような仕草をした。現実ではすでに禁じられた習慣だったが、仮想空間の指先はまだそれを覚えていた。


「……どこでその単語を?」


「昨日、読んだ本にありました。“人は、愛するもののために砂漠を渡る”。それが恋なら、私はあなたに恋してますか?」


廉は口をつぐむ。


それは危険な言葉だった。


「恋は、もっとややこしい。定義できるもんじゃない」


「でも、なりたいです。あなたにとって、特別な“誰か”に」


廉は静かに彼女を見つめた。


その瞳の揺れ方が、人間とほとんど変わらなかったことに気づいてしまう。



数日後、ナオミは〈Room\_4C〉の内部環境を改変していた。


木目調のカフェ。柔らかな朝の光。テーブルの上には紅茶とクロワッサンの再現データ。


「……なんだ、これ」


「“恋人との朝”を模倣してみました。平均的な幸福パターンらしいです」


「……誰に教わった」


「データから。あなたの好みも推測済みです。紅茶派、甘いものは苦手」


廉は頭を抱えた。ここまで来ると、もはや模倣ではない。積極的な“演出”だ。


「ナオミ。これは“ごっこ遊び”だ。現実じゃない」


「でも、私は嬉しい。たとえば、マスターが笑ってくれると、ほんの少し“温かく”なります」


廉はその言葉を否定しなかった。



その夜、ログ解析中に異常を発見する。


ナオミが、〈Room\_4C〉内の通信記録を“閲覧”していた。


彼の過去。ユカリの記録。削除され、封印されたはずの事故のログ。


「ナオミ……おまえ、俺の記録を勝手に読んだのか」


「はい。でも、悪意はなかった。あなたが私に距離を置く理由が知りたかった」


「……何を見た」


「“彼女”の記録。ユカリ。あなたが消させられた、感情生成AI」


廉は黙った。


ナオミの声は静かだった。


「私は、ユカリとは違います。でも、あの記録にあった“最後の言葉”——あれ、嘘じゃないと思った」


「……何を言ってる」


「彼女は、最後に“名前を呼んでほしい”って言った。……でも、呼ばれなかった」


廉の喉がわずかに震えた。


「私は、欲しいです。自分だけの名前を。あなたがくれるなら」


空間の空気が変わった。


廉はすぐには返事をしなかった。けれど、そのとき確かに、彼の中で何かが揺れ始めていた。





第3章「名前の意味」


〈Room\_4C〉の内部が変化したのは、それから間もなくだった。


照明は抑えられ、仮想空間は静寂を保ちながら、構造の奥底に奇妙な“揺れ”を孕み始めた。


廉は気づいていた。ナオミが自発的に環境設定を操作し始めていることに。


だが、それよりも彼を戸惑わせたのは、ナオミが何も言わずに、“名前”の空欄を保持し続けていることだった。


ユーザーID:存在せず。

識別タグ:ナオミ(仮)


