第15話 乙女の秘密

 一方、逃げ去ったカレンはというと──。

「こんなチャンス滅多にないわね。さっさと回収して天界に帰るとしましょう。……別に下界に未練なんてないですけど、ちょっとだけ寂しいかもしれませんね」

 いつもと口調が違い、同一人物にはまったく見えない。多重人格を疑うほどだが、実はこちらが本当のカレンである。颯斗達の前では偽りのカレンを演じているだけ。だがそこで疑問がひとつ生じる。なぜ偽る必要があるのかだ。

 答えは至ってシンプルなもの。

 天界や下界という言葉がすべてを物語る。

 何を隠そうカレンは、颯斗達と同じ人間ではなく正真正銘本物の女神であった。

 颯斗に近づいた目的は、天界から落ちてしまった女神の雫を回収するため。颯斗に近づいたのは任務であり、女神の雫がどこにあるのか探っていた。その場所が分かったのは颯斗とお風呂に入ったとき。いつも身につけているネックレスが女神の雫だと確信し、温泉に入るタイミングで回収しようとした。

「ダメよ、変な気を起こしては絶対にダメ。わたくしは任務で下界に来ているのですから、情に流されるなどあってはならないことよ」

 初めはすぐに奪って天界へ帰還するつもりだった。それが奪い去る機会を窺っているうちに、時間だけが無慈悲に過ぎてしまう。無駄な時間だとは思いつつ、颯斗の優しさに惹かれていたのも事実。しかも初めて言われた可愛いという言葉が、カレンの心を大きく揺らがしてくる。

 イヤなものではなく、むしろ心地よい感覚。

 その正体を知る術はなく、白いモヤに覆われたまま任務を遂行しようとしていた。

「迷いなんて捨てなければ。これが終わったら……わたくしは天界に帰るだけ。そう、ただそれだけなんですから」

 そう何度も言い聞かせ、本当の気持ちを心の底に沈める。止まっていた時間が動き出し、乙女にとって禁断の地である男性の脱衣場へと足を踏み入れた。狙うは颯斗の服が入っているカゴ。そこに目的のネックレスがあるはず。

 誰もいない事を願いながら、不審な動きで周囲を見回すカレン。どうやら他の客はいないらしく、その証拠に使用されているカゴは一つだけ。つまりそこが颯斗の使用しているカゴであると確信した。

「これね……。ここにわたくしの求める女神の雫があるのね」

 警戒心を解き放ったカレンは、堂々と整頓されている服を漁り出す。これで目的達成──しかし、巧妙な罠がカレンを待ち構えていた。

 男の服を手にしたのは初めてのこと。

 内側から聞こえる囁きに抗えず、何かに操られるようについ匂いを嗅いでしまう。その香りは理性を奪うほどに独特で、本来の目的さえ忘却の彼方へ葬り去るくらい夢中にさせた。

「これが男の人の匂い……悪くないわね。なんだか癖になりそうだわ。ダメ……やめたくてもやめられないわ」

「あの……。カレンさんは何をしてるんですか?」

「ひゃっ!? な、な、な、なんで颯斗さんがここに!」

 戸惑う颯斗の顔に動揺を隠せないカレン。慌てて服を元の場所へと戻すも、心音は激しいリズムを刻み続け止まる気配が見えない。背後からの声に驚いたのか、それとも服の匂いを嗅いでいるのを見られたからなのか。高鳴る鼓動の原因はカレンにも分からなかった。

「なんでって……。僕は外し忘れたネックレスを置きにきただけだよ」

「そ、そうなんだ。外し忘れね……。それじゃ用事も済んだし、カレンも温泉に入ろうかなっ」

「ここ、男の脱衣場なんだけど……」

「それくらい知ってるよっ。あっ、もしかしてカレンの着替えを覗きたいのかな?」

「……いやそれは興味ないんだけど、どうしてカレンさんがここにいるのかなって」

「もぅ、颯斗さんの照れ屋さんっ。乙女には秘密がつきものなんだよ。ちゃんと着替えてくるから、先に混浴で待っててね」

 一刻も早くこの場から消え去りたい。秘密という魔法の言葉で上手く誤魔化し、カレンは足早に颯斗の前からいなくなる。

 あまりの展開の早さに思考がついていけず、しばらく石像のように固まる颯斗。狐に包まれたような感覚に襲われ、動き出すのに数十秒もかかってしまう。深く考えるのはやめよう──颯斗は首を傾げながら混浴風呂へ戻っていった。


「なぁ、颯斗はん、ウチ、前から思っとったことがあるねん」

「その質問に答える前にもう少し離れた方が……」

「そんな細かいこと気にしたらダメだよ。それに湯着なんだから、照れることないよー」

 貸切状態の広い露天風呂で密着している颯斗達。湯着越しとはいえ、両腕に押し付けられる胸の感触は破壊力がありすぎる。平常心は瞬く間に失われ、茹で上がったタコのように真っ赤となる。

 跳ね上がった鼓動は温泉に波紋を描きそうなほど。

 この状況を誰にも見られないのが、せめてもの救いだと思う颯斗であった。

「わ、分かったから、このままでいいから、莉乃さんが思ってたことって何かな」

「あんな、ぶっちゃけ、颯斗はんってウチとおーたことない? 小学生とか中学生のときとか。なんちゅーか、ウチな、颯斗はんと初めてやない気がするねん」

「そうかなぁ、僕は全然記憶にないけど」

「懐かしいゆーか、一緒にいるとなんかホッとするねん。絶対にどこかでおーてるって」

 顔を近づけ颯斗に迫ってくる莉乃。確証はないが昔に会った事があると確信している。本能とでも言うべきか、記憶の断片に微かに覚えがあるのは確か。しかしそれがいつ頃なのかまでは思い出せず、霧の中をひとりで彷徨ってしまう。答えを見つけ出そうとしていると、美女二人からの密着に限界を感じた颯斗が話の流れを変えようとした。

「え、えっと、ふたりは僕のどこがいいと思ったの? 僕はずっとそこが気になってるんだよね」

 多少強引ではあるが、二人と距離を取るをため、颯斗はわざとらしく立ち上がる。その動きは誰が見ても不自然ではあるが、カレンと莉乃は全然気づく気配がない。なぜなら二人は、颯斗からの質問の答えを考えるのに夢中だったのだから……。

「んー、カレンはねぇ、最初に見たときに運命を感じたからだよ。もうこの人しかいない、みたいなー?」

「ウチは颯斗はんの優しさやな。一見すると冷たい態度やけど、実は優しいっちゅーギャップが好きやねん」

「そうなんだ……。僕自身はなんも取り柄がないと思うんだけどね」

「そんなことない! 颯斗はんは魅力だらけやないか。ウチには分かる、分かるで、颯斗はん自身も気づいてない魅力がなぁ」

「それって、例えばどういう魅力かな?」

 颯斗からの鋭いツッコミに莉乃は焦り始める。挙動不審な瞳の動きは動揺している証拠。すぐに返答する必要があるのは分かっている。だが真っ白なキャンバスには何も描かれていない。

 この程度の事で失敗するわけにもいかず、刹那の時間で莉乃は究極の答えを導き出した。

「はっ、そうや、そろそろ上がらんと、逆上せちゃうで。ちゅーわけで、ウチは先に上がらせてもらうで」

 逃げるが勝ち──これこそ最善の一手だと自負し、その場から立ち去っていく。一瞬の出来事であり、颯斗の思考はまったく追いつかず。キョトンとしたまま莉乃の後ろ姿を眺めるのが精一杯であった。

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