第9話 Day.9 ぷかぷか

 白洞寺自慢の石庭。

 その一角に生える松の木に、赤くて丸いものがひっかかっていた。

 赤い風船だ。

 ぷかぷかと浮かんだそれは、気持ち良さそうに揺れている。

 それはいい。

 それはいいんだけど。

 なんで石庭が、グチャグチャになっているんだよ?! 

 石庭の掃除は、半年前から俺の仕事になっていた。

 最初は、めちゃくちゃ時間がかかったし、線もガタガタだった。が、最近はだいぶ慣れて、綺麗に砂紋を書けるようになったし、時間もかからなくなっていた。

 なのに。

 朝三十分かけて整えた、その石庭が崩れている!

 崩れた原因は、松の木の下にいた。

 小さな男の子が、木の下をうろうろしたり、ぴょんぴょんとび跳ねたりしている。

 五、六歳、くらいか?

 どうやらあの赤い風船を追いかけて、ここまで入ってきたようだ。

 ……一人で?こんな朝に?

 朝八時に、子供が一人で白洞寺にいるのは、問題ではないだろうか?親はどうした。どこにいる?

 俺はため息をつくと、子供に近づいた。

 子供は、俺の気配に気がついたのか、怯えた顔で振り返った。目に涙が浮かんでいる。

 うん、怒っちゃダメだ。

 怖がらせるのもダメだ。

 優しく、笑顔で。

「キミ、どこか」

「あれをとってください!!」

 どこから来たの?と聞くより早く、子供が叫んだ。指差す先には、赤い風船。

 うん。そんなに大事か、あの風船。

 ぷかぷかと気持ち良さそうに、風に揺れる風船。

 それを見て、遠い昔に自分も親に買って貰ったなと思い出した。

 同時に嬉しかった気持ちも。

「ちょっと待ってな」

 幸い風船は、さほど高くない位置に絡まっていた。

 子供には難しいが、俺には問題ない。

 むしろ松の木の耐久性が不安だったが、俺が登っても、大丈夫そうだった。

 風船をとって、木から降りると子供に渡す。

 くりっとした大きな目が見開き、更に大きくなった。丸顔の男の子は、目からポロポロ涙を溢しながら、頭を下げる。

「ありがとうございました!」

「あ、うん。キミ、親御さんは?どこから入ったの?」

「大丈夫です!もう帰ります。お邪魔しました!」

 ぺこりと頭を下げると、振り返りもせずに駆け出した。

 寺の裏手へと、赤い風船が消えていく。

「え?!ちょっと!」

 寺の裏側は、日本庭園になっている。 

 池と築山があって、その奥には見事な藤棚がしつらえてある。

 更にその奥は、裏の山に続いているのだが、あの子はそこから来たのか?そんな莫迦な。

 慌てて追いかけるが、子供の姿も、ぷかぷかと浮かぶ赤い風船も、どこにも見えなかった。

「えぇ……?どうしよう」

 これはひとまず、はくどーさんに報告するかと、庫裏へ行く。

 朝食の仕度を終えたはくどーさんは、丁度おかずを運んでいるところだった。

 俺は今見たことを説明すると、はくどーさんは「ああ」と頷いた。

「穴井はんちの、末のお孫はんやろう。もうそないに大きなったんどすなぁ」

「え?穴井、さん?」

京義たかぎ君、会うたこと、なかったかいな?裏山の奥の方に住んでるご一家」

「え?知りませんよ。奥?あそこ、獣道しかないですよね?」

 ルートがあるとすれば、山門の先にある、山をぐるりと回って、七尾さんの方に行く道だ。

 その道を更に行くと、山頂近くに神社があると聞いている。俺はまだそこまで行ったことがないから、その辺りにでも住んでいるのだろうか。

 それにしたって、山の中を、あんな小さな子が一人で歩くのは、問題があると思う。

 ちゃんと帰れただろうか?

 俺の心配をよそに、はくどーさんは、あくまで気にしていないようだった。

「その内ご挨拶しまひょかな」

 ニコニコと言うと、はくどーさんは「朝ごはんや」と行ってしまう。

 俺はぷかぷかと浮かぶ赤い風船を思い出し、まだまだこの寺の事を、何も知らないのだなと思った。

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