【ざまぁ】三年連れ添った彼女に裏切られ、すべてを捨てて離島へ逃げた僕。しばらくしてバカンスで現れた元カノが見たのは、日に焼けて、島の土と汗にまみれて力強く笑う、彼女の知らない男だった……。
ネムノキ
第1話
ファインダー越しに見る世界は、いつも、現実よりも少しだけ美しかった。
それは、ありのままを切り取る行為でありながら、同時に余計なものを削ぎ落とす、ある種の選別だった。ピントを合わせると、雑多な背景がそっと溶けていく。主役だけが鮮やかに浮かび上がる。
今、長谷田雄志のレンズが捉えているのは、目の前で嬉しそうに微笑む恋人、七瀬みのりだった。
「もう、また撮ってる」
そう言いながらも、みのりの表情は満更でもない。彼女は自分がどうすれば一番魅力的に見えるかを、本能で知っているかのようだ。少し傾げた首の角度。テーブルの上で組まれた指先の優雅さ。潤んだ唇のかすかな開き具合。そのすべてが、雄志の心を強く捉えて離さない。
「だって、今日の君は特別きれいだから」
雄志はカメラを下ろし、心からの言葉を口にした。それは決して社交辞令ではない。彼の眼には、みのりが光り輝いて見えていた。まばゆいほどに。
今日は、二人が付き合い始めて三年目の記念日だ。雄志がアルバイト代を数ヶ月貯めて予約した、都心から少し離れた隠れ家的なイタリアンレストラン。高価すぎず、けれど心のこもったサービスが評判の店だ。
窓の外には手入れの行き届いた小さな庭が見え、テーブルに置かれたキャンドルの炎が、みのりの瞳の中で優しく揺らめいていた。温かい光が、二人の間に特別な時間を作り出す。
「雄志って、本当にそういうこと、素直に言うよね」
みのりは楽しそうに笑う。その笑い声は、いつも周囲の喧騒より少しだけ大きく、華やかに響く。まるで、見えない観客に自分の幸福をアピールしているかのようだ。
「事実だから。それに、記念日だし」
雄志は少し照れながら、テーブルの下に置いていた紙袋をそっと取り出した。
「これ、プレゼント」
「え、なあに?」
みのりが子供のようにはしゃいだ声で紙袋を受け取る。中から出てきたのは、シンプルなリネン生地で装丁された、手作りの温かみがあるフォトアルバムだった。
「わあ……すごい」
みのりがゆっくりとページをめくる。最初のページには、初めてのデートで訪れた水族館でのツーショット。緊張で顔がこわばっている雄志と、大きな水槽の前ではしゃぐみのり。
次のページには、二人で行った海辺での写真。夕日を浴びて黄金色に輝く彼女の横顔。雄志が一番気に入っている一枚だ。
春の桜、夏のひまわり畑、秋の紅葉、冬のイルミネーション。三年間、雄志のカメラが切り取ってきた幸せな瞬間が、そこには詰まっていた。
「全部、雄志が撮ってくれた写真……」
「うん。プリントして、一冊にまとめてみたんだ。俺たちの、三年間」
雄志は自分の世界のすべてが、このアルバムと、目の前にいる彼女の中に集約されていると感じていた。アマチュアだが、写真には自信がある。それは技術的なことではない。被写体の最も美しい瞬間を見つけ出す「眼」を持っているという自負だ。
そして彼の眼は、いつだって七瀬みのりという最高の被写体だけを追い求めてきた。
彼は無意識に、両手で四角いフレームを作る癖があった。カメラがなくても、美しいと感じた風景を、そうやって切り取ってみるのだ。
今も、その見えないフレームの中に、アルバムを見て微笑むみのりの姿をそっと収めていた。彼女こそが、彼の人生で最も美しい風景だった。
「ありがとう、雄志。すっごく嬉しい」
みのりは顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。その笑顔に、雄志の胸は温かいもので満たされる。この幸せが永遠に続くと、彼は信じて疑わなかった。未来永劫、この輝きが色褪せることはないだろう、と。
……
……
……
デザートのティラミスが運ばれてきた頃、みのりはふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。来週、ちょっと会社の出張が入っちゃったんだ」
「へえ、どこに?」
「関西のほう。新しいプロジェクトの視察らしくて。二泊三日かな」
「そっか。大変だな」
雄志は素直に彼女を労った。みのりは都心のアパレル企業で働いている。仕事が忙しいのはいつものことだ。
