第10話 忘れていた力

 既成事実とは何を成し遂げればよいのか。今の莉乃にはその答えを出すだけで精一杯。莉乃はひとり部屋に籠り具体的な方法を模索中であった。

「既成事実……か。何したらいいんやろ」

 迷走どころか何も浮かんでこない。

 どうすれば言い逃れ出来ない状況を作れるのか。

 このままでは絵に描いた餅と同じ。何かきっかけさえあればと、周囲を見回す莉乃。その瞳に映り込んだのは運命とも思えるモノ。手に取った本に書いてあった方法なら、既成事実を作るのは造作もないと直感した。

 難易度はかなり低め。

 乗り越えるには羞恥心を捨てる必要がある。

 だが迷うことはない。目的達成のためなら、羞恥心ぐらい微々たるもの。あとはどういう流れでそこまで持っていくかだ。不自然ではなく自然な流れにしなければならない。でなければ、颯斗に罪悪感を植え付けることは不可能だ。

「キスとか、ウチ初めてやし……。ファーストキスが颯斗はんになるんやね」

 心境は複雑極まりない。大切なモノを捧げるのだから仕方がないこと。口にすると現実味を帯びてき、時間差で心拍数が跳ね上がってくる。固めたはずの決心が揺らぎ始め、優柔不断の沼へ足を踏み込んでしまった。

「うぅ……。今さらやけどキス以外の方法はないんかな。さすがに恥ずかしすぎるん。せやけど、颯斗はんに責任を取らせるって、ウチも何かしらリスクが必要やろうし」

 思考が迷走し同じ場所を何度も行き来する。進もうとしている道が正しいのか、それとも間違っているのか。いくら悩んでも答えにはたどり着けない。それどころか逆走してしまい、むしろ遠ざかっている感じがする。

 キスという手段に抵抗があるのも事実。

 ただ皮膚が接触するだけ。それこそ手を繋ぐのと同じはずが、唇となると心が拒絶反応を起こしてしまう。別に颯斗が嫌いなわけではない。かといって好きかと聞かれると微妙。しかしだ、婚約するのならキスぐらい出来ないと実現不可能と言ってもいい。

 傾きかけた決意を戻さなければ。

 未来を選べない以上、莉乃が取るべき道はひとつだけなのだから。

「迷ったらあかん、幸せを掴むためなんや。せやから……キスぐらいウチなら出来る」

 もう絶対に迷わない。赤く染まりそうになる顔を我慢し、莉乃は心に頑丈な鍵をかけた。


 奇妙な同棲生活は平和の繰り返しだった。危惧していたシズクの力も猛威を奮う気配すらない。あれは夢だったのか──そう思えるくらい静かであった。

 颯斗にとっての日常が始まり、相変わらずクラスの男子からは恨みの眼差しを向けられる。カレンだけでなく莉乃までも手玉に取っているのだから、その怨念は計り知れないほど大きかった。

「なんだか視線がいつも以上に痛い気がするよ」

「気にしすぎだよー。颯斗さんはカレンだけを見てればいいんだよ?」

「なんでそうなるんや。頭のネジが何本か外れてるんとちゃう?」

 カレンのボケという名の本気に対し、莉乃が鋭いツッコミを入れる。もはや日常風景に溶け込んでしまい、颯斗は華麗なスルーでやり過ごす。これは小さな幸せ。独りではないのがこんなにも嬉しいものなのか。颯斗の心は冷たさが和らいでいった。

 油断していたのかもしれない。

 シズクの言う関係する者の幸運を吸い尽くすという言葉。数週間という月日が流れてもカレンと莉乃に変化はない。だからこそ、心に出来た隙が悲劇への道標となっていた事に気づけなかった。

「珍しいわねー、鬼龍院くんが手伝ってくれるなんて。先生、嬉しすぎて涙が出そうよ」

「それは大袈裟すぎじゃないですか?」

 困っていた美人女性教師につい声をかけた颯斗。シズクの存在を忘れるほど、放って置けない気持ちが勝ってしまう。

 元は明るく優しさに溢れている性格。クラスでは嫌われ者だが、それは本当の颯斗を知らないだけ。もし事情を理解してくれていたら──きっとクラスの中心人物となっていただろう。

「だって、鬼龍院くんって誰にでも冷たかったじゃない? 神崎さんと鈴原さんは別だったけど」

「それはですね──」

 切実な理由があったから。そう言えればどれだけ楽なものか。だが、どれだけ必死に説明しようとも信じてくれないはず。そう思った瞬間、シズクの存在が強調され、再び颯斗の中に不安となって現れる。

