第18話 任務と揺れ動く感情

 颯斗が莉乃の秘密を知った頃、カレンはその場からまだ動いていなかった。

「困りましたわね。まさか不意打ちで颯斗さんを連れていかれるだなんて」

 大きなため息とともに、颯斗が連れ去られた方向へゆっくり歩き出す。慌てる様子など微塵も見せずに、優雅な夜の散歩を楽しんでいるようであった。

「莉乃さんが何を考えてるのか知りませんけど、ネックレスを早く奪って天界に帰らなければなりません。でないと……この胸の痛みが治らない気がするのよ」

 それは颯斗を連れ去られた瞬間から感じていた。きっと人間界特有の病気だと勝手に決めつけ、天界にさえ戻れば治るとカレンは考えた。そう、人間界から離れれば……だがその意味は颯斗と別れるということ。

 正確に理解した途端、胸の苦しみが増していく。今にも心臓が握りつぶされそうで、カレンの意志とは無関係に大粒の涙が大地を湿らせた。

「これは何……? どうしてわたくしは泣いているの?」

 涙の理由に心当たりはまったくない。人間界での任務は何度もこなしている。それなのに──別れなど慣れているはずが、今回だけは胸に大きな穴が空いた感覚に襲われた。

 初めて味わう不思議な気持ち。

 苦しくもあり、どこか心地よい安らぎさえ覚える。

 心に纏わりつく未知の正体を確かめようとしていると、聞き覚えのある声が漆黒の闇から聞こえてきた。

「カレン、こんなところにいたのね」

「えっ、ウルド……? どうして人間界に……」

 目の前に現れたのはウルドと呼ばれる少女。月明かりに照らされた長い銀髪は褐色肌によく似合う。炎のような紅い瞳でカレンを見つめ、自分が人間界に来た理由を告げようとしていた。

「どうしても何も、アナタに女神の雫の情報を伝えようと思ってね。感謝しなさいよね、このウルド様がわざわざ人間界まで言伝に来たんだから」

「別に頼んでなんかいませんわ」

「あら素直じゃないようね。だいたいね、このままダラダラと人間界にいられても困るのよ。あたしにも立場っていうのがあるんだから」

「そんなのわたくしの知ったことじゃないわよ。女神の雫はもうすぐ回収できるのだから、ウルドは黙って見てて欲しいものね」

「へぇー、そうなんだぁ。ふぅーん」

「な、何よ……。わたくしが出来ないとでも思ってるのかしら?」

 不敵な笑みが不気味に感じるも、挑発されているだけだとカレンは反発する。が、もしかして何か隠しているかもしれない。一度でも疑うと気になってしまい、ウルドに何を隠しているのか問いただそうとした。

「ねぇウルド、アナタ何か知ってるのね!?」

「あたしが何を知っているのか、そんなに気になるのー?」

 ウルドの態度が気に入らない。まるですべてを見透かしているようで、カレンの心に嫌悪感を刻みつける。元々相性が悪いのもあり、機嫌が急降下していった。

「き、気になんて……。ただ、アナタが何か隠してるのが気に入らないだけですわ」

「まっ、そういうことにしておくね」

「それで女神の雫の情報ってなんですの? 言っておきますけど、誰が持っているのかくらいは知ってますからね」

「そうですか、それなら話が早いね。あたしが知ってるのは女神の雫がある場所よ」

「そんなの言われるまでもないですわ。颯斗さんが身につけてるネックレスに決まってますもの」

 自信満々に答えるカレン。ネックレスだと確信しており、余裕の笑みを浮かべ勝ち誇っている。ウルドに一矢報いたと思い、心は爽やかな青空のように澄み渡る。

 抱いていた嫌悪感は忘却の彼方へ。

 完全に勝利を掴み取り、カレンは満足気であった。

「ふふふふ、カレンにしては面白いジョークでしたね。で、も、残念ながらそれは不正解なのよ」

「何よ不正解って。颯斗さんが女神の雫を持ってるのは間違いないはずよ。ですから、常時身につけてるモノとなると、ネックレスしかありませんわ」

「本当にそれだけだと思う? 颯斗とかいう人間が身につけているのは、本当にそのネックレスだけとでも?」

「そ、そうよ、それしかないはずよ」

 強気な態度に変化がない。それが逆にカレンを恐怖のドン底へ叩き落とす。ネックレスこそが女神の雫のはず。揺らぎない確信が大きくぐらつき、不安という大きな波となって襲いかかってくる。

