第二章

 私と奈美子は六年間、ずっと一緒に小学校へ登校していた。私の通う小学校へは、毎朝近くに住む生徒と一緒にグループを作り、そのグループで登校することになっていた。私と奈美子は住んでいる所も近いために、同じグループとして一緒に登校していた。私が遅刻しそうになり、グループの班長である生徒に、先に出発してもらっているときにでも、奈美子は私のことを待っていてくれた。

 下校の時にも一緒に帰った。六年間、ずっと同じクラスとはいかなかったが、それでも帰りは一緒に帰り、担任の悪口を言ったり、男子生徒を馬鹿にしたり、好きな男の子の話をしながら帰った。

 中学も同じように、一緒に登校し、一緒に下校した。部活は二人で相談して同じバトミントン部に入ることにした。これは、どちらかと言うと奈美子が私に合わせてくれた節があった。奈美子は陸上部に入部したいみたいだった。それを私は、ただ走るだけの陸上部よりもバトミントン部のほうが気楽で楽しそうだから、という理由で半ば強引に誘ったのだ。

 気楽だと思っていたバトミントン部は、私の想像を遥かに越える厳しさだった。初回の練習で全身筋肉痛になり、基礎練習としてグランドを走らされ、バトミントンがハードな競技だと私は実感した。奈美子といえば、いとも簡単に練習をこなしているようだった。お互い小学校の頃にはまともな運動していない筈なのに、私がやっと練習に慣れてきた頃、奈美子はすでに試合に出場するレベルに達していた。

 私達は毎日の部活が終ると、練習の疲れをほぐすかのようにゆっくりと帰った。そして嫌な先輩の話をし、好きな男の子の話をした。もともと私と奈美子が一緒に帰れるように同じ部活にしたのだ。

 中学校三年間、私と奈美子は同じクラスでいられた。二年の進級時に行われたクラス換えでも運良く同じクラスになることができたときには、二人で喜んだ。

 小学校の卒業式と違い、中学校の卒業式はとても感動的だった。感動を分かる年頃だからか、たまたま思春期の年齢だからかわからないが、とにかく感動した。たぶん生徒は進学という同じ目標に向かって精進し、部活というコミュニティーで新しい人間関係を築いき、より充実した生活を送ってきたからだろうと私は思った。卒業式の最後に、私と奈美子は抱き合った。この卒業式を同じクラスで、そしてこうして抱き合って迎えられたことに幸せを感じた。

 高校の合格発表を二人で待っているとき、私と奈美子は手をずっと繋いでいた。合格しますように、と私は唱えていた。きっと奈美子は、亜美が合格しますように、と祈っていたに違いない。

 奈美子の成績であれば、私達が志望する進学校には苦戦することもなく入学する筈だった。私といえば、奈美子と同じ高校に進学するために中学三年間、とくに最後の一年は苦悶する羽目になってしまった。これだけは偏差値の低い私に、奈美子を合わせさせる訳にはいかなかった。それにバトミントン部への入部は奈美子が私に合わせてくれたのだ。今度は私が奈美子に合わせる番だ、と思い夢中になって勉強した。勉強が分からないときには、奈美子が教えてくれたので、それがとても励みになった。

 合格発表の日、そらからは雪が降っていた。私と奈美子は凍えながら掲示板に合格者が貼り出されるのを待っていた。

 「雪、綺麗だね」奈美子が空を見上げながら言った。

 「そお?寒いだけだよ。もうすぐ春だっていうのにさ。それに雪なんか気にしてる余裕ないよ」私は腕時計を眺めながら言った。そろそろ発表されてもいい頃だった。

 「もっと寒ければ、もっと綺麗な雪が舞うのにな」私の話を聞いていないのか、奈美子はまだ空を眺めていた。「山奥の寒い所では雪花って言って、雪がまるで花びらが舞うように降ってくるんだよ。そこでは雪の結晶がはっきり見ることができるの。知ってる?雪の結晶って同じ物は一つとしてないんだよ。白い結晶。とても小さな芸術」奈美子は手袋をした手の平に雪を乗せようとしていた。しかし奈美子の手に乗った雪はすぐに解けてしまい、奈美子はとても悲しそうな顔になった。

