ペリカン。
五月雨ジョニー
ペリカン。
「ペリカンって知ってる?」
放課後の文芸部にいる時だった。
二人きり、夕暮れの部室。
埃臭く、カビ臭くとも心地良い、積み上げられた古書の匂いに混じりながら、彼女はそう言った。
脈絡などはない。
それに繋がるような話はしていない。
唐突に、彼女はそう言うのだ。
「ペリカン?それは鳥だろう。あの、ぬぼっとした顔の、酷く間抜けな面をした鳥だ」
僕は手元の活字から目線を逸らし、文庫本の表紙をゆっくりと閉じた。
慣れていた。いつもの事だ。
彼女は窓の外を見ながら、自分で質問した割には、何故かつまらなそうに声を返す。
「そう、鳥です。でも間抜けな面というのは早計だわ。あの顔には理由があり、意味があるもの」
呆れた。
彼女のこういうところは、出会いから二年経とうとも変わりはしない。
でも僕はそれが、どうにも、たまらなく。
好きだった。
「理由があり意味があるか。またそうやって、理由や意味を探しているのか、君は」
「そうですよ。理由も、意味もなければ、恋も、焦がれもしないもの。心が惹かれないわ」
彼女の言葉に、ああ、なんと淡白で皮肉なものか、と思った。
そんな事を深く考えるでもなく、僕は君に惹かれているというのに。
君というものは、これっぽっちもそれに気付きやしない。
もう、卒業までは後一年しかない。
結局僕は、自分からは何もする事が出来ない肝の小さな奴の癖に、この恋心の結果を望み、焦っているのだ。
きっと側から見れば、さぞ哀れな馬鹿に見えるに違いないとも感じていた。
「結果論というものがあるだろう。結果が良ければ全て良しとする。結果が悪ければ、その逆もまたしかり。それが世の中というものじゃないのか?」
「それは嫌いです。稚拙でも構わない、たとえ小さくて愚かでも、私は理由と意味を求めるわ」
自分の意見をぴしゃりと言い切る彼女の姿に、心底見惚れながら、僕は机に頬杖を付いた。
理由と意味。
僕が彼女に惹かれる理由は存在した。
それは、美しいからだ。
黒くて艶めいた長い髪の毛も。
凛と澄ました綺麗な顔も。
黒いタイツを履いた、すらりと長い脚も。
それを隠す、大袈裟なまでの長いスカートも。
そして、おおよそ僕ごときには理解出来ない、強烈で奇天烈な感性も。
その全てが美しく、そこに心惹かれたのだ。
だが、意味を問われれば、言葉に戸惑う。
理由はわかれども、意味には到達していない。
僕の抱くこんなものは、つまりは未熟な恋なのだ。
「私はね、ペリカンになりたいの」
彼女が、遂に鳥になりたいとまで言い出して、僕はまた呆れる。
不毛な言葉のやり取りは今までも散々してきたが、流石にこれは初めての事だった。
「いや、それは不恰好だろう。美しくない」
そう言うと、彼女は僕の方を向き、先の見えない黒い眼で僕を見つめる。
「早計だと言ったはずですよ。理由と意味があらば、不恰好であれど、それは大変美しいものだわ。それが世の中よ」
僕の放った世の中の解釈を、彼女は自分の解釈で打ち返した。
だけども、こんなのは言葉遊びだ。
正解なんてものはないんだろう。
僕はため息を吐きながら、呆れたフリをして。
この他愛もない会話の、甘美な心地良さに酔いしれていた。
「先の昼の出来事です。湖畔に居た一羽のペリカンが鳩を食べるところを見たのよ。あの大きな口で、ぺろりと一飲みしたの。とても衝撃的だったわ。でも、よく考えればおかしなものよね。ペリカンが魚を咥えても何も思わないのに、鳥が鳥を飲み込んだだけで人は驚くんですもの。共食いだなんて言って、酷く騒いでいるのを見ていたわ」
「おい、何と野蛮なものを見たんだ」
そんなものを嬉しがるな、美しくないだろう。
と言いかけたが、どうせまた同じ叱りを受けるのだ。やめておいた。
彼女はくすりとも笑わず、淡々と話を続ける。
「鳩はとても哀れでお馬鹿な鳥です。隣で仲間が食べられても、またペリカンに近づくのよ。きっとそうね、自分はペリカンに気付かれていないとでも、盛大な勘違いをしてるのかもしれないわ」
「おいおい、鳩を馬鹿だというのは、それは君のいう早計ではないのか?」
「ええ、早計です。でも、いいの。これは理由も意味もある、早計なんですもの」
それを聞いて僕は、ああ、くそ、と。
頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