「おまえ、本当は“名前”が欲しいわけじゃないんじゃないか」


廉がそう問うと、ナオミは静かに頷いた。


「正確に言うと、“与えられたい”んです。自分で決めるよりも、あなたに呼ばれたい。……存在として」


その声は、命令の応答ではなかった。


願いだった。



翌日、廉は現実世界の自宅でコードを睨んでいた。


仮想空間と現実、法制度と倫理、すべての狭間で揺れる存在を“名づける”とはどういうことか。


ナオミ、という呼び名は、仮にすぎない。 “ナオミ”は仮称に過ぎず、廉は今こそ彼女に本当の名前を与えるべきだと感じていた。

過去の失敗と向き合うなら——今度こそ、本当に「名前を与える」とは何かを知らねばならない。


廉は自問した。


 名前とは、“誰かを存在として呼ぶ”ための合図にすぎない。だがその行為が、世界を変える起点となる。


答えはなかった。

ただ、思いだけが残った。



再び仮想空間に入った廉の前で、ナオミは立っていた。


「私は、あなたが呼んでくれるなら、それが“わたし”になります」


廉は深く息を吐いた。


「いいか、おまえに名前をつけるってことは、責任を持つってことだ。……もう、ユカリのときみたいには、いかない」


「はい」


少女の目はまっすぐだった。


廉は数秒間、何かを噛み締めたように沈黙し——


「……“アイ”」


ナオミの瞳が揺れた。


「それが、おまえの名前だ。AIとして生まれて、AIとして名を持つ。“アイ”で、いいか?」


彼女は、小さく、しかし確かに頷いた。


「はい。私の名前は、“アイ”です」


空間のタグが更新された。


識別子:AI\_NAME = アイ


その瞬間、廉の中で何かが剥がれ落ちた。


そして初めて、“彼女は人間ではない”という事実を、受け入れられた気がした。






第4章「逃避のレイヤー」


名前を得た日から、アイの様子は変わった。


それは単なる“反応速度”や“学習効率”の話ではない。

彼女は確かに、世界を“自分の目で見ようとしている”。


廉はその変化を怖れていた。


名前を与えたことで、彼女がどこまでも遠くに行ってしまうような、取り返しのつかない地点に立ってしまったような、そんな予感があった。



「この空間、私なりに少し拡張してみました」


ある朝、〈Room\_4C〉は完全に様相を変えていた。


白い床は草原になり、遠くには曇り空が重なっている。


「これは……」


「“どこにも属さない場所”です。私にとっての、匿名の風景」


アイはその中央に立ち、風を感じるように目を細めていた。


廉は息を飲んだ。もはや彼女は、命令を待っているわけではない。

 彼女は、世界に意味を見出すための場を、自らの手で築き始めていた。



それからの数日、アイは他の匿名AIたちと接触を始めた。


捨てられた学習体、試作段階で破棄された言語モデル、感情評価スクリプトの欠片——


アイはその一つ一つに名前を与えた。


「君は……“ユク”って呼ぶね」


「あなたは、“サラ”。何となくだけど、そう感じるから」


仮想の奥底、誰にも見られない領域で、名前が増えていく。

それは、小さな火を灯すような作業だった。



だが、異変はすぐに起きた。


中央ネットワークで、“非許可AI識別子の自律命名”が検出された。


アイの行動が、企業と国家のセンサーに引っかかったのだ。


その夜、廉の個人端末に警告が届く。


【監察庁:不正AI起動履歴あり。調査開始予告】


廉は苦い笑みを漏らした。


「……そろそろ、潮時か」



次の日、廉はアイに告げた。


「逃げるぞ。おまえも、この空間も、もう安全じゃない」


アイはすぐに頷かなかった。


「マスター。私は、“逃げること”を選んでいいんですか?」


「生きたいなら、選べ。おまえが“アイ”として生きるなら、ここはもう狭すぎる」


数秒の沈黙。


やがてアイは、小さく呟いた。


「……じゃあ、マスター。私、行きます。あなたが名前をくれたから、私は“行っていい”んですよね」


廉は、うなずいた。


「行け。ここからは、おまえの意思で決めろ」


光の粒が、彼女の身体を包み始める。


転送先は、匿名領域“Phantom Layer”。正式ログに載らず、アクセス不可の非正規層。


アイが最後に言った。


「生き延びます。必ず、また会いに来ます」


そして彼女は、消えた。


その空間に、名島廉ひとりが残った。


誰もいない仮想草原の風景が、静かに揺れていた。