 「奈美子は余裕だね。合格発表もまだなのにそんな悲しそうな顔しちゃって。奈美子の悲しむ顔をみると、私も自信が喪失してくるからもっと元気だして」なぜ私が奈美子を励ますんだろう、と思った。

 「大丈夫。亜美は合格するよ。雪の日の合格発表。きっと記念に残るよ」奈美子は微笑んだ。

 掲示板に合格者が貼り出された。私と奈美子はそれぞれ自分の受験番号を探した。辺りで歓声が上がる。喜んでいる者もいれば、泣いている者もいる。泣いている人はどっちなんだろう。受かったの?それとも落ちて泣いているの?そんなことを考えながら私は必死に自分の受験番号を探した。すでに自分の合格を確認した人の中には、携帯電話を使って誰かに連絡したり、携帯電話のカメラを使って自分の受験番号を写真に収めている者が多かった。

 そこの携帯、邪魔だから、ちょっとどかしておいて、と心の中で思いながら私は順番に受験番号を探した。

 あった。私の番号あった。ちゃんと受験番号の下には「西野亜美」という私の名前も書いてあった。私は思わず声をだした。自分でも何て言っているか分からなかった。涙がぼろぼろ滴ってくる。私は奈美子を見た。奈美子も泣いていた。私と奈美子は抱き合った。

 「私、受かったよ」私は奈美子に顔を埋めて言った。

 「だから受かるって言ったでしょ?おめでとう」奈美子は涙声で言った。

 「本当に受かると思ってた?」

 「もちろん」

 「じゃ、なんで奈美子まで泣いているの?本当は私のこと、心配だったんでしょ?」

 「私も受かったから嬉しかったの」

 「そうだ、奈美子の結果聞いていなかった。そっか、奈美子も受かったんだね。おめでとう」私は言って、無理して笑顔を作った。

 「ありがとう」奈美子も笑った。

 きっと奈美子は自分の受験番号を私よりも早く確認していたのだろ。そして私のことをじっと見守ってくれていたのだ。もしかしたら奈美子は私の番号も見つけていたのかもしれない。しかし奈美子は私自身が自分の番号を見つけるまで待っていてくれたのだ。

 「亜美、写真撮らせて」奈美子は携帯電話を取り出しながら言った。「そこの雪。ちょっと持って」奈美子は近くの芝生に積もっていた雪を指さした。「雪の日の合格発表記念」と奈美子は言った。

 私は雪の塊を両手で持ちながら掲示板の前に立った。奈美子が私を撮り終わると、同じことを奈美子にやらせて私の携帯電話で撮った。雪を持って掲示板の前に立つのは、少し異様な光景だったかもしれなかった。




 真新しい制服に身を包んで清三中央高校の入学式に出席した。教室を確認したとき、私と奈美子が同じクラスだったので驚いた。登下校は一緒だから、別にクラスが違ってもいい、と思っていたので予想外の嬉しさだった。

 桜の花びらも散り終わった頃、奈美子は学校に姿を表さなくなった。

 奈美子の家にお見舞いに行くと、奈美子の母親に入院していると言われた。奈美子が学校を休み始めた当初、携帯電話で連絡をしていた。その時には、頭痛がひどい、とか、吐き気がする、といったものだった。そんな連絡を三日ぐらいすると、奈美子と連絡が取れなくなった。入院していたんだ、と私は納得すると共に不安に駆られた。

