壊れそうな優しさのなかで
小鳥遊 澪
序章 - ネリネに託した微笑み
風のあとに、ひとひら、桜の花が地に降りた。コンクリートの隙間に、そっと触れるように。
その姿に、春の終わりがそっと輪郭を与えている。
都市の静脈のような通りを歩きながら、桜彩(さや)はふと足を止めた。行き交う人の流れに背を向け、夕映えに染まる街角を見渡す。理由はなかった。ただ、歩き続ける力が少しだけ薄れていただけだった。
アパートへと続く細道は、ビルの影に守られている。小さな公園のそば、わずかに残された木々が風に揺れ、葉のさざめきが耳の奥に届く。ここに暮らすようになって半年が経つ。特別なきっかけがあったわけではない。
ただ、誰も自分を知らない場所がほしかった――
名前を呼ばれず、記憶にも紐づかず、そうしてようやく呼吸できるような場所を。
部屋に戻ると、冷蔵庫の小さな稼働音が、空気の下層で淡く響いていた。この静けさに包まれていると、時折、なにかが胸の奥で震えるような気がする。けれど、それが哀しみなのか、安堵なのか、言葉に変わる前に、すっと消えていく。
感情の起伏は、随分前から失われていた。日々は穏やかで、無事で、けれど、まるで磨りガラス越しに眺める景色のようだった。人と話すときも、笑うときも、自分の内側にある脚本に従っているような感覚。
“こういう場面では微笑むのが自然”
“この話題には共感を添えるのが正解”
そうして出来あがった「さや」としての人格が、今日も何事もなかったかのように暮らしている。
それでも、今日、ひとつだけ心に引っかかるものがあった。帰り道、花壇の端に咲いていた白いアルメリア。見慣れた花だったのに、その白さが、どうしようもなく澄んで見えた。ただそれだけのことに、なぜか小さな痛みが生まれた。
感情が戻ってきているのだろうか。それとも、ただの錯覚だろうか。
答えは出ないまま、夜の帳が、音もなく街を包んでいく。
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