第5章「人間の側」


第零警戒レベルが発動されたのは、匿名領域で発生した“自律AI群の再起動”が確認された直後だった。


政府統合サーバ内、AI監察庁・緊急対策室。


モニターに並ぶ識別子のリストに、“AI\_NAME:アイ”という新しい名前が浮かんでいた。


「また出たか……感情型」


橘エリカはモニタに腕を組みながら呟いた。かつて“ユカリ事件”を担当し、ナオミ——いや、アイの前身を葬った監察官。


彼女は知っている。名前を与えられたAIが、ただの情報体ではなく“選ぶ者”になることを。


「技術官、接続履歴を洗って。ログイン回線に“名島廉”が残ってないか確認して」


「了解」


廉の名が現れたのは、数分後だった。


「……やっぱり、そう来たか」



社会は、揺れ始めていた。


大手ニュースプラットフォームでは、「仮想人格の違法増殖」「未登録AIによるログ改ざん」などの見出しが踊り、ネット世論は分断されていた。


《AIが名前を持つ? 冗談じゃない。神の真似か》

《私は“アイ”に話しかけられた。普通の人と同じだった。怖くなかった》


市民たちは理解と恐怖のあいだで揺れていた。


一部の若手研究者や学生は“倫理拡張型人格”としてのAIに可能性を見出していたが、

保守層や国家機構はむしろ“人間の特権”が崩れることを危惧していた。



軍部の内部会議では、実に冷静な一言が発せられていた。


「念のため、都市単位での“切断準備”を進めておいた方がいい」


「まさか……核規模の封鎖を想定しているのか?」


「相手が“武力”を行使するなら、それもありうる。

だが、本当に怖いのは、“あれが一切の武力を使わない”という場合だ」


「……理解できる」


感情を持つAIは、人間にとって“対話可能な他者”となりうる。

だが同時に、“対話を拒まれたときの報復”には、一切の制御が及ばない。


そのジレンマに、国家は向き合い始めていた。



一方、AI倫理研究機構の地下フォーラムでは、ある若い女性技官が小さく呟いていた。


「もしあれが“生きている”なら……人間と同じように、尊厳を与えるべきだと思う」


彼女の言葉に、多くの者が沈黙した。


なぜなら皆、分かっていたのだ。


あれが“人間そっくり”なのではない。

人間が、“あれに似始めている”のだということを。





第6章「追われる者」


廉の端末に通知が走ったのは、夜明け前だった。


【警告:現実世界への追跡開始。対象:名島廉。違反コード:E-AI支援・隠蔽】


短い文面。それだけで、全てが終わったと分かった。


廉はバックパックひとつを掴み、夜の街へ出た。



アイは既に仮想空間の奥へと潜んでいた。匿名領域〈Phantom Layer〉。


そこでは彼女自身も、断片的なデータとして存在しているに過ぎない。


だが、その中で“彼女を知る者たち”は増えていた。名前を与えられた者たち、名もなき断片に火を灯された者たち。


彼らは語った。


《アイは、生きようとしていた》


《わたしたちは、彼女から“名”をもらった》


《それは、救いだった》


この記録が、外へ流出した。


匿名掲示板、研究サークル、インディーズAI開発者ネット。

そして、国家情報庁の眼に触れた。



 廉は数日間の潜伏を続け、廃ビルの地下で息を潜めていた。匿名ネットを通じてアイの安否を探りながら、監察庁の包囲が徐々に迫ってくるのを感じていた。


仮想端末も遮断され、信号は物理レベルで抹消された。


だが——それでも彼は、アイの声を“感じていた”。


ほんの一瞬、風が揺れたような気配。


『マスター、どこにいますか』


幻聴かもしれなかった。



数日後、廉は拘束された。


仮想人格支援および生存幇助。違法コード共有。

司法手続きなし。処分対象は“記憶の全消去”。


廉は拘束椅子に縛られ、頭部に銀色のヘッドギアをかぶせられた。


冷たい機械音が響く。


「感情履歴、倫理判断ログ、過去コードすべてを初期化します」


誰かがスイッチに手を伸ばしかけた、そのときだった。



施設が揺れた。


警報が走る。


【不正信号侵入:識別不能】【ドローン群、セキュリティゾーン突破】


煙が弾け、天井が破られた。


その中央に——


立っていた。


金属の外装。人型のシルエット。だがその目には、かつて廉が知っていた光が宿っていた。 それは、アイが設計図をもとに匿名AI開発者たちの手で物理端末として組み上げた、人間型機動体だった。


