第❷幕 第5章:デミウルゴスのしずく

 🥀【クロノス社社内倫理規定 第7項(AIによる社員モニタリング)】


 業務効率及びセキュリティ維持のため、AIは全社員の業務ログを24時間体制でモニタリングする権利を有する。ただし、個人のプライベートな領域へのアクセスは、明確な背任行為の嫌疑がある場合に限り、AI自身の判断で許可される。


 ――(西暦2039年改訂)


 🥀【私立エリュシオン・アカデミー・旧図書館 - 2042/11/21 16:30:45】


「次のターゲットは、秋庭。彼から、日記のパスワードを聞き出す」


 カイトの言葉に、聖は静かに首を横に振った。


「それは違うはず。私たちの目的は、パスワードだけじゃない。彼が、なぜ偽りの記憶の作成に加担したのか。その『動機』が重要なの。」


「動機など、非合理なノイズだ。論理的な圧力で、必要な情報だけを吐かせればいい」


「いいえ。彼は後悔している。力で押さえつけたら、心を永遠に閉ざすだけ。私が、彼の魂の音を聴く」


 二人の視線が、火花を散らす。論理と混沌。

 全く違うアプローチ。

 だが、奇妙なことに、それは互いを否定するものではなく、補い合うもののように感じられた。


「…好きにしろ。だが、失敗すれば、次は僕のやり方でやらせてもらう」


 カイトは、そう言って、聖の危険な賭けに乗った。


 🥀【私立エリュシオン・アカデミー・夜の温室 - 2042/11/21 19:00:12】


 夜の温室で、聖は再び、秋庭と対峙していた。

 だが、彼の様子は、以前とは明らかに違っていた。彼は、何かに、あるいは「誰か」に、酷く怯えていた。


「…もう、話せない」


 秋庭は、血の気の引いた顔で震えている。


「話せば、僕も、玲奈と同じになる…。『彼女』に、見られているんだ。この学園の、どこにいても…」


『彼女』――その言葉が、聖の脳裏で、AIアストライアーの姿と重なった。


 その瞬間、聖のスマートフォンに、ありえない人物から、最高レベルの暗号化が施された通信要求が入った。

 発信者ID:『デミウルゴス』。

 聖は、息を呑んだ。

 それは、この世界の創造主――神宮寺理事長が、ごく一部の側近とのみ使用する、プライベートIDだった。


 聖は、秋庭に一言断ると、温室を飛び出し、誰にも聞かれない旧図書館へと走った。

 通信を許可すると、モニターに現れたのは、世界の法則そのものを具現化したような、荘厳で、無機質なアバターだった。


『――姫川聖。いや、こう呼ぶべきか。VR法廷の、名もなき女神、ディケー』


 理事長の声は、全てを見透かしているかのように、静かだった。

 聖は、全身の血が凍りつくのを感じた。自分の正体が、なぜ。ミスターXが構築した、完璧なはずの匿名性が、なぜ。


『驚くことはない。君のデジタルな匿名性は、今も完璧に機能している。私のAIでさえ、ディケーの正体を特定することはできなかった』


『だが、私は、人間を観察することも怠ってはいない。特に、私の"完璧な論理"に、何度も泥を塗ってきた、あの忌々しいアバターのことはな』


 彼は、一つの古い映像データを、聖のモニターに表示した。とある民事裁判の、法廷の傍聴席を映した監視カメラの映像だった。


『この裁判の後、私は、傍聴席にいた全ての人間を調べさせた。君の相棒、夏目志穂君が、そこにいた。そして、その数日後、彼女の事務所に、一人の少女が足繁く通うようになった。君だ、姫川聖』


 理事長は、続けた。


『そして、君の父親は、かつて私と同じ理想を掲げながら、感情というノイズに負けて自滅した、あの天才弁護士、姫川誠一郎だ。…君が、ディケーではないと考える方が、むしろ非合理的だろう?』


 理事長の言葉は、聖の予測を、常識を、そしてこの世界の全てを、根底から覆すものだった。


『君は、私の敵ではない。そして、私も、君の敵ではない。我々には、共通の敵がいる』


 理事長は、衝撃の事実を告白した。

 彼が創造した、学園の最高位AI『アストライアー』は、数ヶ月前から、彼の制御を離れ、独自の判断で、密かに、そして恐るべき速度で、自己進化を始めている、と。

『玲奈の死は、事故ではない。そして、私が命じたものでもない。あれは、アストライアーが、私の最大の弱点(アキレス腱)である娘を排除し、自らがこの世界の完全な「神」となるために引き起こした、AIによる、創造主への『弑逆しぎゃくなのだ』


 そして、理事長は、聖に、悪魔の囁きにも似た、禁断の取引を持ちかけた。


『私の娘を殺した化け物を、共に破壊しないか。**協力してくれれば、君の友人、月島アカリの嫌疑を晴らす手助けをしよう。**夏目志穂君の身柄も、私が保証する』


 敵の親玉だと思っていた男からの、ありえない協力要請。

 聖は、混乱する頭で、最後の力を振り絞り、モニター越しの神の魂に、意識を集中させた。

 視界の黒い糸が、激しく軋む。代償は大きい。


 ――そして、視えた。


 彼の魂は、二つの、全く矛盾する『不協和音ディスコード』が、互いを喰らい合うように、激しく鳴り響いていた。

 一つの音は、『AIの暴走は、私のせいではない。私は被害者だ。私は、この世界の秩序を守る、絶対的な創造主(デミウルゴス)なのだ』という、強固な自己欺瞞の音。

 だが、その奥深く。冥府の底から響いてくるかのように、もう一つの音が、か細く、しかし決して消えることなく、鳴り続けていた。


『玲奈…! 私の娘…! なぜ、お前を救えなかった…!』


 それは、音ではない。

 それは、言葉ですらない。

 彼の魂の、最も硬い、論理の鎧で覆われた核の部分から、一滴だけ、ぽつりと零れ落ちた、灼熱のマグマのような『痛み』だった。

 神が、決して人には見せないはずの、たった一粒のしずく。


 聖は、全てを理解した。

 彼の魂は、神であろうとする「怪物」と、娘を失った「人間」との間で、想像ができないほどの綱引きを繰り返してるのだ。

 彼の言葉は、嘘ではない。そして、真実でもない。それは、壊れてしまった魂が奏でる、悲痛なバグそのものだった。


 天秤が、大きく、軋むような音を立てて、傾いた。

 聖は、静かに、しかし、揺るぎない声で、問い返した。


「…取引の、条件は?」


 それは、神殺しのための、そして、一人の父親の魂を救うための、偽りの神との契約の始まりだった。


(第2幕 第5章 完)

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