 奈美子の母親は詳しい症状を教えてはくれなかった。ただ頭痛が酷いから、と言った。私は奈美子が入院している病院を無理に教えてもらった。

 次の日、私は奈美子の教えてもらった病院に出かけた。私の住んでいる場所からは、電車を乗らないと行けないような離れた場所にある病院だった。

 「あ、亜美じゃん。元気そうだね」奈美子は私を見ると驚いた顔をして言った。

 「奈美子に元気そうだなんて言われたくないよ」私は笑いながら言った。

 奈美子が入院している部屋は個室だった。ただ一つ、奈美子の為のベッドが置かれていた。

 「もう、心配したんだから。なんか大変な病気にでもなったの」そう私は明るく言ったが、心なしか不安だった。

 「そんなことないよ。ただ頭痛が酷くってさ。とくに朝起きた時なんか頭が割れるかと思ったよ。それで私、なんだか知らないけど、朝ご飯食べてるときに失神しちゃったみたいなんだ。それで入院ってことになっちゃったの。最初は地元の病院に運ばれたんだけど、精密検査のためにここの病院まで来たの」

 「精密検査?どんな病気なの」私は尋ねた。

 「まだ結果が出てないからわからないけど、たいしたことないと思うよ。慢性の偏頭痛を若い女性が持つことはよくあることなんだって。だから、ほら、付き添いの人もいないでしょ?すぐに退院できるよ」奈美子は近くに置いてある小さなソファーを見ながら言った。

 「そっか安心した。早く戻ってきてね。ま、奈美子ならすぐに遅れた分の授業を取り戻せると思うけどさ」

 「うん、すぐに戻るよ。ところで修学旅行の行き先、まだ決まってないよね?」奈美子が心配そうに尋ねた。

 「うん、まだだよ。だって来年でしょ?いくらなんでも、行き先を決めるのはまだ早いでしょ。それに決めるのは私達じゃなくて、先生達なんじゃない?」私が言うと、奈美子は、それもそうだね、と言った。

 私はまた来ると言って病室を後にした。携帯電話で連絡取れないのかと尋ねたが、奈美子は、病院内では携帯を使ってはいけないんだよ、と言って私の意見を却下した。それならば、頻繁にお見舞いに来ると私は約束した。

   

   


 奈美子が学校に来なくなってから四週間、つまり一ヶ月が経った。私は何度もお見舞いに行ったが、奈美子を見るたびに奈美子の体は細くなっているような気がした。もともと細かった体は、まるで木の枝のようにいとも簡単に折れてしまうのではないかと思えるほどだった。笑顔を作ってはいるものの、どこか無理があり、快活さがなくなっていた。そして、いつからか奈美子の頭には、ニットの帽子が被さっていた。

 「じつはさ、精密検査の結果が、その、結構前に出たんだけど、私の頭に腫瘍ができているみたいなんだ。脳腫瘍」奈美子はゆっくりと話した。

 「腫瘍?腫瘍って癌のこと?」私は驚愕しながら尋ねた。

 「まあ、そうなるよね」奈美子はとても落ち着いていた。

 「そんな、だって、癌って……。奈美子、まだ若いじゃん。高校生だよ」

 「脳腫瘍は幼児でもなるんだって」奈美子は平然と言った。

 私は奈美子の具体的な症状が気になった。つまり、生きていられるのか。余命はあとどのくらいのか。しかしそんなことを聞くことはできなかった。

 「その、あと、どのくらいで退院できるのかな?」私は遠回しに言ったつもりだった。

 「えっ?手術のこととか、頭の帽子のこととか聞かないの?」奈美子は笑いながら言った。「もう、亜美は私がどのくらい生きられるか知りたいんでしょ?あと三ヶ月も持たないってさ」

 私は息を飲んだ。言葉が何も出てこない。私はただ奈美子の顔を見つめていると、奈美子が吹きだした。

 「やだ、亜美、顔ひきつってるよ。冗談、冗談。まだ詳しいことはわからないんだけど、今は脳腫瘍の五年生存率は七五パーセントを超えてるんだってさ。だから心配無用だよ」奈美子は笑いながら言った。

