第3話 幸福は長く続かない


『おかえりなさいませ、旦那様』

「うむ、帰って早々で悪いのだが、この少年──颯斗君を応接間へ案内してくれ」

「はい、では、わたくしが案内いたしますわ」

 颯斗の案内役に名乗り出たのはメイド服を着た若い女性。戸惑っている颯斗に優しく声をかけ、応接間までゆっくりとした足取りで歩き始める。

 心を穏やかにするメイドの笑顔。

 傷ついた心身を癒してくれる。

 不思議と体が自然に動き出し、颯斗はメイドのあとをついていった。

「ここが応接間になります。旦那様が来られるまでソファーに座ってお待ちくださいませ」

 規格外の大きさだった。応接間という部屋だけでも、颯斗の家の敷地ぐらいある。座り心地のよいソファーではリラックスできない。緊張で心拍数が跳ね上がり、つい落ち着きなく周囲を見回してしまう。不審な行動とは分かっていても、何かしていないと自分が自分でなくなりそうであった。

 颯斗の時間感覚で十数分、実際には数分だったが、旦那様と呼ばれていた男性が姿を現す。出会った時と変わらない優しい笑顔でソファーに座り、温かみのある声で颯斗に話しかけてきた。

「固まっているけど、驚いたのかい?」

「え、えぇ、まぁ……。鬼龍院さんはお金持ちだったのですね」

「はははは、一応そうなるかな。妻はいるんだが、諸事情で子どもがいなくてね。どうしても跡取りが欲しかったときに、テレビで颯斗君のインタビューを見かけて、キミしかいないと思ったんだ」

 座り方も美しくその姿はまるで貴族のよう。気品が全身から溢れ出ており、男性は穏やかな口調で養子にしたい理由を話し始めた。

「あの事故で両親を亡くした悲しみは私にも分かる。なにせ私たち夫婦も事故で息子を亡くしてるからね」

「そう……だったんですか」

「当時は相当塞ぎ込んでしまい、何もやる気が起きなかったんだ。でもね、いつまでも過去に縛られてはいけない、未来に向かって歩き続けなければと、夢の中で息子に言われたんだよ」

「未来に向かって……」

 今の颯斗は悲しみの沼に捕らわれ、過去から逃げ出せないでいた。それなのに、男性が放った未来という言葉が波紋のように心に広がっていく。

 忘却の彼方へと置き去りにした言葉。

 どこか懐かしく感じ、颯斗を絶望から救い出す。

 いつしか力が湧き上がり、前へ進もうと自ら悲しみの沼から脱出した。

「だからね颯斗君、どうか悲しみを乗り越えるため、私たちの養子になってくれないか? もちろん、両親のことを忘れろというわけではない。前に進んで歩きだすのが両親の想いではないだろうか?」

 鎖を断ち切るのは今しかない。颯斗の中から悲しみと迷いが消え、男性のお願いに誠意を持って答えようとしていた。

「……分かりました。僕は鬼龍院さんの養子になります」

「そうか、そうか。必要な手続きはすべて私に任せてくれ。学校もちゃんと行けるようにするからな」

「ありがとうございます、お義父さん……」

 満面の笑みを浮かべる義父。まるで失った息子が生き返ったような喜びを見せる。あまりにも嬉しすぎたのか瞳が微かに潤みだす。颯斗も照れくさそうに感謝の言葉を口にした。

 両親を失った悲しみは忘れない。

 しかし涙の海に溺れてはいない。

 勇気ある一歩で以前と同じ──いや、それ以上の生活が出来るようになった。

 天涯孤独で真っ暗な未来しかなかったはず。運命なのか、それとも幸運なのか、鬼龍院と名乗る男性と出会え、颯斗は新しい道を進もうとしていた。


 何不自由ない生活。絶望のドン底から這い上がった颯斗は、すんなりと幸福の頂きにたどり着く。味わった事のない料理や、初めて見る装飾品の数々が颯斗の心に満足感を与えた。

「お義父さん、お義母さん、おはようございます」

「おはよう、颯斗」

「おはよう、はや君」

 何気ない朝の挨拶がこんなにも嬉しいとは思わなかった。失ったモノは二度と返ってこないが、この小さな幸せは大切にしたい。いや、絶対に守ってみせると、颯斗は心に固く誓いを立てた。

