ラウンジのパッチさん

古木しき

ラウンジのパッチさん

 とあるホテルのラウンジの奥、窓際のソファで、パッチさんは今日もくつろいでいた。

 緑と赤とベージュ、三色の柄が混ざったパーカーを羽織っている。目の粗いニット生地で、ところどころ縫い目が歪んで見えるのは、わざとそう作られたものなのか、それとも古着なのか判別がつかない。下はくたびれたデニムで、足元はスニーカー……ではなく、グレーのハイソックスと、もう片方はトラ柄のくるぶし丈。靴は脱いでいる。


 彼女の本名は、鳩峰撫子はとみねなでしこ。国内でも名のある旧家の令嬢であり、父方の一族は何代も続く土地の名士である。生家の門には表札ではなく家紋が掲げられ、来客の際には茶室と専用の玄関が使い分けられる。そうした家柄の空気は、撫子の幼い頃から日常に染みついていた。


 だが、その家系図の格式と、本人の装いとは、どうにも釣り合わなかった。撫子は幼い頃から、カタログに載っているような服を着たがらなかった。レースより綿、ブランドより古着。着物よりエプロンを好み、母や祖母のため息の的となった。


 親族の集まりでは、いつも話題にされた。

「撫子ちゃんは、相変わらず……独特ねぇ」

「それ、どこで買ったの? えっ、拾った? うふふ、冗談よね」

 祖母は「まるで鷹峯のお祭りの衣装みたい」と評し、叔母の一人は「人目を引くのは、悪いことじゃないわよ」と慰めるふりをして遠回しにたしなめた。

 従姉妹たちは口には出さないまでも、口元を隠して笑い、目を合わせることが少なかった。


 けれど、撫子本人は気にしているふうもなかった。

 「着たいものを着てるだけじゃないの。今日のテーマは“地層の記憶”ですよ?」

 そう言って、また違う柄の布を重ねて現れる。選ぶ布にはストーリーがあり、組み合わせには意味があるらしいが、誰もその理屈を理解できなかった。いや、理解しようとすらしなかった。


 それでも撫子は、淡々と装い、歩き、ソファに座る。そして何事もなかったかのように、カップを傾ける。


 テーブルの上には紙ナプキンで包まれたカヌレと、ミントグリーンの陶器のカップ。湯気はもう立っていない。きっと冷めたまま、それでも飲むのだろう。パッチさんの飲み物が何か、私は知らない。


 私は、たまたま同じラウンジでコーヒーを飲んでいた。出張先の商談の前、少し早く着きすぎたための暇つぶしだった。携帯を見るふりをしながら、特に話すこともない。誰かと来たわけでもないし、話し相手もいない。


 このホテルのラウンジは、平日昼間は割と空いている。客層はまばらで、私のようなビジネス目的の客もいれば、午後の紅茶を楽しみに来る常連らしい老婦人たちもいる。壁際には低い観葉植物が配置され、窓の向こうには石畳の中庭が見える。


 パッチさんはこちらを見ていなかった。けれど、不意に話しかけられた。


「……あの人、今日は来ないんですかね」


 声は穏やかで、表情も変わらないまま、ただ言葉が空気のように置かれた。


「……どの人のことですか?」


「椅子の下に傘を置くのに、いつもそれを忘れて帰る人」


 私は答えなかった。いや、答えられなかった。そういう人が本当にいるのか、いないのか、私には分からない。思い出そうとしたが、誰かが傘を忘れる場面を、私は見たことがない。けれど、傘が一本だけ残っている光景は、なぜか心に引っかかっていたような気もする。


「この部屋、鏡が多いですよね。でも映ってない人もいますよ」


 私は思わず笑った。冗談のつもりだったのだろうか? だがパッチさんは笑わなかった。目を伏せたまま、ソファの脇に置いたトートバッグのポケットに指を滑らせて、ひと撫でした。


 その仕草は、何かを確かめているようにも、忘れたものを探しているようにも見えた。けれど、彼女は何も取り出さなかった。


 そしてまた、誰かの視線を辿るように、ゆっくりと窓の外を見た。


「今日は、静かですね。……そういう日は、逆に落ち着かないです」


 言葉の調子は変わらない。まるで、天気予報でも話しているかのように。だが、私の中にはひとつ、小さなざらつきが残った。ラウンジのざわめき。クロックの秒針。奥のテーブルでスプーンを置く音。すべてがきれいに揃いすぎている気がした。


 私はコーヒーを飲み干した。時計を見る。まだ商談には時間がある。


 帰るとき、ラウンジの椅子の下には、確かに傘が一本、残されていた。細身で、黒い持ち手のビニール傘だった。誰のものかは分からなかった。


 ただ、そこにあるということだけが、やけに印象的だった。


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ラウンジのパッチさん 古木しき @furukishiki

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