膨らむ風船とコーヒーの香り

京野 薫

無くした私を探すため(1)

 私、仙道せんどうあゆみにとって、職場やスポーツジムの更衣室が苦痛と不安をもたらす場になったのはいつからだろう?


 いや、わかりきっている。

 一年前のあの日に決まっている。


 私は、仕事が終わるといつも更衣室に一番乗り出来るようにするか、そうで無ければ最後の方に入るようにわざと残業する。

 他の女子社員と一緒に着替えたくないからだ。


 今日も定時ピッタリにIDカードを当てると、一番に更衣室に入った。

 良かった……誰も居ない。

 私はホッとして、素早く制服を脱いだが次の瞬間賑やかな笑い声と共にドアが開き、私は思わず胸元を隠した。


 ああ……こんな事したら余計に……

 入ってきた子達は私を見ると軽く会釈をして、またこの後の合コンの事を楽しそうに話し始めた。

 それにホッとした自分が惨めになり、ホッとため息をつく。


 そして、自分のブラジャーを見て、向こう側の子達にチラッと視線を向けると、出来るだけさりげなくブラの右胸に手を入れて中のパッドを直すが、慌てていたのだろうか。

 つかみ損ねてパッドがズレてしまった。

 そして目に飛び込んだ……右胸。


 決して大きくはないが綺麗な形の左の乳房。

 それに対して、右側は……

 胸の中心から脇の下にかけて醜く走る赤い傷跡。

 そして、まるで男性のような……平坦な胸と吐き気を催すような手術跡。


 一年前。

 私は右の乳管がんの告知を受けた。

 そして、命を取るか右の乳房を取るかを迫られ、命を選んだ。


 当然だ。

 当時、付き合って半年になる彼氏もいたし、大好きなウェブ小説だって書きたい作品は沢山有る。

 特に大きくもない乳房と引き換えになんて出来るわけが無い。


 そう思い縋る思いで右乳房全摘手術を受けた。

 それからの身体的症状は、胸と脇に鉄板が入っているような違和感とホットフラッシュ。

 右胸の部分の慢性的な違和感。


 でもそんな事は些細なことなんだと私はすぐに思い知らされた。


 私は右胸を見てしまって、思わず眉をひそめると左胸に目をやり、ブラの中に手を入れるとそっと左の乳房を掴む。

 その柔らかさと身体に伝わる温もりにホッとして息をつく。

 大丈夫。

 私は……女の子だ。

 普通の26才の女の子だ。


「あ、香奈ってまたデカくなってない! 豊胸した?」


「んな訳無いでしょ! 彼氏との共同作業だって!」


「うわあ……マジで女捨ててない? 早くこっち側に来てよ!」


「ヤダ、絶対やだ! ってか有美こそ貧乳すぎ! そっちが女捨ててるじゃん」


「うるさい!」


 女子更衣室ならではの、男子の前ではおくびにも出さないであろう卑猥な冗談に笑う声、声、声。

 私は軽い頭痛を覚えて、手早く着替えると無言で更衣室を出た。


 女を捨ててない? か。

 私は疑問形でなく捨てて……いや、捨てさせられたのに。


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


 オフィスを出ると、11月の空気が容赦なく刺さる。

 今夜は何食べようかな……鍋とかいいかも。


 そんな事を考えながら前を向いて歩く。

 この季節はあまり周りを見たくない。

 なぜならカップルばかり目に入るからだ。


 当時付き合っていた彼氏……

 お別れは手術前の私には到底思いも出来ない形だった。


 手術が終わってから二ヶ月後。

 傷の痛みも癒えて来て、以前のように遊びに行く元気も戻って来た私を彼氏……とおるは毎週のようにデートに誘ってくれた。

 それは楽しくて嬉しくて、朴訥だけど優しい透との時間は手術の苦痛を、暖かいお日様のように溶かしてくれるようだった。


 そんなある日のデートの後。

 彼の車の中でキスをした私に、透は緊張しきった様子で……もっと一緒に居たい、と告げた。その意味が分かった私は躊躇した。

 彼が嫌だったのではない。

 むしろ、彼と結ばれる時間を待ち望んでいた。


 でも……


「右胸の事? 大丈夫だよ。どんな風だってあゆみはあゆみだから。僕は君が丸ごと好きなんだ」


 その言葉に私の不安はじんわりとほぐれていった。

 この人なら……そうだ、透なら受け入れてくれる。

 右胸の傷も……醜い姿も。


 私ははにかむように笑うとポツリと言った。


「ありがとう。えっと……優しくして……欲しいな」


 そして入ったホテルの部屋。

 その景色はきっと一生忘れない。


 シャワーを浴びて、薄暗くなった部屋。

 仰向けになる私。

 透のどこか荒い息づかい。


 私の心臓が鳴り響いているのは、恥ずかしさだけじゃない。

 大丈夫。

 この人とだったら……

 私は目をギュッと閉じたままそう何度も考えた。


 そして彼の手が私のバスローブをめくった時。

 息を呑む音。

 止まる手。


 私はダメだ、と思いながらも目を開けると、そこに見えたのは……強ばっている透の表情だった。

 視線は私の右胸にある。


 私は心臓が誰かに握られたように苦しくなって、真っ白になりそうな意識と共に両胸を隠してうつ伏せになった。

 それを見て彼はしまった、と思ったのだろう。


「いや……違うよ、凄く綺麗だ……って思って。だから、大丈夫」


 彼はそう言って私の背中に抱きついてきた。

 大丈夫? 

