第❷幕 第12章:ヒュアキントスの追憶

🥀【家族の権利に関する基本法 第1条(親子の絆)】


 全ての子供はその親から生命、身体及び精神の安全を保障される不可侵の権利を有する。親はその子供に対し愛情と配慮をもってその健やかな成長を支える神聖な義務を負う。


 ――(旧時代法典より継承)


🥀【夏目リーガル・オフィス - 2042/11/24 18:00:00】


 冥府エリアから強制的にログアウトさせられた聖は現実世界の椅子の上で荒い息を繰り返していた。

 父の幻影。


『――お前のその力は、本当に、正しいのか?』


 その言葉が魂に突き刺さった棘のように彼女を苛む。

 視界の黒い蜘蛛の巣がじくじくと痛んだ。


「…聖ちゃん」


 夏目が聖の冷たくなった手をそっと握りしめた。


「…話す時が、来たみたいね。私が、見てきた全てのことを。あなたの、お父さんのこと。そして、あなたの、その『眼』のこと」


 聖は息を呑んだ。

 そして夏目は静かに語り始めた。

 聖がまだ知らなかった彼女自身の物語を。


 ――夏目の語り:16年前・病院の一室――


『生まれたばかりの、あなたが、小さな手を必死に伸ばしていたのを、私は、今でも覚えてる』


 夏目の声は遠い昔を懐かしむように優しかった。


『誠一郎先生は、その、あまりにも尊い命を前に、ただ、子供みたいに泣いていたわ。そして、あなたのお母さん…ひかりさんは、そんな先生を見て、本当に幸せそうに笑ってた』


『この子の名前、聖と名付けましょう。…人の心の痛みが分かる、優しい子になりますように』


 夏目はそこで一度言葉を切った。

 夏目は、そこで、一度、言葉を切った。


『…そしてね、聖ちゃん。あなたが、生まれた時、一つだけ、不思議なことが、あったのよ』


『あなたの、左手の甲にね。まるで、小さな、青い、天秤のような形の、痣が、あったの。お医者様は、ただの、珍しい母斑だと、言っていたけど。あなたのお母さんだけは、それを、見て、こう、言ったわ』


『私――この子をひじりと命名したいわ。』

『いつか、この子は、まっすぐ公平に立ち、耳で良く聞き、言葉を理解し、何かを、量る、そんな人になってもらいたいの』と。


『…それが、あなたのお母さんの、最初のそして、最後の祈りだった』


 ――夏目の語り:10年前・姫川家のリビング――


『先生はね、本当に、不器用な人だったから』


 夏目は少しだけ困ったように笑った。


『あなたが、転んで、膝を擦りむいて、「うわーん、ひざ、いたいよぉ…!」って、泣きじゃくっていた時も、どうしていいか、分からなくてね』


『でも、彼は、ふと、あなたのお母さんのことを思い出したみたいだった。そして、あなたを、ぎゅっと抱きしめて、こう言ったのよ』


『聖。これはな、お母さんが、お父さんにしてくれた、魔法なんだ』と。


 夏目の声が遠い昔を懐かしむように優しくなる。


『誠一郎先生が、難しい事件に負けて、心が、泣きそうになってる時。ひかりさんは、いつも、こう言って、先生の心の傷を、治してくれたんだって』


『だから、今度は、お父さんが、お前に、この魔法を、授けてやる』


『そう言って、彼は、あなたの小さな膝に、そっと、手を当てて、囁いたのよ』


『痛いの痛いの、飛んでいけ――ちちんぷいぷい』


 夏目の瞳が潤んでいた。


『…あれが、亡くなった奥さんの愛を、不器用な先生が、あなたに繋ごうとした、たった一つの、方法だったのよ』


 ――回想:9年前・春の墓地――


 満開の桜が風に舞う穏やかな午後。

 誠一郎は幼い聖の手を引き小さな墓石の前に静かに膝をついた。

 そこに刻まれた「姫川ひかり」の名を彼は愛おしそうに何度も指でなぞっていた。


『お父さん、お母さんはここにいるの?』


 聖はまだ「死」の意味をよく理解していなかった。


『…ああ。そうだ』


 誠一郎は聖の頭を優しく撫でた。


『お母さんはな聖。誰よりも人の心の痛みが分かる人だったんだ。声を聞くだけでその人が本当に笑っているのか泣いているのか分かった。…だからきっと今もここから俺たちの心の音を聴いているんだろうな』


 彼は空を見上げた。

 その瞳はまるで、そこに本当に愛する妻の姿を見ているかのようだった。


『聖。お前はお母さんによく似ている。だからお前も人の心の痛みが分かる優しい人間になりなさい。…それがお母さんが一番喜ぶことだ』


 それは父から娘への願い。

 そして天国の妻へと捧げる永遠の愛の誓いだった。


 ――回想:9年前・小学校の入学式――


 そしてその数日後。

 満開の桜並木の下。

 少し大きすぎる制服を着た、聖が不安そうに父の手をぎゅっと握っている。

 父はその隣でカメラを構えながら、少しだけ寂しそうに笑っていた。

 彼は決して口にはしなかった。

 この娘の晴れ舞台を誰よりも見たがっていた、愛する妻がもう隣にはいないというその胸が張り裂けそうなほどの喪失感を。


 ――回想:8年前・夏目リーガル・オフィス――


 その日聖は父に連れられて、初めて夏目の事務所を訪れた。

 誠一郎はクロノス社との運命の裁判の準備で、山のような資料に埋もれていた。

 その傍らで若き日の夏目は尊敬と、そしてかすかな恋慕の眼差しで彼を見つめていた。


『あら聖ちゃん、いらっしゃい。見て、誠一郎先生、かっこいいでしょ?』


 夏目は聖の目線に合わせて、しゃがみ込むといたずらっぽく笑った。


『先生はね、今、悪い龍と戦ってるお姫様を助ける、ナイト様なんだから』


 幼い聖は目を輝かせた。


『わたしも大きくなったら、お父さんみたいなナイトになる!』


『うん! 困っている人を、助けてあげるの!』


 そのあまりにも無垢で輝かしい幼き日の「夢」。

 その失われてしまった太陽の光のような幸福な記憶。


 聖は静かに目を開いた。

 目の前で夏目が哀しい顔で微笑んでいた。


「…ここまでは幸せなお話。でもね聖ちゃん。どんな美しい神話にも必ず悲劇は訪れるのよ」


 そして夏目はその地獄の幕が上がる瞬間のことを語り始めた。


(第2幕 第12章 完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る