第23話 悲しき過去
運命の歯車が動き出した日、ひとりの女神が人間界へと舞い降りた。目的は地上に存在する人という生物の調査。誰にも見られず何ヶ月も観察するはずだったのだが……。
「こんなにも雨が降っているのに傘をささないなんて、風邪を引いちゃうよ。よかったら僕の傘を使ってよ。もう家が近いから傘がなくても平気だし」
「あ、あの……」
誰にも見られてはいけない。そのはずが、人間界の青年にあっさり見つかってしまう。頭の中が一瞬真っ白となり会話すらまともに出来ない。
何を話せばいいのか。実は自分が女神だとは口が裂けても言えず、この雨で傘の受け取りを断れば怪しまれること間違いなし。再開させた思考で何がベストな行動か考える。
答えを出すまで僅か数秒ほど。
傘だけ受け取ってその場を凌げばいい。
この出会いは予定外であったが、注意すれば二度と会うことはないだろう。彼女はそう思っていた。
「じゃあ僕はこれで。傘……返さなくていいからね」
青年はそう言うと、土砂降りの雨の中を走り去っていく。その後ろ姿はどこか凛々しく、なんとなく惹かれるものがあった。
だが、どんなに惹かれたところで、女神という立場が邪魔をする。心に小さな歪みが生じるも、女神の少女は見て見ぬふりで隠し通すと誓いを立てた。
あれから数日経つが青年とはまったく会わない。紺色の傘は今も女神の少女の手元にある。返却不要とは言われたものの、やはり返さないと落ち着かず心ここに在らずだった。
このままでは任務に支障をきたす──。
不本意ではあるがあの青年を探し出そうと決めた。
「べ、別にあの人が気になるわけじゃないの。ただ……女神として傘を返さなければいけないだけ。そうよ、ただそれだけなんだから」
自分に言い聞かせるあたりが意識している証拠。胸につっかえる何かがあるのを否定できない。だが今は忘れよう。優先すべきは任務なのだから。
「見つけようとすると、なかなか見つからないものですね」
不思議な事に会いたくない時ほど会え、会いたい時ほど会えないもの。困り果てた女神の少女は、公園のベンチに座りながらため息をつく。手がかりすらなく途方に暮れていると──。
「ひゃっ!?」
頬に伝わる冷たい感触が女神の少女に可愛い悲鳴を上げさせる。いったい何が起きたのだろう。ゆっくり後ろを振り向くと、その瞳に映りこんだのは見覚えのある顔であった。
「えっ……。アナタは確か……」
「どうしたんだい、浮かない顔なんかして」
「私は別にそんな顔してません」
捜し求めていた青年と出会えるも、女神の少女はつい反発し小顔を膨らませ不貞腐れてしまう。驚かされたのが気に入らず、青年と視線を一切合わせようとはしなかった。
「ひょっとして、冷たいお茶を頬っぺに当てたのを怒ってるのかい?」
「それぐらいじゃ私は怒ったりしません」
誰がどう見ても怒っているようにしか見えない。それでも青年は笑顔を崩さず、何を思ったのか女神の少女の隣に腰掛けたのだ。
「な、なんで隣に座るんですかっ」
「なんでって……空いてたから座っただけさ」
「そういう問題じゃなくて──」
「それとも、このベンチはキミのモノだったりするの?」
「それは違いますけど……」
女神の少女が流し目で青年を見ると、満面の笑みのまま冷えたお茶を差し出している。何がしたいのか理解できず白いモヤに覆わていると、青年が優しい声で話しかけてきた。
「そういえば、キミって珍しい格好してるよねぇ」
「私が何を着ようと勝手じゃないですか」
「別にからかってるんじゃないよ、凄く似合っていて可愛いかなって思っただけさ」
「私が可愛いですって!?」
不意打ちの言葉は女神の少女の顔を真っ赤に染め上げる。体が急に火照りだし、鼓動が心地よい激しいリズムを奏でた。
今まで感じた事のない感覚。
心がくすぐったくなり落ち着きがなくなる。
戸惑いを隠せず動揺から瞳が泳いでいた。
「そうだよ。あれ、もしかして、そう言われたのは初めてだったりする? みんな見る目がないねぇ」
「そ、そんなことは……」
異性と接するのは青年が初めて。
否定したいが図星であり悔しさが滲み出る。
負けっぱなしなのは癪で、言い返そうとするも何も浮かばず。認めたくはないが、素直に負けを認めるしかなかった。
「そうよ、言われたことなんてないよっ。それが何か悪いとでも言うのっ!」
「悪いだなんて、僕はひと言も言ってないよ。だからさ、機嫌直してくれないかな?」
逆ギレされても青年は笑顔のまま。何事もなかったように再びお茶を差し出し、女神の少女が受け取るのを静かに待った。
受け取るべきか悩む女神の少女。
数秒の時を挟み選んだ選択は、青年から強引にお茶を奪うという強硬手段だった。
「仕方ないから許してあげる。そ、その、あ、ありがと……」
行動とは真逆に照れくさそうにお礼を言う女神の少女。ただのお茶が特別に感じ自然と笑顔がこぼれた。
「それじゃ、名前を教えてくれるかい?」
「私は──って、名前なんか教えてあげないよーだっ」
完全に青年のペースでこのままでは完敗してしまう。それだけは絶対にイヤだ。反発するように舌を出しあっかんべーで対抗する。これが女神のする行動かは疑問だが、心に湧いた敗北感が体を勝手に動かした。
「まっ、いいけどね。ところで、最近になって引越してきたの? ついこの間まで見かけなかったからさ」
「え、えっと、それは……」
実は女神だとは言えず、女神の少女は困り果てる。人間界の調査は極秘であり、正体がバレるのは以ての外。秘密を守らなければならない。ここは青年の話に合わせた方が得策だと考えた。