「うん。でも、頑張ってくるよ。雄志もバイト、無理しないでね」
彼女はそう言って優しく微笑んだ。その時だった。テーブルの上に伏せて置かれていた彼女のスマートフォンが、ぶぅ、と短く震えた。画面にメッセージのプレビューが浮かび上がる。
みのりは、雄志の視線がそちらに向かうよりも速く、さっとスマホを手に取り、画面を伏せて自分の膝の上へと隠した。あまりにも自然で、流れるような動作。まるで、それが日常であるかのように。
「……誰から?」
何気なく尋ねた雄志に、みのりは少しも表情を変えずに答える。
「ん? ああ、仕事の同僚。明日の会議の件だって。もう、こんな時間まで仕事の話、やめてほしいなあ」
彼女は悪戯っぽく舌を出し、ころころと笑った。その完璧な笑顔と、少しだけ大きすぎる快活な笑い声に、雄志の中のほんのわずかな違和感は、あっという間に掻き消された。
彼の純粋な信頼は、目の前の現実を塗りつぶすほどに絶対的なものだった。彼女を疑うなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない、そう思い込もうとした。
「そっか。人気者は大変だ」
雄志も笑い返し、残りのティラミスを口に運んだ。甘くてほろ苦いクリームの味が、舌の上に広がった。けれど、その甘さの中には、微かな苦みが混じっていたような気がした。
数日後。その日は、梅雨入り前のじっとりとした空気が街を覆っていた。
雄志は大学の講義を終え、駅前の書店でのアルバイトを終えて、帰路についていた。いつも通る、少しお洒落なカフェやブティックが並ぶ通り。イヤホンからはお気に入りのバンドの曲が流れている。
週末はみのりとどこへ行こうか。そんなことを考えながら、ぼんやりと歩いていた。
ふと、視界の端に、見慣れたシルエットが映った。
「……みのり?」
思わず声が漏れ、足を止める。彼女は出張中のはずだ。関西にいるはずの人間が、なぜこんなところにいるのか。
みのりは、路肩に停まった黒い高級外車の助手席のドアを開け、まさに降り立つところだった。車種には詳しくない雄志でも、それが自分の生活圏には存在しない、異次元の乗り物であることは一目でわかった。
滑るように開くドア。重厚な光を放つ漆黒の塗装。まるで、自分とは全く違う世界から現れたようだ。
彼女の服装も、いつも雄志と会う時とは少し違っていた。より大人びていて、明らかに高価そうな、体のラインを強調するタイトなワンピース。見慣れない高揚感が、その顔に滲んでいる。それは、雄志が見たことのない彼女の顔だった。
雄志の心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。全身から血の気が引いていく。何かの間違いだ。人違いかもしれない。淡い希望が胸に灯る。そうであってくれ、と強く願った。
しかし、運転席から降りてきた男の姿を見て、その淡い希望は粉々に打ち砕かれた。
三十代後半から四十代前半だろうか。仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、日に焼けた肌に自信に満ちた笑みを浮かべている。手首には、これ見よがしではないが、明らかに高価な、控えめなデザインの腕時計が光っていた。
男は助手席側に回り込むと、ごく自然な仕草で、みのりの腰に手を回した。それはまるで、自分の所有物であることを示すような、独占欲に満ちた手つきだった。
雄志は、通りの向かい側の建物の影に隠れるようにして、息を殺した。心臓の音がうるさくて、イヤホンから流れる音楽など、もう何も聞こえない。世界が、男とみのりの二人だけになったようだった。
次の瞬間、雄志の世界は音を立てて砕け散った。
男はみのりの顎に指を添え、顔を近づける。みのりは少しも抵抗せず、うっとりとした表情で目を閉じた。二人の唇が、深く、貪るように重なる。それは雄志が彼女と交わす、触れるだけの優しいキスとは全く違う、生々しく、官能的な口づけだった。
長い、長いキス。別れを惜しむかのように。離れた後も、二人の間には濃密な空気が漂っている。
男が何かを囁くと、みのりは艶のある声で笑い、彼の腕に自分の腕を絡めた。その仕草は、あまりにも自然で、馴れ親しんだ恋人同士のそれだった。