 大丈夫って……何が?

 その言葉を聞いて私はどうしようも無く泣きたくなった。

 惨めで寂しくて、怖くて……


「ごめんね……今日は……ごめんなさい」


 自分の声が天井から降りてるようだ。

 その直後、透の戸惑ったような声が聞こえた。


「え……いや、ゴメン。ここまで来て……無理かも……」


 黙ってかぶりを振る私の背中に抱きついたまま彼は言う。


「さっきは本当にゴメン。あゆみの事を本当に愛してる。愛してるから……一緒になりたいんだ。出来ずに帰るのは無理だよ。僕も……初めてで、今日をずっと待ってたんだ」


 その悲痛な言葉に私はゆっくりと彼を向いた。

 私の大好きな……大切な人。

 ……そうだよね。

 私も……頑張らないと。


「あの……手とか……お口じゃだめ、かな」


「それは……」


「じゃあ……うつ伏せになるから、後ろからだったら……頑張るから」


「ゴメン……そんなの……したことない。それに、あゆみの顔を見ながらしたいんだ。それにさ、僕は彼氏だろ? 頑張るって……なんだよ」


「ごめん……そうじゃないよ……えっと、そうじゃなくて……胸を見ない格好ならって……」


 必死に話す私の耳に透の苛立ちを含んだ声が刺さった。


「……もういい。僕の方が……無理」


「無理って……なんで?」


「そんなの男に言わせないでくれるかな? もういいよ、帰ろう」


 そう言うと透はベッドから出て、そそくさと着替え始めた。

 そしてポツリと言った。


「そんなに嫌なら……元の形に戻せよ。手術とかで」


 その翌日、彼からの別れを告げるラインで私の恋は終わった。

 そして女としての私も終わった気が……した。


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


 嫌なこと、思い出した……

 私はほっとため息をつくと、やたら目に付くカップル達から目を逸らして、帰りを急いだ。


 今日はお鍋にしよう。

 大好きなつみれとか白菜、沢山入れるんだ。

 そうだ、チョコレートとかも買ってやれ!


 私は遅くまで開いているスーパーに入ると鶏肉や白菜、お菓子やアイスクリームをカゴ1杯に買い込んだ。

 そして、両手1杯に持つとその重さにたちまち後悔する。


 ああ……何やってんだろ、私。

 こんな時、彼氏とかいたらな……

 マッチングアプリとかやってみよう……でも……どうせ。


 そんな事を思いながらどんよりした気分になっていると、突然後ろから肩を叩かれてビックリして振り返った。

 するとそこに居たのはニコニコと笑う、妹の沙織さおりが立っていた。


「どうしたのお姉ちゃん。そんな大荷物……鍋パでもやるの?」


「そうじゃないけど……ちょっとやけ食いでも、と」


「やけって……どうせまた透のバカの事思い出したんでしょ。冬ってなぜかカップルが異常繁殖するもんね」


「彼はバカじゃないよ。私が悪いんだから……」


「お姉ちゃん、悪くないじゃん」


「もうその話はいいよ。丁度良かった。これからヒマ? 一緒に鍋食べようよ。買いすぎちゃった」


 そう言うと沙織はクスクス笑いながら言った。


「そんなん見りゃ分かるよ。私もお姉ちゃんに用があったから丁度良かったよ」


「へ? なんなの? 用って……」


「ここでしゃべってもいい?」


「いいよ、これ持ってくれたらね……っと、はい!」


「重っ! じゃあ言うけどさ、お姉ちゃんって住み込みでカフェのマスターする気ない?」


「へ? 何、それ!」


「だからカフェの住み込みだって。私の大学時代の友達がおじいちゃんのやってた古民家風カフェを受け継いだんだけど、そいつとそいつの妹さん、揃ってズボラでお店がエラいことになってんの。だから、二人の生活の面倒も見ながら、カフェマスターしてくれる人を探してたの。お姉ちゃんって、高校大学とずっとカフェでバイトしてたでしょ?」


