『続』の章(六)

 ごくりと喉が鳴る。

 ここで「その先輩は羽花無百合姫はかなしゆりひめという先輩ですか」と。

 ドキドキした。

 膝に台本『百合色サロメ』を置いている。目を瞑り、微笑み、まるでサクラの言葉を胸に刻んでいるようで、

「えっと」

「センセイも肝試ししちゃおうかな!」

「はい?」

 先ほどの雰囲気を変えてサクラは両手を上げて伸び、スーツの下に来ているシャツが伸びる。はあという声とともにサクラはねねを見て笑った。

「もう今日の当直、わたしなんだよね! 立候補しちゃったよ」

 それは『裏田さん』を見つけるためですか、それともなくなってしまった『隠しさん』を探すためですか。聞けなくて、ねねは泣きそうになる。

 サクラは、ずっと先輩を探していた。

 もしかしたら百合姫かもしれない。

 聞けなくて、唇を噛む。

「いいのよ。いいの、ねね」

 伏せていた目は、ねねを見て微笑んでいた。

 この位置ならサクラにも聞こえるというのに。サクラは聞いている動作はしない。

「夜波?」

「いいえ、なんでもないです」

 少し、苦しい。

 百合姫はサクラが、自分のことを探している後輩であることをねねには言っていないが、百合姫の「いいの」は優しさが込められていた。

「……わたしも、わたしも肝試し、します!」

「お、やるか」

「『裏田さん』を探します!」

 堂々と宣言したところで、

「おはようございまーす」と奴井田ぬいだ部長が入ってきて、びくっと肩が弾む。

「あれ、先生と夜波。二人とも早いですね」

「お、おはようございます! 部長!」

 隠すように声を張り上げて返事をすると、もう着替え終えている部長は笑う。

「熱心だよな、夜波は。今度、台本読みで主役やってみるか?」

 部活には発声練習の他に「台本読み」というのがある。

 壇上に上がって、身振り手振りで台本を持ちながら動き、腹から声を出す。主に主役や準主役に敵役は経験豊富な三年と二年がやる。一年は端役をやり、一つの演劇をするのだ。

「わ、わたしがですか!?」

「おーいいね」

 それに賛成したサクラは、奴井田ぬいだに「経験が一番だからなあ」と言う。

「やりたいヤツとかある? というか一年には、昔の台本を見せてないか」

「あ」

 ねねは、ぐっと身体に力を込める。ここで『百合色サロメ』と言ったらサクラも百合姫もどんな顔をするだろうか。

 でも、とても演じてみたかった。

 二人の思い出を、今ここで、もう一度。

「前に、ちょっと覗いたことがあって……『百合色サロメ』っていう台本を見つけて、それをやりたいです」

 この言葉に奴井田ぬいだが驚いた顔をして、それ以上にサクラと百合姫が驚いていた。

「お前、そんな古い方まで見たのか?」

「ぐ、偶然、見つけたんです。綺麗なタイトルだし、中は読まなかったんですけど」

 んん、と奴井田ぬいだは荷物を置きながら考えている。

「あれ、古い台本だから演じるにも読み込むのに時間がかかるんだよな」

「部長、見たことあるんですか?」

 まるで知っているかのようで、奴井田ぬいだは腰に手をやりながら言う。

「一年の頃、あんまりも演劇に関われなくていじけてた時に見つけたんだよ。裏にある台本のほとんどは読んだ……なあ、夜波、お前もそんな感じか」

 二、三年中心になっちまうからなあ、と奴井田ぬいだは言って肩をぐるぐると回す。

「わたしは、わたしもそんな感じです」

 ねねの言葉に、ふふと笑ったのは百合姫だった。

 笑いを抑えられないのか、手で口を隠して「ふふふ、ふ、ふ」と笑う。

「夜波にサロメかチェリか」

 横からサクラの声が聞こえて、そちらに顔を向ける。

「あれは上級者向けだぞ。人数も必要だし、なにしろサロメとチェリの息の合った掛け合いがキモだ」

亜鈴柀ありすぎ先生の言う通り。かなりカロリーを消耗する演目だしなあ」

 サクラから奴井田ぬいだに言われて、そうなのか、と椅子に座る百合姫を見る。

 笑いが収まっているようで、百合姫はにこにこ笑いながら読んでいた『百合色サロメ』の表紙をこちらに見せている。

 表紙は、二人の女性が背を合わせて立ち、どこか寂しそうな顔をした絵だ。

「あ、でも端役も多いし、一年にはいい経験か?」

 サクラは首を傾けながら言う。

「でも、サロメとチェリはダブル主人公ですよ」と奴井田ぬいだが言う。

 ねねは表紙だけしか知らないせいで二人の会話についていけない。

 百合姫が好んで読んでいたので、興味があるのとサクラの『執着』に押されて、やってみたいと口にしたのだが、少し大事になっていて焦る。

「えっと、えっと、やれたらっていうだけで、その」

 言い訳を考えつつ、二人の会話を遮る努力をしたが、

「そういえば先生の時代の台本ですよね? なら久しぶりにやってみるのはどうですか」

「えーわたしかー」

 奴井田ぬいだの声にサクラは笑う。

「わたしはチェリしかやったことがないんだよ」

「そうなんですか?」

「脚本を書いた男子がサロメは羽花無百合姫はかなしゆりひめだ、て言って。でチェリは亜鈴柀ありすぎでって名指しだったんだ」

 準備運動をする奴井田ぬいだを見ながら、百合姫の名前が出て、どきりとする。

 やっぱり、サクラが探しているのは百合姫だ。

「へえ、その百合姫先輩は演技が上手かったんですか?」

 サクラが笑いながら、

「そうそう。周りを圧倒するぐらい。綺麗な人でね。長い髪がカーテンのように揺れて。身体全体で役になりきる人だった。あれだよ、憑依型ってやつかな」

 長い髪? と聞いて、ねねは百合姫を見る。座る百合姫の髪は肩より上ぐらいしかない。

 不思議に思っていると、

「演目は保留にして、夜波、着替えてこい」

 あっ、と自分が制服のままなのに気づいて「失礼します!」と部室から出る。

 そのあとの会話は知らないが、どんどん部員が集まってきたのとサクラが奴井田ぬいだに任せていなくなってしまったことで、しょんぼりと俯く。

 しかし、

「夜波ー」

 部活終わりに声をかけられ、奴井田ぬいだから『百合色サロメ』の台本を渡された。

「あっ、でも」

「見ただけって言っただろ。まずは読んで見ろ」

「は、はい!」

 百合姫が表紙を見せてくれたように二人の女性が背中合わせで立っている。

「やるかどうかは別にして、勉強にもなるし、とりあえず、な」

「はい」

 なぜか喜びが胸に満ちる。たぶん、百合姫と同じステージに立てたような気がしたからだ。毎日とは言わず、百合姫が大事そうに読む本を自分も見られるのだ。

「返却はいつでもいい。それに探し出してくれたのは亜鈴柀ありすぎ先生だから、お礼、言っとけよ」

「はい」

 大事に抱きしめながら頷くと、奴井田ぬいだは満足そうに笑って三年の輪の中に入っていった。

 サロメとチェリという二人の女性が出てくる不思議な脚本。

 そして、百合姫とサクラの脚本でもある。

 思い出が、そこにあるのだ。

 随分と眺めていると、目の前に百合姫がいて、びくっと「ひゃ」と小さく声が出る。

「いろいろバレちゃったわね」

 百合姫は台本を見ながら目を細める。

「でも、途中から百合姫先輩って、て思ってました。部活の様子やあまちゃんの反応も変だったし」

 あごを引いて上目遣いになった百合姫の綺麗な顔と言ったら、どんな植物で例えよう。やはり名前にも入っている百合だろうか。白い肌に大きな瞳、赤い唇は、この世の人とは思えない。

「ま、とりあえず。今日の肝試しは私とねねとサクラだわ」

 驚きでぽかんとしていると、

「お、まだ夜波いたわ。よかった。今日の十九時くらいな。非常口は開けとくから、そのまま当直室に来いよ」とサクラに言われて、

「はへえ」

 口から変な音が出て「もうしないって、言ったのに」と心の中で呟いた。

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