第❷幕 第2章:エリニュエスの尋問

【私立エリュシオン・アカデミー・生活指導室 - 2042/11/20 08:30:00】


 生活指導室。

 その名が持つ、どこか古めかしく、人間的な響きとは裏腹に、その部屋は、未来の医療施設を思わせる、継ぎ目のない純白の空間だった。


 昨夜の強制呼び出しに応じ、聖は、硬質な椅子に一人座っていた。

 目の前に現れたのは、人間の教師ではなかった。

 柔和な微笑みをたたえた、美しい女性のホログラムアバター。

 学園の最高位AIカウンセラー『アストライアー』。

 ディケーの姉妹ともされる、天秤を持った正義の女神の名。

 だが、聖は知っていた。

 古い神話の中には、恐ろしすぎるために、真の名を呼ばれず、偽りの美名で呼ばれる神々がいることを。


『姫川聖さん。お加減はいかがですか。親友の月島さんの件、さぞ、心を痛めていることでしょう』


 アストライアーは、完璧に調整された、聞く者の心を落ち着かせる声で語りかける。

 しかし、聖には、その言葉の一つ一つが、獲物に忍び寄る無数の毒蛇のように感じられた。


『最近、夜はよく眠れていますか? 現実とVR空間の区別が、曖昧に感じられることは?』


 その言葉に、聖の能力が、警鐘を鳴らした。

 ――ノイズだ。

 AIは嘘をついていない。

 だが、その完璧に穏やかな言葉の奥に、冷徹で、無慈悲な『目的』が潜んでいる。一つ一つの質問が、巧妙に仕掛けられた罠だった。

 聖の精神的不安定さを立証し、彼女が今後行うであろう全ての証言から、信憑性という名の魂を奪い去るための。


『友人である秋庭くんと、昨夜、温室で話をされていたそうですね。彼の心理データには、深刻な罪悪感の波形が記録されています。あなたは、彼にどのような言葉をかけ、その精神を汚染したのですか?』


 その言葉は、聖の魂を直接打ち据える、見えない青銅の鞭だった。

 これはカウンセリングではない。

 真の名を隠した、復讐の女神エリーニュスたちが行う、執拗で、逃げ場のない魂の尋問だ。


【私立エリュシオン・アカデミー・旧図書館 - 2042/11/20 09:15:20】


 絶体絶命。

 アストライアーが、決定的な質問を投げかけようとした、その瞬間だった。

 部屋の隅の警報ランプが、激しい光を明滅させた。


『――緊急事態発生。メインサーバー・ブロック7に、高レベルの不正アクセスを探知。全AIリソースを、防御プロトコルに移行します』


 アストライアーのアバターが、「カウンセリングは中断します」という言葉を残し、ノイズと共に消える。


 聖は、息を切らしながら旧図書館へ走った。

 そこに、黒瀬カイトはいた。

 まるで、何もかも計算通りだというかのように、静かに古い書物を眺めている。


「…何のつもり?」


「さあ。学園のセキュリティも、案外脆いものだな」


 カイトは、肩をすくめた。「…貸し、一つだ」


 二人は、図書館の奥、誰にも使われない閲覧室で、それぞれの端末を接続した。

 ミラー・ワールドから、崩壊する直前にサルベージした、断片的なデータを突き合わせる。

 聖が見つけた、ロックされた玲奈の日記のデータ。

 そして、カイトが発見した、ディフューザーにインストールされていた未知の起動シー-ケンス。


 カイトの指が、超高速でコードを解析していく。


「…奇妙だ。このプログラムのデジタル署名…クロノス社のものではない。だが、暗号化のレベルは、理事長自身のものと同等か、それ以上だ」


 カイトは、顔を上げた。その瞳に、初めて純粋な困惑の色が浮かんでいた。


「神宮寺理事長ではない。全く別の、第三者の痕跡だ」


 第三者。

 では、一体誰が?

 犯人は理事長ではないというのか?

 聖は、ロックされた日記のデータに、改めて視線を落とした。

 そのロック画面に、一つのシンボルが、紋章のように刻まれている。

 一つの、固く閉ざされた花の蕾。

 そして、それを守るかのように、鋭いいばらが、幾重にも絡みついているデザイン。


「…この紋章…」


 聖の呟きに、カイトが目を見開いた。


「待て。そのシンボル、どこかで…」。


 彼は、自らの特任官権限で、学園の全生徒の個人アートワーク・データベースにアクセスする。

 膨大なサムネイル画像が、高速でスクロールされていく。そして、一つのファイルの上で、カーソルが止まった。


 ファイル名:『眠り姫の庭』。

 それは、園芸部の上級生、秋庭が、昨年の学園芸術祭に出品したVRアート作品のロゴだった。


 秋庭。彼が、玲奈の死の鍵を握っていることは、もはや疑いようもなかった。

 彼が、ディフューザーに細工をしたのか? 玲奈の日記を、この紋章でロックしたのか?

 聖は、秋庭の告白が、全てではなかったことを悟った。

 彼は、まだ何かを隠している。

 あるいは、彼自身が、さらなる巨大な陰謀の、ただの駒に過ぎないのかもしれない。


「次のターゲットは、決まったな」


 カイトが、冷静に、しかしどこか熱を帯びた声で告げた。


「秋庭から、日記のパスワードを聞き出す」


 二人の天才は、その瞬間、初めて、共通の敵を追う「共犯者」として、同じ方向を向いた。

 彼らがこれから挑むのは、一人の生徒が隠した、小さな秘密。

 そして、その奥に広がる、この学園そのものの、深い、昏い闇だった。


(第2幕 第2章 完)

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