「いや……でも……お仕事が」


「住み込みで家賃も食費もタダってアイツは言ってたよ。しかも毎月お給料も出すって。しかも! こんなゴミゴミした街じゃなく、郊外の閑静な場所にポツンとあるし」


「それって……田舎って事?」


「でも、少なくとも……色んな鬱陶しい事はポイ! って出来るんじゃない?」


 その言葉に私はハッとした。

 そうだ。

 乳房を失ってから、ずっと居心地の悪いことばっかり……

 いっそ環境を変えるのも……


 そうだ。

 何よりもこの街は透との思い出が多すぎる。

 どこのカフェに行っても、どこのショッピングモールや映画館に行っても……どこでも透との時間が浮かぶ。

 それに……この街で私は右の胸を失った。


 私は無意識に左の乳房に触れた。

 その感触を感じながら、ポツリと言った。


「面接とかって……いつ?」


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


 面接も無しにいきなり来いって……控えめに言ってどうかしてる。


 沙織の友達……女子のくせに、自分たちと生活する相手もぶっつけ本番って、イカれてるよ。

 私は待ち合わせ場所となっている駅のロータリーに立ったまま、周囲を見回した。


 待ち合わせ時間は14時。

 今は……14時半。


 ……ありえない。

 普通、最低でも五分前でしょ!


 女子とは思えないズボラぶり……だから、私みたいなのが必要なのか。

 わざわざ給料まで出して……


 でも、ここは人が少ない。

 人が少ないのは……嬉しい。

 周囲の女性を見なくて済む。


 まあ、住み込む先の子達は仕方ない。

 そこは割り切ろう。

 立派なカフェマスターになって、大家さん達を助けながら一人でお店を切り回せるようになったら、きっと……一人で生きていけるようになる。


 もう私には恋はいらない。

 恋も……女性の自分も……どっちもいらない。

 ただのカフェマスターになるんだ。


 そう思いながら、表情を引き締めたとき。

 耳にクラクションが飛び込んできて、飛び上がりそうになった。


 へ、へええ!?


 驚いて音の方に目を向けると、そこにはアチコチ汚れた緑のジムニーが止まっていた。

 女子にしては中々ワイルドな……


 そう思っていると後ろのドアが開いて、中から女の子が降りてきて私の方に駈けだしてきた

 。

 そして、私の前に来るとニコニコ笑いながら言う。


「仙道あゆみさん、ですか?」


「あ……はい」


 すると、目の前の白のワンピースを着た少女は笑顔のまま言った。


「初めまして! 私、荒井静香あらいしずかって言います。高校二年生です。今後ともよろしくお願いします」


 そう言って丁寧に頭を下げるその様子から、どう見てもズボラな感じはしない。

 むしろ生粋のお嬢様、って感じ……


「あ、ちなみに彼氏はいません。私、面食いだし。だからお兄ちゃんひとすじです!」


 お兄ちゃんひとすじね……へえ!? 


「え! お兄ちゃんって……ひとすじ?」


「あ、でも手は出さないのでご安心を。私、分別はありますので。それにそんな事したらお兄ちゃんに嫌われちゃう。あくまで私にとって鑑賞物なので」


 鑑賞物って……それってブラコン……って、へええ!?


「お兄ちゃん!? え? あれ? 姉妹じゃないの?」


「へ? 沙織さん、言ってなかったんですか! 兄ですって!」


 いや……確認しなかった私が悪い。

 だって……普通姉妹と思うじゃん……って、思わないか、とほ。

 ヤバい……トラウマが……急に怖くなって……


 その時。

 車の方から低くて良く響く声が聞こえた。


「ねえ、俺にも挨拶させてくれない? で、早く店に行こうよ。腹も減ったしさ」


 やっぱり男だ!?


 私は恐る恐る声の方に顔を向けると、思わず目を見開いてその場に立ち止まった。

 車から顔を覗かせてたのは、まるで韓国アイドルの様な……って、小説書いてる割になんて貧困な語彙……でも、そうとしか言えない、綺麗で整った顔立ちの男性が仏頂面で私を見ていた。


 私は途端に緊張して、身体が強ばってしまう。

 あんなイケメンの前に……私みたいなのが……

 普通の女子じゃ……ないの……に。


「さ、行きましょう。お店にご案内します」


 そう言って静香ちゃんに手を引かれて助手席に座らされると、彼は名前も名乗らずに車を走らせた。


「あ……あの……仙道あゆみ……です。今後ともよろし……く」


「え? ああ……よろしくお願いします。俺は荒井秋信あらいあきのぶです。所で、仙道さん可愛いですね。言われません?」


「え!? い、いえ……特には……」


「嘘だ~! なんかホッとするような愛嬌ある感じだし、絶対彼氏さんとか居ますよね」


 その言葉に私は胸がチクリと痛んだ。

 そう。

 前はそうだった……


 黙っている私に秋信さんはさりげない感じで言った。


「あ、でも服のセンスは良くないから直した方がいいですよ。良かったら俺と静香でコーチしましょうか? なにせ、俺らの店のマスターになるし、ダサダサは困るんで」


 セ……センスって……

 私は信じられない気持ちで隣の男を見た。

 いくらイケメンでも……イケボでも……気にしてるのに!


 私は秋信と言う男を視線で殺せるなら、何回か殺してるくらいに睨み付けた。

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