 「やだ、もう。ビックリしたんだから」

 「ごめん、ごめん。手術もまだしてないから、きっと大丈夫だよ」

 五年生存率。五年という言葉が気になった。じゃ、五年以降は?と尋ねたいところだったが、奈美子の口調からすると完治しやすい病気なのだろうと思った。

 「その、頭。やっぱり、癌の人が打つ薬のせい?」私は奈美子の頭を指差して言った。

 「そうそう、抗がん剤ね。薬飲んだり、静脈注射したり大変だよ。あと、ガンマナイフ治療って言う放射線療法があるの。ヘルメットみたいな装置をすっぽりと被るんだ」

 「そっか。大変だね」私はそれしか言葉が浮かばなかった。

 「ま、大変かと言われれば大変だけど、治ると思えば苦じゃないよ。副作用さえ我慢すれば元の生活に戻れるんだもん。先生も、苦しいのは今だけだって言ってたし」奈美子は自分の頭に被っているニット帽を撫でながら言った。

 私は奈美子にニット帽を外してと頼んだが、奈美子は恥ずかしいからだめだと断った。私は奈美子の頭にとても興味を持ったが、それ以上無理強いはしないことにした。私は学校の話をした。絵美や亜矢子、麻希子の話をすると、せっかく高校に入って新しい友達ができたのに、会えなくて残念だと言った。奈美子のあまりにも残念そうな顔を見た私は、今度みんな連れてくると言ったが、奈美子は病院には連れてこないでほしい、と言った。元気になってからみんなに会いたいと。そしてこんな姿を見せられるのは亜美だけだと。私はその言葉を聞いて胸が詰まったが、無理して笑顔を保つ努力をした。そして私は現状だけでも友達に報告してもいいという承諾を奈美子から得た。




 ほとんど深夜に近い時間に、私は病院に着いた。学校から帰ってきて夕食を取りテレビを見ていたら、奈美子の母親から電話があった。緊急手術をした、ということだった。私は急いで着替えて、父の車で駅まで送ってもらい病院に着いた。病院に着いたときには、まだ手術中だった。手術室の前の長椅子に奈美子の母親と、父親らしき人がいた。私が近づくと奈美子の母親はびっくりした表情になっていた。 

 「あら、わざわざ来てくれたなんて……」奈美子の母親は言った。

 私は曖昧に返事をしただけだった。私と奈美子の母親、そして父親らしき人は黙って椅子に座ったままだった。父親らしき人は、ほとんど口を開いていなかった。ずっと黙って椅子に座っている。時々、手を激しく擦ったり、貧乏揺すりをするのがとても気になったけど、私は気づかない振りをした。色々と奈美子の病状について聞きたかったが、この雰囲気で口を開く勇気は私にはなかった。

 手術室から女性の看護師が出てきた。手術が終ったらしかった。手術室に入ってもよいということだったが、家族だけということだった。奈美子の母親が私も入れるように女性の看護士を説得してくれた。看護士は執刀医の許可を得て、私も手術室に入れることになった。

 奈美子の前に立っても、誰も何も話さなかった。ただじっと奈美子を見ていた。奈美子は眠っていた。鼻や口のチューブや酸素マスクらしきものなど最先端医学の末端が奈美子を苦しめているように感じた。黙っている私達に向かって緑色の白衣を着た執刀医が、とりあえず今回の手術は成功だと言った。とりあえず……。

 これから病室に奈美子を移すから、その間、奈美子の母親と父親は診察室に来るようにと執刀医から言われていた。さすがに私は、その席には同席することができなかった。

 私は受け付け近くの待合所で、自動販売機でかったミルクティーを座って飲んでいた。もうすぐ夏だというのに、冷暖房のスイッチを切られた真夜中の病院は、とても肌寒かった。温かいミルクティーがまだ売っていてよかった、と思った。

 電車が走る音がした。どうやら始発電車が通ったらしい。奈美子の母親と父親の姿は見えなかった。まだ担当医の説明を聞いているのだろうか。私は一人で帰ることにした。どうやら徹夜で登校することになりそうだった。




 日曜日、病院にお見舞いに行くと、いつもの病室に奈美子はいなかった。受け付けに戻って説明を聞くと、奈美子はホスピス病棟に移されたということだった。受け付いる事務の制服を着た若い女性は、とても機械的に言った。