「そ、そうだよ。私、引っ越してきたばかりなの」
「やっぱりそうかぁ、僕ってこう見えて結構カンがいいんだよねっ」
心に鋭利な刃物が突き刺さる。ただ話を合わせただけ。そのはずがウソで騙している感覚に襲われ、罪悪感が大きな波となって女神の少女を飲み込もうとする。
最初は傘だけ返して青年の前から消える予定だった。
それが罪悪感から少し話に付き合う事にした。
単なる罪滅ぼし──明確なタイミングさえ覚えていない。これほど話が弾むとは思わなかった。気づいた時には夕陽がふたりを照らしていた。
「あっ、もうこんな時間だ、そろそろ帰らないと。ねぇ、キミはどこに住んでいるのかな? よかったら送っていくけど」
「私は──」
女神に帰る家などない。そう言えればどれだけ楽な事だか。何かいい返事はないものだろうか。思考の海へダイブし答えを探し始める。ひたすら潜り続けていると、宝箱に隠された宝石を見つけ出した。
「ううん、乙女には秘密がつきものなんだよっ」
「そっか、ならこれ以上は詮索しないよ」
残念そうな青年が瞳に映り込み、女神の少女は心に刺すような痛みを覚える。相手はただの人間。なぜ胸の痛みが治まらないのか。理由も分からないまま、青年に満面の笑みを向けた。
「あっ、それならさ、また会えたりするかな? この場所で今日の時間くらいに。でも、いつとかは約束しないよ。キミが会いたくなったら来てくれればいいから」
「うん、気が向いたら、ね」
それがその日にふたりが交わした最後の言葉だった。話は終始青年のペースであり、傘の存在は忘却の彼方へと置き去りにされる。思い出したのは青年が立ち去ったあと。また会わなくてはいけない。不満が心を支配するも、女神の少女の顔はどこか嬉しそうであった。
結局、次の日も、そのまた次の日も女神の少女は青年と会い続けた。それは傘を返し終えたあとも、自らの意思で待ち合わせ場所に赴いたのだ。
幸せな日々は長続きしない。運命の歯車は残酷にもこの時間を終わらせようと回り始める。人間界での情報収集も残りわずか。天界へ戻る時間がすぐ側まで迫ってくる。
人間界の時間でおよそ半年。それが女神の少女に与えられた時間だ。その期限はというと、明日には天界へ帰還しなければならなかった。
「今日も楽しかったよ。ずっとこんな日が続けばいいのにね」
「う、うん……」
「どうしたの? 元気がないみたいだけど」
青年の顔からいつもの笑顔が消え、心配そうな声で女神の少女に話しかける。普段と様子が違う。きっと何かあるはずだと、青年は思っていた。
「あ、あのね……。私、明日から遠い場所に行かなければならないの。ものすごく遠いところ……。だからもう、こんな風に会うことが出来なくなるんだ」
「……そっか、だから寂しそうな顔をしていたんだね。でも、いつかまた会えるよね?」
胸が張り裂けそうだった。同じ人間界でなら再会は可能。しかし遠い場所とは天界であり、そう簡単には会えなくなる。いや、もしかしたら二度と会えないかもしれない。それでも女神の少女は、涙を一切流さず笑顔で青年に別れを告げた。
「絶対、絶対にもう一度会えるから! だから……私のこと、絶対に忘れないでねっ」
「忘れない……。僕も絶対に忘れないからねっ」
それが人間界で交わした最後の言葉。
翌日、女神の少女は悲しみを胸に秘め天界へ戻った。もう一度あの青年と会うため、人間界の任務をすぐに探し始める。それこそ死力を尽くし何度も人間界での任務がないか確認する毎日。
広大な世界で人間界の任務は数少ない。それでも諦めず粘り強く探し続けた。そしてようやく見つけた人間界での任務。なんとか他の女神から譲ってもらい、念願だった青年との再会を果たそうと人間界へ舞い降りた。
短いようで長かった時間。
この日をどれだけ待ち望んだ事だか。
任務など後回し。青年の情報を必死に集め、ようやく青年がいる場所を突き止めた。そこは驚くくらい静かな場所。ただ呆然と青年の前に立ち、女神の少女は頭の中が真っ白となった。
瞳に映り込むのは石で出来た墓標。
青年の名前が刻まれ、線香の匂いが鼻を掠める。
そう、あの青年は女神の少女が舞い降りるほんの数日前に、不運な事故で命を落としてしまった。
「どうして、どうしてなの! せっかく会えると思ったのに、今度こそ名前を伝えようと思ったのに! どうして……」
瞳から湧き出る涙が止まらない。
喉が潰れるほどあの青年との思い出を叫んだ。
たとえ女神の力を使ったとしても、失った命は二度と戻らない。もっと早く人間界へ来られたら──後悔だけが女神の少女の中に残り続けた。
「アナタがいない世界でなんて生きる意味なんてない! ただ普通の幸せが欲しかっただけなのに。女神と人間は恋をしてはいけないの? そんな世界いらない、私にとって必要ない! 私、生まれ変わってでも、もう一度アナタに会いたい。そしてこの想いを伝えたいよ。そして今度こそ……」
想いをすべて吐き出すと、女神の少女は青年の墓前で泣きながら命を断った。
女神という肩書きなんて無力。
ひとりの人間すら救えない。
亡き骸からこぼれ落ちる涙が大地を湿らせると、優しい光となって女神の少女を暖かく包み込む。光は徐々に小さくなり、宝石へと形を変え天界へと返っていく。死に際に願った強い想いを乗せて……。
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