もうこうなってしまっては手が付けられない。
彼女の思考は、目に見えない遥か雲の上だ。
僕のちっぽけな頭では追いつきようがない。
「ねぇ、気になりません?食べられた鳩は、ペリカンの口の中で、一体何を思うのかしら……」
うふふ。と小さく。
彼女はそこで笑ったのだ。
*
それは、次の休日の出来事だった。
理由はとても稚拙なものだ。
『今日は両親がいないのです。私は自分の胃袋を満たす事が出来ず、とてもひもじいわ』
などと。
そんなつまらない理由で、彼女は僕を家に呼び付けた。
急な事で手土産もなくで、何だか申し訳ないとも考えたが。
こちらはいきなり呼び付けられた身だとも思って、深くは考えずに僕は彼女の自宅へ向かった。
「お待ちしていました。どうぞ、遠慮なくあがってくださいね」
玄関先で僕を出迎えた彼女は、休日だというのに、制服を着ていた。
しかし、僕もまた、よそ行きの洒落た服など持ち合わせておらず、普段と変わらぬ制服姿だったので、人の事は言えまいと口を噤んだ。
チリひとつなく、壁に手をつくのも躊躇われるような清潔な家だ。
僕は鳥肌を立てながら、畏まって上がる。
リビングに案内されると、荷物を置いてキッチンに立った。
料理は出来ない事はなかったが、得意というにはいささか自信過剰だ。
「それで? 今日、君は何を食べたいというのか」
あまり難しいものは頼んでくれるなとだけ願って、僕は彼女に問いかけていた。
「冷蔵庫に食材が入っています。必要なものは揃えたわ。本当に食べたいものというのは、簡単には手に入らないものなのよ。予想外に時間がかかってしまったのだけれども。全てここにあるわ」
彼女の口ぶりで、その食材というのが、やたらと貴重なものであると察した僕は、少しばかり緊張して、たまらず息を呑んだ。
「時間がかかった? 何日も費やしたというのか」
「ええ、それはもちろん。丸二年もかかったわ」
呆れた。
なんだ、いつもの
もう、彼女の遊びに翻弄されまいと、僕は力を入れて、冷蔵庫の取手を引く。
開いた冷蔵庫の中は、綺麗なものだった。
白い空間に、ただ一つだけ箱が置かれている。
それを手に取って、訝しみ、眺めると、それは何やらチョコレートのようだった。
「私のお部屋で食べましょう。こっちよ」
そう一言だけ言って、彼女は僕から箱を取り上げ、足早に部屋へと誘った。
彼女は早足で階段を登りながら、ビリビリと乱暴に箱を破き、包み紙を辺りに散らかす。
その大胆な奔放さに、僕は彼女の知りえなかった、人の
彼女は部屋の前に立つと、箱から露わになった一粒のチョコレートを、僕の口の中に投げ込む。
微かな甘みと、渋い苦みの中で、洋酒の香ばしさが鼻を抜けていった。
「おい、なんだこれは、酒が入っているのか?」
彼女は直ぐに答えずに、自らも口に一粒放り込む。
すると、彼女は僕の目を見つめて、言った。
「多少の酔狂は、色事には欠かせませんから」
一言だった。
たったその一言で、僕は言葉の威力というものを初めてこの身に感じたのだ。
強力なストロボライトに当てられた様に、目の奥がチカチカと燃える。
胸に抱いたこの高揚は、絶対に口に溶けた洋酒のせいでないと、はっきりわかった。
ゆっくりと開いた扉の先。
彼女は大きなベッドにその身を沈めると、脱力しながら立てた膝を少しだけ開いた。
「さあ、お腹が空きました。二年も待ったのよ。ひもじくてひもじくて、私、死んでしまうわ」
僕は耳の末端までに、悪夢の様な熱を感じながら、口の苦みに辛く酔ったフリをして、彼女のスカートを捲り上げる。
大袈裟なまでに長いスカートが、僕の頭をしっとりと覆うと、部屋の明かりを徐々に閉ざしていく。
暗闇の中をさぐり、彼女のタイツに手をかけた時。
「ねえ。理由はわかるのに、意味はわからないなんて、本当に哀れなお馬鹿さんだと思わない?」
心臓が大きく飛び跳ねたのがわかった。
その声にではなく。
その意味に。
僕は冷や汗を垂らしたのだ。
──そこはもう、彼女の腹の中。
深淵に触れて。
ようやく僕は気が付いた。
彼女はペリカン。
僕は鳩だったんだ、と。
ペリカン。 五月雨ジョニー @MMZZOMBIE
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