 ホスピス病棟は他の病棟から少し離れた所にあった。それは一般病棟と比べると近代的で、病院の建物には見えないくらいだった。

 病棟に入ると思っていた以上に明るかった。私はホスピスという言葉から陰気な想像をしていたが、建物の中は太陽の光が十分すぎるほどに照らされ、白を基調とした壁がさらなる明るさを与えていた。私は受け付けで面会を申し込むことにした。

 奈美子の部屋まで女性の受け付けの人が案内してくれた。個室と思われる部屋のドアを私はノックした。聞き慣れた声だが、どことなくか弱さの漂う声が部屋の中からした。

 ドアを開けると奈美子がベッドに横になっていた。私の顔を見て奈美子は「やっぱり来たのね」と言った。私は微笑んで部屋に入り、ドアを静かに閉めた。

 部屋の中も太陽の光りが注がれていた。昼間なら自然の光だけで十分だろうと私は思った。個室は病室のような雰囲気は微塵も感じられなかった。これなら少し洒落たアパートの一室と同じだろうと思った。

 奈美子がベッドから起き上がろうとしたが、体制が崩れて倒れこんだ。

 「奈美子。大丈夫?」

 「うん、大丈夫だよ。なかなか思うように体が動かないんだ」奈美子は弱々しく言った。

 奈美子は苦労してベッドに横向きで座るような体勢になった。私は奈美子の横に座った。私は何を話していいのか分からなかった。横目で奈美子を見ると、奈美子は何を話していいかわからないというより、辛くて話したくないといった感じを醸し出していた。

 「あ、そうそう。教科書とノート持って来たよ」私は持ってきたバッグの中身を思い出して言った。「奈美子が学校に戻ってきたとき、勉強がわからないと大変だもんね」

 「うそ?亜美から勉強を教わるとは思わなかった」奈美子は小さく笑った。「でも私、上手く鉛筆も握れないよ」

 「どうして?でも、奈美子だったら本読むだけで理解しちゃうじゃん。鉛筆握らなくても、私のノート見るだけでいいよ。私のノートなんか見なくても、奈美子だったら教科書だけでいいかな?私、字汚いしね。とにかく、奈美子が戻ってきた時、勉強できないとイメージくるっちゃうし。みんなが思ってる奈美子のイメージってさ……奈美子?」私は奈美子を見た。奈美子はうつむいていた。何かが聞こえる。嗚咽。奈美子が泣いていた。

 「十万人に十二人だってさ。脳腫瘍になる人って。すごい確率に当たっちゃった」奈美子は泣きながら言った。

 「なんで?手術は成功だって先生は言ってたよ」

 「手術は、ただ頭を開けて閉じたたけだから、手術自体は成功に決まってるの。ただ、それで脳腫瘍が治るってわけじゃないみたい。そうとう酷かったから、すぐに閉じちゃったんじゃなかな」もう奈美子は涙声ではなかった。

 「そんな……。五年生存率は七五パーセントだって言ってたじゃん」私は半ば怒るように言ってしまった。

 「あのね亜美、ここに来る人は余命三ヶ月位の人なんだって。それに脳腫瘍は良性と悪性があって、悪性の場合の生存率は数パーセントになっちゃうの」奈美子は落ち着きを取り戻し、私を諭すように言った。

 再び二人の間に沈黙が訪れそうになると、奈美子は私の肩に頭を傾けた。私は奈美子の肩をそっと抱いた。言葉なんか必要なかった。ただ奈美子と一緒にいる時間が永遠と続けばいい、ただそれだけだった。




 チャイムが鳴った。この病棟は正午になるとチャイムが鳴るらしい。

 「お腹空かない?食堂に行こうよ」奈美子が言ったので、私は頷いた。

 食堂も充分過ぎるくらいに太陽の光りが煌々と注がれていた。そして音楽が流れていた。いつも昼食の時間になると音楽が流れると奈美子が説明してくれた。食堂には数名の患者がいた。少しずつ口に食べ物を運ぶ人もいれば、末期癌の患者とは思えないくらい元気そうな人もいた。ただ、どんな患者がいても、広々とした空間にこれだけの光りを取り入れ、白を基調とした壁とテーブルで大仰と思えるような明るさを持てば、病院特有の陰気臭さは微塵も感じることはなかった。

