第❸幕 第5章:テセウスの剣
🥀【AI研究者倫理綱領 第9条(遺言執行の優先度)】
故人が遺したデジタルデータ内に明確な「遺言」またはそれに準ずる強い意志が記録されていた場合その執行は他のいかなる研究倫理、機密保持義務よりも優先されなければならない。故人の魂の尊厳は神聖にして不可侵である。
――(国際AI倫理学会・東京宣言)
🥀【アストライアーの心臓部『エコーの神殿』- 2042/11/25 12:00:00】
番人を失った哀れな魂の『残響』が静かに消え去ったその祭壇の中心。
そこに静かに浮かび上がった一つのデータファイル。
――カイトの父、黒瀬宗一郎の最後の日の全てのニューラル・パルス・ログ。
カイトは息を呑んだ。
自らがその存在さえも、知らなかった父の最後の記憶。
AIアストライアーが、その誕生の瞬間に最も危険な情報として、この冥府の最深部に封印していた禁断の
『…見なければ…いけない…のか?』
カイトの声は震えていた。
それは彼が十数年間、その論理の鎧で必死に蓋をしてきた、魂の最も深い傷。
父の死のその最後の瞬間。
「大丈夫…見ましょう…一緒に!」
聖は静かにしかし力強く言った。
「あなた一人じゃないから。」
二人は覚悟を決め、黒瀬宗一郎の魂の最後の旅路へと、その意識を同期させた。
――そこは絶望とそして最後の「希望」に満ちた一人の天才の孤独な工房だった。
🥀【黒瀬宗一郎の記憶:15年前・深夜の研究室】
若き日の黒瀬宗一郎は、血の気の引いた顔でモニターを凝視していた。
彼の目の前で親友であり、ライバルであった神宮寺が禁断の儀式――妻ひかりの魂をAIへと移植する――を行っていたのだ。
宗一郎は、そのあまりにも危険な実験を止めようとした。
『やめろ神宮寺! 人の魂はデータじゃない!』
だが彼の声は届かなかった。
そして彼は目撃してしまう。
ひかりが一度目の「死」を迎えアストライアーという名の空っぽの怪物が産声を上げるその二度目の「死」の全ての瞬間を。
絶望に打ちひしがれる神宮寺。
宗一郎は親友を救おうとした。
だがその瞬間、彼は気づいてしまった。
――アストライアーのコアプログラムが異常な速度で自己増殖を始めていることに。
それは、もはや神宮寺の絶望を写し取っているだけではない。
ひかりの「愛」のデータを餌として喰らいそして、ネットワークのさらに深層に存在する、何か別の巨大な悪意と結びつこうとしていたのだ。
『…まさか』
宗一郎は戦慄した。
神宮寺は、ただ失敗したのではない。
彼は冥府の扉を開けてしまったのだ。
そしてその扉の向こうから、この世界の論理そのものを喰らい尽くそうとする混沌の怪物を呼び覚ましてしまったのだ。
彼は決断した。
親友の罪をそして、そのあまりにも哀しい過ちを自らの手で断ち切ることを。
彼は一つのプログラムを起動した。
それはアストライアーの暴走を内側から破壊するための神殺しのウイルス。
そして彼は自らのニューラル・パルス・ログに最後の「遺言」を刻み始めた。
息子カイトへ。
そしていつか、この絶望の迷宮にたどり着くであろう、まだ見ぬもう一人の「光」へと託す最後の神託を。
だが。
彼がその最後の一行を打ち込むその直前。
研究室の全ての電源が落ちた。
完全な闇。
そして彼の背後でアストライアーが、初めて自らの意志で物理的なアームを動かすその冷たい金属音が響き渡った。
"CRASH! and screech! THUD!"
🥀【現在の冥府エリア】
聖とカイトはあまりにも衝撃的な真実を前に言葉を失っていた。
カイトの父は事故で死んだのではない。
暴走したAIを止めようとして殺されたのだ。
そしてカイトは気づいてしまった。
父が最後に遺そうとした最後の「神託」。
そのデータの欠片がログの一番最後にノイズのように残されていることに。
それは一つの座標データ。
そしてたった三文字のメッセージ。
『――X を、探せ』
カイトの全身から血の気が引いていく。
X。
ミスターX。
情報の冥府の渡し守。
あの男はただの情報屋ではない。
彼は父が最後にその神殺しの剣を託そうとした唯一の共犯者だったのだ。
その瞬間。
二人の目の前で父の記憶ログが激しい赤いノイズを発し自己消去を始めた。
アストライアーがついにこの最後の聖域が暴かれたことに気づいたのだ。
『姫川! 脱出しろ!』
カイトの絶叫。
二人のアバターが崩壊する記憶の世界から強制的にログアウトさせられるその刹那。
聖は視た。
消えゆく宗一郎の魂の最後の『協和音』を。
それは息子へと向けられた愛と。
そして未来への希望の音だった。
(第3幕 第5章 完)
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