「そうだ颯斗、今日、私たちは少し出かけてくるから、何かあれば使用人たちを遠慮なく頼るといい」

「はい、お義父さん」

 豪華な朝食に舌鼓を打つ光景は、まさに家族団欒の時間。

 普通の幸せ──この豪華すぎる生活を普通と呼べるかは別として、家族がいる喜びこそ颯斗の求めていたモノ。自分を愛してくれる人がいる。それだけで颯斗の心は満たされた。

 自分の部屋へ戻ったのは、朝食を食べ終えて数分後のこと。柔らかいソファーに座りリラックスしようとしていると、何者かの声がどこからともなく聞こえてくる。

 最初は気のせいだと思った。

 しかし幻聴なんかではなく、確実に近くで何者かが話している。周囲には誰も見当たらない。一体どこから……集中し出元を探していると、それは自らの脳内からであった。

『──やと、颯斗』

「だ、誰だ!?」

『ようやく気がつきましたのね。妾はシズク、そなたに幸運をもたらす者よ。その代償に、関係する人から幸運をすべて奪いますわ』

「ちょっと待ってよ、何を言ってるのか僕には全然分からないんだけど」

 シズクと名乗る得体の知れない者の声に、思考がついていけず混乱する颯斗。断片的な言葉が頭の中に浮かぶも、纏まる気配がまったくなく自由に駆け巡っている。次第にいくつもの疑問へと変化し、ついにら煙とともに思考が完全停止した。

『これだから人間は困るわ。仕方ない、親切な妾が丁寧に教えてあげますね』

「あ、ありがとうございます……」

『颯斗が森で空から降ってきたモノを拾ったでしょ? それが妾なのよ』

「えっ……。あの透明な石がそうなんですか」

『その通りですわ。天界での名は女神の雫、長いので地上ではシズクと名乗っていますの』

 そう、あの日、飛行機事故に遭った日、森で天から落ちてきたモノこそがシズクなのだ。

「この透明な石が女神の雫なのか……」

 あの大事故にあっても失わなかった女神の雫。

 きっと自分を守ってくれたと思い、ずっと大切に持っていた。

『えぇそうよ、大事に扱いなさいよ?』

「わ、分かりました……」

『少し脱線しましたが話を戻しますと、あの飛行機事故は、搭乗者全員の幸運を颯斗に与えた結果なのですわ。本当は颯斗に関わる者だけなんですけど、目覚めたばかりで加減が出来なかったのよ。もちろん、颯斗の意思に関係なく幸運を奪い去りますの』

「あの事故は僕のせい……?」

 衝撃の真実に颯斗の目の前は真っ暗となる。奇跡の生還などではなかった。他人の運気を吸い取り自分のモノとした結果、あの飛行機に搭乗していた全員がこの世界から消え去ってしまっただけ。

 颯斗ひとりを残して……。

 女神の雫は幸運のお守りではない。厄災を招く破滅への道標。自分だけが幸福になっても、身近な人が不幸になるなど絶望である。恐怖心が芽生えた颯斗は女神の雫を投げ捨てようとするも、声のトーンを下げたシズクによって簡単に阻止された。

『無駄ですわ。たとえ女神の雫を捨てたとしても、何も変わりませんことよ? むしろ悪化すると言った方が正しいかしらね』

「僕に選択肢はないのか……。はっ、それじゃ、お義父さんやお義母さんからも幸運を──」

『残念ですけど、そうなるわね。でもまだ日が浅いから、今すぐにということにはなりませんけど、時間が経てば必ずね? 何が起きるかは妾にも分かりませんの』

「天涯孤独になるのが僕の運命……。そ、そうだ、シズク、お願いだよ、せめて、高校に進学するまで力を止めることは出来ないの?」

 自分の運命を少しでも変えようと、颯斗は必死になってシズクに訴えでる。短時間でもいい、せっかく取り戻した幸福な時間を少しでも味わいたかった。

 この自分勝手な願望にシズクが出した答えとは──。

『いいわよ、ただし条件があるわ。女神の雫をペンダントみたいにして、常に身につけていることが条件よ。そしたら、颯斗の願いを叶えてあげる』

「いいですよ……。それくらいなら出来ます」

『それじゃ契約成立ね。さっそくですけど、契約の義を行いますわ。汝、いにしえの取り決めに従い我と契りを結ばん』

 突如現れた神々しい光。球体となり颯斗の目の前を浮遊し、時間とともに段々と小さくなっていく。大きさがビー玉くらいになった瞬間、それは颯斗の体内へ吸い込まれてしまった。

「いったい何が起きたんだ……」

『これで契約完了よ。約束は必ず守ってね? でないと──その瞳に映る者すべてから幸運を吸い取りますわ』

「契約……完了? それじゃこれで、高校進学まではお義父さんたちには何も起こらないんだねっ?」

『それは正確ではありませんわ。正しくは、妾が幸運を奪うということはない、ということよ』

 つまり他人から幸運を吸い取らないだけ。女神の雫が影響することはなく、元々持っている運に左右されるということ。事故や事件に巻き込まれる可能性は残っており、それは女神の雫とは関係がないのだ。

「それで十分だよ。ありがとう、シズク」

 契約のおかげで数ヶ月という短い期間ではあるが、束の間の幸せな時間を手に入れた。一日でも無駄にはしない、大切な思い出を宝物として颯斗は心に大事にしまった。

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