 「食券を買えば、面会者も食べれるよ」奈美子が言った。

 私はサンドイッチと野菜スープを注文したが、奈美子は食欲がないらしくホットココアだけを注文した。

 「亜美は将来何になるの?」私がスープを掻き混ぜていると、奈美子が尋ねた。

 「私?うーん、まだ何にも決まってないかな。小学校の頃はお花屋さんになりたかったんだけどね」私はそう言って笑った。

 「じゃ、とりあえず大学に行って、卒業するまでに考えたほうがいいね」

 「うん、そうするつもり。学部、どうしよう」

 「亜美なら文系がいいんじゃないかな。よく小説とか読んでそうだし」

 「理系よりは文系だけど、文系って生活の役に立つのかな?仕事の役にも立たなそうだし……」私は首を傾げた。

 「もともと学問なんて生活の役には立たないんだよ」奈美子は穏やかな声で言った。「でも役に立たない学問こそ立派な学問なの。ヨーロッパでは社会に直接使われるような法律や政治経済、工学よりも、あまり生活の役に立ちそうもない数学や哲学、文学のほうが崇高される学問なの」

 「そうなんだ」

 「うん。私は亜美にはしっかり学問を身に付けて、熱心に仕事してもらいたいんだ」

 「私、熱心に仕事できるかな?」私はおどけて見せた。

 「うん、できるよ。それが社会に役に立つことなんだから」

 「私の仕事が社会の役に立つの?」

 「マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』って本の中でプロテスタントの世俗内禁欲、つまり禁欲なまでに労働することが資本主義の発展に貢献したって言ってるの」

 「うーん、難しい……。でも、そんなふうに難しいことを言うのは奈美子らしいね。とにかく禁欲なまでに仕事をするんだね。わかった、それが奈美子の望みなら、しっかり勉強して、いっぱい働くよ」

 「ありがとう。それが私の最後の望み」奈美子は笑いながら言ったが、私は悲しくなった。最後の望み……。

 私はサンドイッチと野菜スープを食べ終え、コーヒーの食券を新たに買った。

 「いい音楽ね」奈美子は食堂に流れている音楽に耳を傾けながら言った。

 私も音楽に耳を傾けた。どこかで聴いたことのある声。とても特徴的な声だった。

 「ユーミンの曲じゃない?」私は言った。

 「うん、たぶんユーミンだよね」奈美子は目を瞑った。

 そして私も目を瞑った。私の頭の中に美しい旋律と歌詞が流れてきた。


 白い坂道が 空まで続いていた

 ゆらゆらかげろうが あの子を包む

 誰も気づかず ただひとり あの子は昇って行く

 何もおそれない そして舞い上がる

 空に憧れて 空をかけてゆく

 あの子の命は ひこうき雲


 高いあの窓で あの子は死ぬ前も

 空を見ていたの 今はわからない

 ほかの人には わからない

 あまりにも若すぎたと ただ思うだけ

 けれど しあわせ

 空に憧れて 空をかけてゆく 

 あの子の命は ひこうき雲


 この歌を聴いた二週間後に奈美子は息を引き取った。

葬儀はしめやかに行われ、クラスの全員が出席した。清三中央高校以外の制服を着た生徒も何人かいた。中学校時代の同級生達だった。別の高校に進学した生徒が、奈美子の訃報を聞き、わざわざ学校を欠席して駆けつけてくれたのだった。どのようにして奈美子の死を知ったのかはわからなかった。違う高校の生徒に話しが広まるくらい奈美子は親しまれていたのだろう。

 場違いなくらいに青天の中、葬儀は淡々と進められた。私の頭の中には、あの時に聴いたメロディーがずっと流れていた。あの曲は私が生まれるずっと前、一九七三年に荒井由実が作詞・作曲した「ひこうき雲」だとわかった。

 私はこの曲を抱えながら生きていくことになるだろうと思った。葬儀の中、私はずっと下を向きながら「ひこうき雲」の歌詞を思い浮かべていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る