そして二人は、雄志には到底手の届かない、コンシェルジュが常駐していそうな高級タワーマンションのエントランスへと、仲睦まじく消えていった。
……
……
……
どれくらいの時間、そこに立ち尽くしていたのだろう。時間は意味を失っていた。
周囲の雑踏も、車のクラクションも、何もかもが遠い世界の出来事のようだった。ただ、目の前の光景だけが、悪夢のように網膜に焼き付いている。
雄志は震える手で、ポケットからスマートフォンを取り出した。指先が冷たく、感覚がない。何度もタップをミスしながら、ようやくメッセージアプリを開き、みのりとのトーク画面を表示させる。
最後のやりとりは、昨夜の「おやすみ」だ。
彼は、たった一言だけ打ち込んだ。
『今どこ?』
送信ボタンを押す指が、鉛のように重い。全身の力が、その指先に集まっているかのようだった。
数秒が、数時間にも感じられた。やがて、画面に「既読」の文字が灯る。そして、ほとんど間を置かずに、返信が来た。
『まだ会社だよ、すごく忙しい! 早く雄志に会いたいな!xo』
完璧な嘘。一瞬の逡巡もなく紡がれた、あまりにも完璧な、冷酷な嘘だった。
愛情を示す顔文字『xo』が、まるで鋭利なナイフのように雄志の心を突き刺し、抉った。
会いたいな。
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。あの男の腕の中で、うっとりと目を閉じていた彼女の顔が、フラッシュバックする。その笑顔が、雄志の心の奥底を深く深く傷つけた。
ああ、そうか。
全部、嘘だったのか。
三年間、俺が見てきたものは、全部。
世界が、ぐにゃりと歪む。足元のアスファルトが、まるで沼のように感じられた。全身の細胞が、音を立てて崩壊していくようだ。
どうやってアパートまで帰ったのか、全く覚えていない。気づけば、彼は自分の部屋の冷たい床に座り込んでいた。息をするのも苦しい。
視線の先、机の上には、記念日に渡したフォトアルバムが置かれている。彼女が「持って帰ると汚しちゃうから、雄志の部屋に飾っておいて」と言って、置いていったものだ。
雄志は、まるで何かに憑かれたように立ち上がり、アルバムを手に取った。
一ページ、一ページ、ゆっくりとめくっていく。そこに写っているのは、まぎれもない幸せな二人だった。
幸せそうに笑う自分。幸せそうに笑うみのり。
この笑顔も、嘘だったのか。この眼差しも、この仕草も、全部。
写真の中の彼女が、彼を嘲笑っているように見えた。その瞳は、冷酷なまでに雄志を見下している。
怒りなのか、悲しみなのか、絶望なのか。もはや判別のつかない感情の濁流が、雄志の全身を駆け巡る。心の臓が焼け焦げ、内臓がねじれるような激痛が走った。
「う……ああああああああああッ!!」
獣のような叫び声が、喉の奥から迸った。理性など、もうどこにも残っていなかった。
彼は右手で、ベッドの脇に置いてあった愛用のカメラをひっつかむと、渾身の力で壁に叩きつけた。
ガシャンッ! という耳障りな破壊音。
レンズが砕け散り、ボディが歪む。三年間、彼の「眼」として幸せを切り取ってきたカメラが、無惨な残骸と化した。これまで彼が見てきたものが、すべて偽りだったと告げるかのように。
だが、それでも衝動は収まらない。心の奥底から湧き上がる虚無が、彼を突き動かした。
彼はよろめきながら机に向かい、ノートパソコンを開いた。震える指で、検索窓に意味不明な言葉を打ち込む。
『どこか 遠く』
『誰もいない 場所』
『日本で一番遠い島』
検索結果のトップに表示されたのは、「八重島」という名前だった。東京から南へ約三百キロ。船でしか行けない、火山島。
吸い寄せられるように、彼はフェリー会社のサイトにアクセスした。
空席照会。
明日、夜発。片道。
名前、年齢、クレジットカード情報。機械的に入力していく。感情は一切なかった。ただ、体が勝手に動いているかのようだった。
最後に、予約確定ボタンをクリックした。
静まり返った暗い部屋の中、パソコンの画面だけが煌々と光っている。
『ご予約ありがとうございます』
その無機質な光が、涙も枯れ果て、すべての感情が抜け落ちたような雄志の虚ろな顔を、青白く照らし出していた。
彼の「眼」は、もう何も映していなかった。そこには、ただ深い、深い闇だけがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます