第9話:Hearts and Bones


「フィーリン・グルービー」の店内には、朝の光が差し込み、穏やかな時間が流れていた。


マスターはカウンターの奥で、いつものように黙々と豆の選別を行っている。

ひよりは、店の入り口に飾られた小さな花瓶の水を替えたあと、ブレンドコーヒーを自分でいれて飲んでみる。


【ひより】「マスター、今日のブレンド、いつもよりちょっとコクがある気がします!何か変えました?」


マスターは顔を上げず、小さな頷きを返すだけだ。


【ひより】「私が後継ぎになるかもしれないんだし、少しくらい教えてくれてもいいじゃないですか!」


そんな彼らのやりとりの最中、喫茶店のドアが「カランコロン」と軽い音を立てて開いた。

一人の男性が入ってくる。

いかにもテクノロジーに詳しそうな雰囲気の人物だ。

その手には、タブレット型の端末が握られている。


【男性】「こんにちは。こちらの店は、マスターのこだわりが深いと伺いました。今日は、ぜひ革命的なローストマシンをご紹介したく…」


男性は、そう言って、最新式の自動ロースト機のパンフレットを広げた。


【男性】「これは、今話題の当社が開発した、AI搭載の全自動ロースト機です。AIがチョイスした複数の豆の個性を瞬時に解析し、完璧なブレンドとローストプロファイルを導き出し、焙煎から冷却まで全てを自動で行います。熟練の職人技を凌駕する、まさに『未来の焙煎』を実現するマシンですよ!」


男性は自信満々に語った。

彼は、このマシンで焙煎したというサンプルのブレンド豆を差し出し、マスターにもその豆でコーヒーを淹れてみてほしいと依頼する。


ひよりは興味津々といった様子で、そのパンフレットと豆を覗き込んだ。


マスターは無言で豆の袋を受け取り、いつものように準備を始めた。

まずは男性が持参したAIローストの豆を丁寧に挽き、ドリップを始めた。


その間も男性は、AIによる焙煎技術がいかに優れているか、このマシンがあれば熟練の焙煎士は不要になると熱心に語り続けている。

ひよりは、どこか居心地の悪そうな顔で、その話を聞いていた。


そして、淹れたてのコーヒーが、シンプルな白いカップに注がれ、男性の前に差し出された。

男性は一口飲むと、驚いたように目を見開いた。


【男性】「……これは、すごい!うちのAIローストもすごいですが、この抽出は完璧だ!雑味が一切なく、香りと味が完全に調和している。まさしく理想の味だ!」


男性は興奮した様子でカップを握りしめている。

マスターは、男性の反応に無言で頷くと、自分用のカップにも同じコーヒーを淹れ、静かに一口飲んだ。


【マスター】「ええ。確かにこのローストはよくできています」


マスターは、珍しくそう評価した。

しかし、彼の表情には、どこか複雑な色が見える。


【マスター】「このコーヒーは、確かにローストもブレンドも『完璧』でしょう。しかし、ブレンドコーヒーには、豆の個性や比率だけでなく、『誰が、どういう意図を持ってブレンドするか』が、その本質を決めることがあります」


マスターは続ける。


【マスター】「例えば、ユダヤ教の食事規定『ハラーハー』のように、ただ材料を混ぜるだけでなく、その過程や意図、調理する人に深い意味が込められる。コーヒーのブレンドやローストも同じです。どんなに優れた豆を、どんなに完璧な比率で混ぜ合わせて焙煎しても、そこに『誰かの想い』や『店としての哲学』がなければ、それはただの効率的な製造に過ぎない」


マスターは、男性のカップとは別に、自身が淹れたいつものブレンドコーヒーをもう一杯、男性の隣に置いた。


【マスター】「このAIが作ったコーヒーは、確かに美味しい。だが、うちの店の味ではない。私たち人間の手で、時に不完全であっても、心を込めて生み出す一杯には、数字では測れない『魂』が宿るものです。それこそが、ブレンドの『ハーツ・アンド・ボーンズ』、つまり核となる部分なのです」


男性は、マスターの言葉に考え込むように黙り込んだ。

彼はそれでも負けじと自社のロースト機を熱心に勧めた後、店を後にした。


【ひより】「マスター、今日のAIコーヒー、そんなに美味しかったんですね!でも、マスターの言う通り、うちの店の味はやっぱりマスターの温かさがこもってるから!」


ひよりはマスターの信念に感心してそう言ったが、マスターは何も答えず、いつものようにグラスを磨き始めた。

その背中には、どこか悔しげな、しかし揺るぎないプライドが感じられる。


それからしばらくしたある日のこと。

店を閉めて、ひよりが帰路についた頃、マスターは誰もいない店内で、棚の奥から新しいローストマシンを取り出した。


それは、先日セールスマンが紹介していった最新のAIロースト機だ。

マスターは、手慣れた様子でエチオピア産のモカ豆を機械に投入し、静かにスイッチを入れた。

ロースト機が静かに稼働を始め、豆が焼ける香ばしい匂いが店内に満ちていく。


【マスター】「……ちっ、やはりモカはこれで焙煎するのが一番だな。これなら、ひよりにも焙煎を任せられるしな」


マスターの心の声は、一人きりの喫茶店でふと口から溢れ出ていた。

その口元には、ほのかな笑みが浮かんでいた。


(第9話 終)

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