ディケーの天秤

NewT

第❶幕 プロローグ

 🥀【法は、人を救うためにあるのではない。

 法は、世界を守るためにある。

 たとえ、その過程で、一人の人間が犠牲になったとしても。】

 【――VR統合基本法 前文より(西暦2035年制定)】


🥀【CASE-348 VR法廷 - 2042/11/15 14:52:18】


『――以上で、検察側の立証を終わります』


 AI裁判官『テミス』の合成音声が、荘厳な仮想法廷に冷たく響き渡った。

 それは、事実上の「終幕宣言」だった。


 検察が提示したデジタル証拠は完璧だった。

 サーバーへの不正アクセスログ、改ざんされたデータパケットの痕跡、そして被告のVRゴーグルから検出された、犯行と完全に一致するニューラル・パルス。

 その全てが、ただ一つの事実を指し示している。

 被告――IDネーム《リオン》が、所属するゲームギルドの共有資産を横領した、と。


 被告席で、勇ましいライオンのアバターを纏った青年が、力なくうなだれる。その巨躯が、今はひどく小さく見えた。

 彼の背後で、もう一人の弁護人アバターが、諦念に目を伏せた。

 髪を一筋の乱れもなくまとめ、知的だが度の入っていないスクエア眼鏡をかけた、いかにも有能そうな女性アバター。

 それが、夏目志穂の「表の顔(アバター)」だった。

 しかし、その完璧に整えられたアバターの肩が、モニターの向こう側にいる本体の心労を映すかのように、微かに震えているのを、ディケーだけは感じ取っていた。


『弁護人。最終弁論を』

 テミスが、一切の感情を排した声で促す。

 傍聴席に並ぶ無個性なアバターたちの間にも、判決を待つまでもない、という空気が重く澱んでいた。


 その、絶望的な沈黙を破ったのは、夏目の隣に立つ、もう一人のアバターだった。

 、制服に身を包んだ、


 他のアバターたちが現実の人間を模したリアルな造形であるのに対し、彼女のアバターだけは、どこか無機質で、まるで精巧なビスクドールのように、一切の感情の揺らぎを感じさせない。

 その表情の"無"が、逆に法廷内で異様な存在感を放っていた。


 彼女こそ、このVR法廷で無敗を誇る、正体不明の天才アバター弁護士。

 その名を――ディケー。


「異議あり」


 凛とした声が、法廷の空気を切り裂いた。


「検察側が提示した証拠は、確かに"事実"でしょう。ですが、そこには**"真実"**が、一つだけ欠けています」


 ディケーは、証言台に立つ、ギルドマスターのアバターへと向き直った。


「証人。あなたは先ほど、被告が横領した資産は、ギルドの"運営資金"であったと証言しました。その声…少し、震えていましたね。なぜです?」


 法廷が、わずかに、ざわつく。

 データ至上主義のこの法廷で、「声の震え」などという指摘は、非論理的で、ほとんど意味をなさない。


「なっ…! ふ、震えてなど…!」


 証人のアバターの輪郭が、ほんの僅かに、ノイズのように揺らいだ。

 ディケーの目隠しの奥の「瞳」には、それが視えていた。彼が語る言葉と、その魂が奏でる音の、絶望的なまでの『不協和音(ディスコード)』が。


 ディケーは、その一点だけを、静かに、しかし執拗に突く。


「もう一度、お聞きします。本当に、"運営資金"でしたか? あなたが本当に隠したいのは、横領という犯罪の事実ではなく、その金が、『病気の娘さんの治療費のために、あなたが個人的に用意していた裏金』であったという、不都合な真実ではありませんか?」


「―――っ!」


 証人のアバターが、激しく明滅した。ノイズが、嵐のように吹き荒れる。

 彼は、娘の治療費という、同情を引く事実を隠蔽するために、ギルドの金を装った。そして、金の動きに気づいた《リオン》を、口封じのために犯人に仕立て上げたのだ。


 ディケーは、続けた。今度は、被告席の《リオン》へと向き直って。


「そして、被告人。あなたもまた、嘘をついている。あなたは、マスターの事情を知っていた。知った上で、彼の罪を、友情のために一人で被ろうとした。…違いますか?」


 被告のライオンが、ついに顔を上げた。その獣の瞳から、デジタルの涙が、ぽろぽろと零れ落ちていた。


「この事件の真相は、"悪質な横領事件"などという、派手なものではありません」


 ディケーは、法廷全体に、そしてAI『テミス』に語りかける。


「これは、ただ、病気の娘を救いたいと願う、父親の小さな嘘。そして、その友の苦しみを知り、自らが泥を被ろうとした、若者の愚かな優しさ。

 …その二つの嘘が、偶然、この法廷で交差してしまっただけの、どこにでもある、ありふれた悲劇なのです」


 その言葉は、もはや弁論ではなかった。

 それは、光と影の間で揺れ動く、愚かで、弱い、人間という生き物そのものへの、鎮魂歌(レクイエム)のようだった。


🥀【自宅 - 2042/11/15 15:30:04】


 ――ぷつり、と世界が暗転する。

 姫川聖ひめかわ ひじりは、頭部に装着していたVRゴーグルを、震える手でゆっくりと外した。


 先ほどまでの、光と喝采に満ちた荘厳な法廷はどこにもない。

 そこにあるのは、カーテンが閉め切られた、薄暗い自室の風景。


 そして、彼女の目に映る世界は、まるでピントの合わない古い映画のように、ぼんやりと滲んで揺れていた。

 視界の左端には、一本の黒い亀裂が、まるでガラスのヒビのように、現実の風景を侵食している。

 それは、純白のシャツに滲んだ、一滴の墨汁のようだった。

 今はまだ、小さな染みでしかない。

 だが、勝利を一つ重ねるたびに、その染みは、決して元には戻らないと知りながら、じわり、じわりと、静かに、そして容赦なく、彼女の世界を黒く塗りつぶしていくのだ。


「…聖ちゃん! 今回も、すごかったよ…!」


 モニターの向こうで、夏目志穂が涙声で手を叩いている。


「でも、また無茶して…。あんたの目は…!」


「大丈夫です、夏目さん」


 聖は、壁伝いに、おぼつかない足取りでベッドへと向かう。

「それより、守れた。守れたから、それで…」


 そう呟いた時、聖のスマートフォンが、軽やかな音を立てた。

 画面には、親友からのメッセージ。IDネームは《アカリ》。


『ひじり、おつかれ! 今日の裁判も神がかってたね! あたしの作ったプログラム、役に立った? ところでさ、相談があるんだけど――』


 その、何気ない日常の光。

 それが、これから始まる、全てを懸けた戦いの、始まりの合図であることを。

 そして、このささやかで平凡な日常そのものが、やがて、彼女が人生の全てを懸けて挑むことになる、巨大な事件の、ほんのプロローグに過ぎないということを。


 彼女はまだ、知らなかった。

(第1幕 プロローグ 完)

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