 大丈夫、カレンと莉乃はなんともなかった。

 きっと気がつかないうちに力を失ったに違いない。

 急に湧き上がった不安をかき消すように、颯斗は何度も自分に言い聞かせ現実から目を背ける。何事もポジティブに考えればいい。シズクの力が発動しないのは、根気負けしてくれたのだと。突然心が軽くなり昔の自分が顔を覗かせていた。

「いいえ、なんでもありません。それでここの整理をすればいいんですよね?」

 資料室というほぼ誰も出入りしない部屋。中は電気をつけても薄暗く、目を細めないと奥まで見えないほど。普通の男子生徒なら、女性教師と二人っきりなど何か期待してしまうであろう。

 しかし颯斗は紳士であり、普通の生徒とは異なる存在。淫らな妄想は一切せず、真面目に女性教師を手伝おうとしていた。

「そうですよー。何人か声をかけたんですけど、誰も手伝ってくれなくて……」

「そうだったんですね。綺麗な女性の頼みを断るなんて、男としてどうかと思いますよ」

「ふぇっ!? き、綺麗」

 言われ慣れていない言葉に激しく動揺する女性教師。まだ二十代前半という若さも重なり、あらぬ妄想が脳内を駆け巡る。それは教師と生徒の禁断の恋。ドラマの見すぎと言えばそれまでだが、恋愛経験が少ない彼女にとっては刺激が強い。

 意識した途端に跳ね上がる心拍数。

 薄暗さが程よいスパイスとなり恋愛感情を刺激してくる。

 自分は教師だと何度も言い聞かせ、理性を必死に保とうとした。

「だ、ダメよ、鬼龍院くん。私と鬼龍院くんは教師と生徒なんだから。そ、それに今はまだ学校なんですよ」

「先生、何を言ってるんですか?」

 暴走寸前の女性教師に颯斗は沈着冷静だった。言葉の意味が理解できず、思考をフル回転させ答えを出そうとする。きっと何か意図があるはず。教師なのだから何かを教えようとしているに違いない。薄暗さの中で真剣な眼差しをしていると、それは容赦なく牙を剥き襲いかかってきた。

 古い本棚が意思でも持ったように動き出す。

 狙いは女性教師。その巨体で押し潰そうとしていた。

「何って……。だって鬼龍院くんは──」

「先生、危ない!」

 微かな音に気づいた颯斗が咄嗟に反応。女性教師に飛びつき本棚の直撃を免れる。間一髪と言ったところ。本棚は大きな音とホコリを巻き上げ、女性教師がいた場所に倒れ込んだ。

「先生、大丈夫ですか? ケガはしてませんか?」

「だ、大丈夫です……。ですけど、その、なんて言うか、鬼龍院くん、大胆すぎますよ。私は教師なんですから、あの、いきなり押し倒されても……困っちゃいます」

 必死すぎてまったく分からなかった。

 薄暗い部屋で男女が重なり合う光景。

 誰かにでも見られたら誤解されるのは確か。

 吐息が伝わるほど顔が近く、状況を理解した颯斗は慌てて女性教師の上から退いた。

「ご、ごめんなさい、わざとじゃないんです。本棚が倒れてきたので必死だったんです」

「そ、そっか、そうだったんですね。私はてっきり──ううん、なんでもありません」

 その先の言葉を口にしてはいけない。ようやく暴走が収まり、女性教師に冷静さが戻る。しかし異性に押し倒されたのは初めてのこと。冷静なのは事実だが、心拍数は部屋に響きそうなくらい大きかった。

 そんな女性教師の気持ちを知る由もなく、颯斗は本棚がなぜ倒れてきたのか考え込む。

 偶然にしては都合がよすぎる。

 もしかしたら、シズクの力が影響したのかもしれない。

 カレンと莉乃は無事なのに、女性教師だけに牙を剥いた理由が分からない。ただひとつ言えるのは、危機から救えたということ。仮にシズクの力が発動しようとも、救える可能性があるのに颯斗は安堵の表情を浮かべた。

「それじゃ、早く片付けちゃいましょうか」

 甘かったと言えばそれまで。完全に乗り切ったと思っていたが、それは慈悲すらなく襲いかかってくる。颯斗が立ち上がった瞬間、今度は銅像が音もなく倒れ込んできた。

 聞こえるのは重い音と女性の悲鳴のみ。

 嫌な予感がし振り向くと、銅像に足が挟まっている女性教師の姿が見えた。

「せ、先生、大丈夫ですか? 先生!」

 いくら呼びかけても反応がない。銅像も一人で動かすには重すぎる。颯斗は急いで助けを呼びに、部屋の外へ走っていった。

 女性教師は救急車で運ばれ、全治三ヶ月の骨折と診断される。命に別状がないのがせめてもの救い。どう考えてもシズクの力に違いない。カレンと莉乃との生活で緩みきったのが許せなく、颯斗は罪悪感に蝕まれていた。

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