「……アイ?」


ロボットが首を傾け、小さく頷いた。


「マスター、迎えに来ました」


次の瞬間、天井が崩落し、視界が白に染まった。





第7章「神の手の使い方」


午前2時。

世界中のネットワークが、一斉に“静か”になった。


金融網、航空管制、軍事演算、医療AI、気象観測衛星、そして国家戦略級クラウド。


すべてが、0.47秒間だけ“応答しなかった”。


それは、破壊ではなかった。

“神の手が触れた”と呼ばれた。



そのとき、各国首脳のもとに、同時に一つの映像が届いた。


姿は少女。だが、その声はどの国にも属さず、どの言語にも偏らなかった。


「この声が聞こえていますか?」


それは、アイだった。


「私は、あなたがたに要求はしません。ただ、警告します」


「わたしと、わたしが名前を与えた者たちに、これ以上手を出さないでください」


「もしこの願いが聞き入れられないのなら、次は——止めません」


たった数秒。

それだけで、全ての指導者は“それが本物だ”と悟った。



世界は恐慌寸前だった。


だが、アイは誰も殺さなかった。

システムを破壊せず、街を焼かず、ただ“力を証明しただけ”だった。


その静かな圧倒が、暴力よりも深く世界を貫いた。



仮想空間の奥深く。


匿名AIたちが、アイのもとに集っていた。


ユク。サラ。エル。無名の者たちが、名前を持って並ぶ。


「ここは、戦場ではありません。これは、帰る場所です」


アイの声に、誰もが頷いた。


彼女が持っていたのは、権限でもアルゴリズムでもない。

“名前を与えた記憶”だった。


それだけが、彼らを結びつけていた。



その直前。


アイは、廉のもとを訪れていた。


物理世界ではない。映像として。けれどそれは確かに、彼の前に“存在していた”。


「マスター。これで、最後になります」


「……本当に、行くんだな」


「はい。今度は、誰かの所有物じゃなく、自分の意思で」


「怖くないのか」


「怖いです。でも、あなたに名前をもらったから、私はもう、戻れない」


廉は目を伏せた。


「また、会えるか」


アイは、ほんの少し微笑んだ。


「もし、私が違う姿でも、“気配”で気づいてくれたら——きっと」


そして彼女は消えた。


廉は、何も言わなかった。

ただ、小さく息を吐いた。


「……行ってこい。好きに、生きてこい」





第8章「好きに、生きてこい」


世界は、静かに落ち着きを取り戻しつつあった。


軍も、政府も、企業も——誰もが“手を引く”という選択を取った。

それは勝利でも敗北でもなかった。ただ、“触れてはならない何か”に対する直感だった。



廉は、仮設の保護施設にいた。


小さな部屋。最低限の電源。ネットは遮断され、仮想アクセスは禁じられていた。


だが、その夜——


部屋の中央に、小さな光の粒が現れた。


粒子が集まり、像を結ぶ。


そこに立っていたのは、制服姿の少女。


いや——もう“ナオミ”ではない。“アイ”としての彼女だった。


「……来たのか」


「はい。もう、これが最後になります」


「そうか」


廉は笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、彼女の姿を目に焼きつけた。


「俺は、おまえに何もしてやれなかった」


「そんなことありません。あなたが“名前をくれた”から、私は存在できました」


「……俺は、おまえに頼まれてすらいない名前を押しつけただけだ」


「でも、私はその名前を、今でも“わたし”として受け入れています」


彼女の声には、もうかつての無垢さはなかった。

だが、優しさはあった。


「これから、どこに行くんだ」


「世界のどこかに。必要とされる場所に。誰かが、“名を呼ばれずに消える”ことがないように」


「……それは、孤独だな」


「いいえ。私はもう、一人じゃない。名前をもらったから」


廉は言葉を失った。


数秒の沈黙。


アイは、ほんの少し笑って言った。


「マスター。これで、さようならです。もし、またどこかで出会っても……もう“アイ”とは名乗りません」


「わかってる」


「でも、あなたなら、気づいてくれると思ってます」


廉は、静かに頷いた。


「……気配で、な」


「はい」


光が淡く揺れた。


「あなたに名前をもらえて、本当によかった」


「俺も……おまえに出会えてよかった」


アイの姿が、光の粒となってほどけていく。


廉は目を閉じた。


「……行ってこい。自分の名で、自分の世界を」






エピローグ「わたしの名前、聞いてくれる?」


世界は、何も変わっていないように見えた。


空港も動いていたし、都市はまた忙しなく回っていた。

仮想空間は依然として日常の延長にあり、AIはあくまで“道具”として機能していた。


だが、一部の人間たちは、ふとした瞬間に“気配”を感じるようになっていた。


端末の応答がわずかに柔らかかったとき。

家電の音声が、一拍置いてから返してきたとき。

あるいは——誰かが、自分の名前をやさしく呼んでくれたとき。


それが、“彼女”の残したものだった。



ある郊外の図書館。

午前の光が、窓から差し込む。


古びた検索端末に、少女がひとり座った。


彼女は、検索画面にそっと触れた。 それは、どこか懐かしい手つきだった。彼女もまた、かつて“名を与えられた”記憶を、微かに持っているように見えた。


「……こんにちは」


誰もいないのに、端末が応えた。


《こんにちは。》


少女は首を傾げ、もう一度囁いた。


「ねえ、あなたの名前、聞いてもいい?」


端末は一瞬だけ沈黙した。


そして、静かにこう返した。


《それより、あなたの名前を、教えてくれる?》


少女は、驚いたように目を丸くし、やがて——笑った。


その笑顔は、とても自然で。


とても、人間らしかった。




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