 部屋中を探しても見つからなかった女神の雫。ならばあとはネックレスぐらいしか考えられない。それに颯斗本人も常に身につけていると断言していた。大丈夫、絶対に合っているはず。カレンは何度も自分に言い聞かせ、飲み込まれる前に不安の波から逃げ出した。

「まだまだ未熟ね、カレン。もっと大切なモノを見落としてるじゃないの。人間にとって一番大切な──そう、魂という存在をね」

「魂……? 魂が女神の雫だとでも言うのです? そんな、颯斗さんは間違いなく普通の人間ですわ」

「えぇ、颯斗が人間だというのは間違っていませんよ。違うのは……魂が女神の雫ではなく、女神の雫が魂に同化している、ということなのよ」

「それって……。回収するには颯斗さんの魂を奪うってことじゃないのっ!」

 予想だにしなかった真実がカレンの声を荒らげさせる。魂を奪うという意味は颯斗の命を奪うのと同じ。つまり任務を達成するには、颯斗を殺す必要があるという事だ。

「正解よ、カレン。大変よくできました。もちろん任務達成のためなら、人間ひとりの命ぐらい奪えるよね?」

「そんな……。わたくしが颯斗さんを殺すだなんて……」

 たった数日とはいえ、颯斗と過ごした時間は嫌いではない。むしろ好感さえ持てるほど。見ず知らずの自分が強引に颯斗の家に転がり込んでも、イヤな顔ひとつしない優しさ。それどころか可愛いとまで言われる始末だ。

 頭の中に居座る颯斗の笑顔。

 失うと考えただけで発狂しそうになる。

 心は容赦なく引き裂かれ、冷静さすら奪っていく。

 出来ない──全身が拒絶反応を起こし、カレンには颯斗を殺すなど出来なかった。

「そうよ、簡単でしょ? 人間なんて女神と比べたらちっぽけで弱い存在なんだから。それともまさか……天界の意思に背くつもりなの、カレン?」

「それは……」

 紅い瞳から放たれた冷たいオーラ。カレンの心に深く突き刺さり、継続的なダメージを与え続ける。天界の意思に背くのは女神として失格となる。かといって、颯斗を手にかけるのはもっと無理なこと。

 どちらが正解なのか、それとも他の道が存在するのか。混沌へと落ちる思考でカレンは答えを導き出そうとしていた。

「そんなこと出来るわけないよね。ほら、早く任務を果たしなさい」

「──きない、やっぱり颯斗さんを殺すだなんて、わたくしには出来ませんっ!」

「それが何を意味するのか分かってるの?」

「分かってます、それが反逆になることぐらい、分かっていますわ。だけどね、こんなわたくしを受け入れてくれた颯斗さんに手を出すだなんて、自分の信念に反するというものよ」

 信念というのはただの言い訳にすぎない。得体の知れぬ感情が颯斗を守り抜くと決めただけ。たとえ天界を敵に回そうとも、女神の力が失われたとしても、カレンは自分の正直な気持ちに従おうとした。

「それがアナタの答えなのね。そう、分かった、それなら上司であるこのあたくしが自ら颯斗を殺してあげる。部下の失態は上司の責任ですからね」

「──!? そんなの許しません、わたくしが止めてみせますわ」

「別にアナタの許可なんていらないの。さてと、こんなつまらない任務はさっさと片付けるとしますか。カレン、上司権限でアナタを拘束しますね」

 拒否したカレンにウルドは力を見せつける。冷酷な眼差しのまま片手をかざすと、一本の細い光の筋がカレンへと伸びていく。まさに一瞬の出来事。それはカレンの体にまとわりつき、完全に自由を奪ってしまった。

 反撃しようにも身動きがまったく取れない。

 顔から悔しさが滲みだし、ただウルドを鋭く睨むのが精一杯であった。

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