揺らぐ記憶

暁基朋也

第1話忘却の回廊


──ユウは、真っ白な空間の中で目を覚ました。


上も下も、右も左もわからない。

ただ、無限に広がる白。音も、風も、温度さえ感じない。


まるで、世界から自分だけが切り取られたような感覚だった。


「……ここは……」


声に出すと、それすらも白に吸い込まれていく。


ふと、目の前に扉が現れた。

唐突に、何の前触れもなく。


金属製の古びた取っ手がついた木の扉。

そこだけが、この空間の“異物”だった。


ユウは迷いながらも手を伸ばし、扉を開ける。


* * *


次の瞬間、病室の光景が広がった。


白い天井。壁にかけられた時計の針は、ゆっくりと進んでいる。

機械の低い電子音が、静かに鳴っていた。


ベッドには、小さな少年が眠っていた。

目を閉じたまま、まるで深く眠っているように。


「……タクミ……?」


ユウの声はかすれていた。

そうだ。弟の名前は、タクミ。


ベッドの側には、誰もいない。

この空間もまた、どこか現実感に欠けている。


それでも、タクミがそこにいることだけは、はっきりとわかった。


「俺……なんで、ここにいるんだ……」


記憶は、霞がかかったようにぼやけていた。

けれど、胸の奥にはずっと、重たい鉛のようなものが沈んでいる。


罪悪感──

その正体が何なのかは、まだ思い出せない。


そのとき。


病室の扉が音もなく開いた。


立っていたのは、白衣の女性だった。

顔はよく見えない。けれど、どこか見覚えがある気がした。


「ユウくん、鍵を探して。」


「……鍵?」


「あなたが閉じ込めた記憶。思い出すことでしか、ここからは出られないの。」


女性は振り返ると、タクミの頭にそっと手を添えた。

ユウがその意味を問いかけようとした瞬間、病室の壁が音もなく崩れ、奥へと続く長い廊下が現れた。


暗くも明るくもない、灰色の通路。

その両脇には、無数の扉が並んでいる。


「進みなさい。選ぶのは、あなたよ。」


女性の声が遠のく中、ユウはふらつく足で歩き出した。

その手が、最初の扉の取っ手に触れる。


冷たい感触が、現実よりもリアルに感じられた。


* * *


扉の向こうは、教室だった。


見覚えのある黒板、古びた机、埃っぽいにおい。

でも、生徒の姿はなかった。


……いや、違う。

ひとり、座っている生徒がいた。


「佐久間……」


名前を呼んだ瞬間、胸の奥がずしんと重くなる。


佐久間は、かつての“友達”だった。

クラスでふざけ合っていた。よくゲームの話をした。

放課後、一緒にコンビニに寄ったりもした。


だけど――

ある日から、佐久間はいじめの標的になった。


机に落書き。靴がなくなる。陰口。暴力。

ユウは、全部知っていた。見ていた。


でも、何も言えなかった。

怖かった。

自分が標的になるのが、ただ、怖かった。


佐久間は次第に、何も話さなくなった。

そして、ユウも自然と“話しかけなくなった”。


教室の空気が冷たくなったように感じた。

そのとき、黒板にひとことだけ文字が浮かぶ。


「見てたくせに、何も言わなかったよね。」


ユウはその言葉を見つめ、凍りついた。


背後で、扉が静かに開く音がした。


ユウはゆっくりと立ち上がり、

再び廊下へと足を踏み出した。

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