第❷幕 第8章:ヘパイストスの工房
🥀【デジタル証拠の神聖性に関する法(通称:テミスの封印) 第1条】
公的機関によって一度押収され、証拠として認定されたデジタルデータは、神聖にして不可侵(Sacrosanct)とする。これに対するいかなる形式のアクセス、複製、解析も、司法への冒涜と見なし、最も重い罪科を課す。
――(西暦2040年制定)
🥀【夏目リーガル・オフィス - 2042/11/23 09:00:15】
夜が明けても、事務所の空気は、夏目が捕らえられたという絶望によって、凍りついていた。
聖は、ほとんど眠れなかった。彼女を救い出さなければならない。
しかし、どうやって? 思考が、暗い迷宮を彷徨う。
その時、カイトからの通信が入った。
『泣いている暇はない、姫川』
彼の声は、いつも通り、冷徹だった。
『夏目君の拘束は、チェスで言えば、相手にこちらの奇襲を気づかれたのと同じだ。敵は、我々の存在を察知した。正体は分からずとも、"誰か"が娘の部屋の真相に近づいていることにな。…つまり、ここから、相手は一気に詰めにくる。盤上のルールそのものを、変えてくるはずだ。残された時間は、ない』
「でも、証拠が…」
『だからこそ、だ。我々の武器は、『仮説』だけだ。そして、それを証明するための『駒』が、一つもない』
カイトは、チェスの盤面を眺めるように、状況を整理する。
絶望的な状況。
だが、聖の瞳には、まだ光が宿っていた。
「いいえ。駒は、あるわ。正規の
彼女は、二つの駒を、盤上に置いた。
「一つは、私の『非合法な人脈(ミスターX)』。そして、もう一つは…」
聖は、カイトの目を、真っ直ぐに見つめた。
「…あなたの『プライド』よ」
「何?」
「あなたは、検察庁の内部システムに、外部からでは知り得ないレベルで精通している。でなければ、あの『論理的な瑕疵』に、気づけるはずがない」
聖の言葉は、賭けだった。
だが、彼女がこれまで聴いてきた、黒瀬カイトという人間の、複雑で、しかし、どこまでも純粋な『論理への渇望』という魂の音を信じた、確信に近い一手だった。
「そして、もし、あなたがこのまま何もしなければ、どうなるかしら? あなたが指摘した『偽りの証明』は、そのまま『真実』として、歴史に刻まれる。あなたの信じる、完璧な論理の世界は、永遠に汚されたままになる。…あなたの、そのプライドは、それを許すの?」
それは、悪魔の囁きだった。
聖は、カイトの「正義感」ではなく、彼の「傲慢なまでのプライド」を、人質に取ったのだ。
長い沈黙の後、カイトは、ふっと、その完璧なポーカーフェイスを、一瞬だけ崩した。それは、自嘲と、そして、どこか遠い昔を懐かしむような、複雑な表情だった。
「…僕の父親も、君に似ていた」
唐突な言葉に、聖は息を呑んだ。
「彼は、神宮寺理事長と、共に、このAI社会のシステムの、礎を、築いた、男だった。誰よりも、論理の美しさを信じていた。…だが、彼は、最後の最後で、システムではなく、一人の人間の『心』という、最も不確かなノイズを信じようとして、全てを失った」
彼の声には、いつもの冷徹さとは違う、静かな、しかし、底知れない熱が込められていた。
「僕は、父の過ちを繰り返さない。非合理は、淘汰されるべきだ。…だが、君を見ていると、時々、分からなくなる。父が最後に見た『光』が、君のようなものだったのか、と」
それは、彼が、誰にも見せたことのない、魂の裸身の、ほんの僅かな欠片だった。
「…面白い。君は、悪魔にでも、魂を売ったのか」
彼は、そう言って、いつもの冷笑の仮面を、再び被った。
「あなたこそ」
二人の天才は、互いの魂の、最も深い部分に、ほんの少しだけ触れ合った。
🥀【カイトの自室『ヘパイストスの工房』 - 2042/11/23 15:00:00】
カイトの部屋は、もはや学生のそれではなかった。
複数の大型サーバーが、鍛冶場の炉のように、絶えず熱と唸りを上げている。
彼は、自らの魂の聖域――ヘパイストスの工房で、神に挑むための、禁断の槌を振るっていた。
『テミスの封印』によって固く閉ざされた、検察庁のサーバー。
彼は、その、僅かな、ナノ秒単位のシステムの隙間を突き、アカリのニューラル・パルス・ログへと、潜入していく。
それは、神の鎧の、僅かな隙間に、針を通すような、神業だった。
🥀【夏目リーガル・オフィス - 2042/11/23 15:00:00】
同時刻。聖は、二人の天才ハッカーの「司令塔」となっていた。
右のモニターには、カイトからの、ハッキングの進捗を示す、暗号化されたデータストリーム。
左のモニターには、ミスターXが、警察の証拠品分析ラボのサーバーへと仕掛けた、陽動攻撃のログ。
聖は、自らの直感と推理を頼りに、二つの、全く異なる戦場で戦う彼らを、一つの「真実」へと、導いていく。
『お嬢さん、見つけたぜ。ディフューザーの中から、例のアレルゲンの他に、未知のナノマシンが検出された、という分析レポートだ!』
ミスターXからの、勝利の報告。
だが、その直後、カイトから、絶望的な通信が入った。
『…駄目だ。ログの本体には、たどり着けない。僕が盗み出せるのは、せいぜい、数秒分のデータだけだ。これでは、何も証明できない…!』
全てのピースが、揃わない。
その、万策尽きたかと思われた、瞬間。
聖の脳裏に、一つの、狂気の光が、閃いた。
「…黒瀬君」
彼女の声は、震えていた。
それは、恐怖ではない。
自らの、あまりにも悪魔的な発想に対する、武者震いだった。
「証明、できるわ。その、たった数秒のデータだけで」
🥀【カイトの自室『ヘパイストスの工房』 - 2042/11/23 19:00:00】
聖から送られてきた、恐るべき作戦計画。
カイトは、その内容を読み、初めて、心の底から、戦慄した。
そして、笑った。
「…面白い。君は、本当に、悪魔にでも、魂を売ったのか」
カイトの指が、神速でキーボードを叩く。
ミスターXが手に入れた、ナノマシンの情報。
そして、自らが盗み出した、アカリの「偽りの殺意」のログ。
彼は、その二つを「材料」として、新たなる、第三の「何か」を、鍛え上げ始めた。
「このログには、偽りの感情が注入されている」
そう、AI『テミス』に、錯覚させるための、
あまりにも巧妙で、あまりにも冒涜的な、『論理の偽装プログラム(ロジカル・ミラージュ)』を。
神を欺くための剣が、今、鍛え上げられた。
だが、その瞬間。
聖から、絶望を告げる、緊急通信が叩きつけられた。
『黒瀬君、大変! アカリの弁護人から、連絡が…!』
モニターに表示されたのは、一通の、無慈悲な公式通知だった。
――最終弁論、及び判決言い渡し、明朝午前10時に、繰り上げ決定。
敵は、我々の動きに、気づいていたのだ。
我々が、神を欺くための剣を鍛え上げた、まさにその瞬間に、
断頭台の刃は、無情にも、振り下ろされようとしていた。
(第2幕 第8章 完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます