第3話:50 Ways to Leave Your Lover


午後の「フィーリン・グルービー」には、陽光が穏やかに差し込み、心地よい時間が流れていた。

ランチの喧騒も遠のき、静かな店内に、カップとソーサーが触れ合うかすかな音が響く。


ひよりは、カウンターに置き忘れられたゴシップ雑誌を手に取り、眉をひそめた。


【ひより】「マスター、最近、別れ話の相談が多いですね。みんな、どうしたらいいか迷ってるみたいで。ほら、この記事も『恋人との別れ方、50のヒント』だって」


マスターは何も言わず、黙々とカウンターを拭いている。

その無言の背中に、ひよりは呆れたような声を上げた。


【ひより】「もう、マスターはそういう話には興味ないんだから!人の恋路なんてどうでもいいって顔してる」


その時、喫茶店のドアが「カランコロン」と鳴り、一人の若い女性客が入ってきた。


彼女の顔には、長年の悩みが色濃く刻まれているかのように、諦めと疲労が滲んでいる。

まさに、別れを決意できずにいる様子の若い女性だった。


【女性】「こんにちは……」


力なく挨拶する彼女は、ひよりの案内でテーブルに座ると、深いため息をついた。


【女性】「あの……深煎りのコーヒーをお願いします。苦い方が、今の私にはしっくりくるんです」


ひよりがオーダーを受け、マスターへと伝える。


そのあと、ひよりはお節介で女性と世間話を始めていた。

女性も溜まっていた思いを吐き出す先を探していたのだろう。

ひよりに打ち明け始めた。


どうやら女性は、長年付き合った恋人との関係に終止符を打ちたいのだが、別れる勇気がなく、毎日のように同じ悩みを友人に打ち明けているという。

どうすればきっぱりと縁を切れるのか、その答えを見つけられずにいるのだった。


マスターは、いつものようにゆっくりと、しかし淀みない手つきで深煎りのコーヒーを淹れている。

豆が膨らみ、湯気が立ち上り、芳醇な香りが店内に広がる。


淹れたての深煎りコーヒーを、マスターはまず薄手の陶器のカップに丁寧に注いだ。そして、さらにもう一つの厚手のマグカップにも、同じコーヒーを注ぎ入れる。


二つのカップを女性の前に並べ、静かに語りかけた。


【マスター】「お客様。こちらの二つのカップ、同じ豆、同じ淹れ方でございます。どうぞ、飲み比べてみてください」


女性は訝しげに二つのカップを見つめ、まず薄手のカップから一口。

次に厚手のマグカップから一口。

彼女の目に、驚きの色が広がった。


【女性】「……全然違う!同じコーヒーなのに、こっち(薄手のカップ)は香りがふわっと立って、酸味がはっきりするのに、こっち(厚手のマグカップ)は、味がまろやかで、コクが深く感じる……!」


マスターは、先ほどの話を聞いていたかのように、静かに語り続ける。


【マスター】「ええ。同じコーヒー豆、同じ淹れ方でも、カップの形や厚み一つで、そのコーヒーの味わいは大きく変わるものです。薄いカップは香りが立ちやすく繊細な味を感じやすい。厚いカップは保温性が高く、味がしっかりと感じられます。それはまるで、あなたが誰と、どんな関係性でいるかによって、あなた自身の感じ方や、周囲への見え方が変わるように」


言葉を選びながら、マスターは続けた。


【マスター】「恋人の関係もまた、コーヒーとカップのようなものです。今の関係が、あなたのコーヒーの本来の味を覆い隠してしまっているのなら、新しいカップに変えてみるのも、一つの手ですよ。別れを恐れて、いつまでも同じ苦みを味わい続ける必要はありません。人生には、別れ方と同じくらい、新しい始まり方もたくさんあります」


女性はハッと顔を上げた。

その瞳には、迷いが晴れていくような光が宿っている。


彼女は、二つのカップをそっと両手で包み込んだ。

今まで感じたことのない、澄んだ苦みの奥に、確かに希望のような甘みがじんわりと広がっていく。


【女性】「……そうか。私、ずっと同じカップしか見てなかった」


女性は清々しい顔で店を出ていった。

その背中には、別れへの恐れではなく、新しい一歩を踏み出す決意が感じられた。


【ひより】「マスター、今日のお話、すごく説得力ありましたね!私も勉強になります!」


ひよりが感心しきりに言うと、マスターは何も答えず、いつものようにグラスを磨き始めた。

そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。


【マスター】「……ま、片方はサーバに残ってたコーヒーを温め直したんだけどな」


ひよりが首を傾げたが、マスターはアフロを撫でながら、また無言で次の客を待つかのように佇んでいた。

店には、新たな始まりを予感させるような、希望の香りが満ちている。


(第3話 終)

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