異世界スローライフ? 変な夢を見てんじゃないわよ -リアルで頑張るんだから-
五平
第1話:名もなき箱庭の目覚めと五感の再生
鉛のような体が、ベッドに沈み込んでいた。
目の下の深いクマは、まるで疲労の証。
沈んだ瞳の奥には、どんな光も宿らない。
現代日本の、あの絶え間ない疲弊が。
彼女の心身を、じりじりと蝕んでいた日々。
ため息ばかりが、口をついて出る。
乾いた心は、感情さえも失っていた。
食事は喉を通らず、味覚も曖昧だった。
夜は、神経が昂ぶり、睡眠もままならない。
わずかな眠りも、悪夢にうなされる日々。
心はカラカラに乾ききっていた。
日々のルーティンに、ただ追われるだけ。
心がすり減り、形を失っていくようだった。
朝は満員電車に揺られ、押し潰されそうになる。
無機質なオフィス、冷たい蛍光灯の下。
ただ時間が過ぎるのを、耐え忍んでいた。
そんな、極限状態にあったはずの彼女。
目覚めは、あまりにも突然だった。
やわらかな日の光が、頬を優しく撫でる。
これまで感じたことのない、温かい感触。
ひのきの香りが、鼻腔をくすぐる。
森林浴をしているような、清々しい匂い。
木製の小さな小屋の、ベッドの上だった。
体は羽のように軽く、呼吸が驚くほど楽。
肺いっぱいに、新鮮な空気を吸い込める。
視界は鮮やか。色彩が、息吹いている。
窓の外には、青々とした森が広がる。
木々の葉が、風に揺れる音。
「サラサラ」と、心地よいざわめきが響く。
都会の喧騒とは無縁の、穏やかな音色。
全身の凝りが、雪のように溶けていく。
長年張り詰めていた心が、解き放たれる。
重かったまぶたが、すっと自然に開く。
深い眠りから覚めたような、清々しい感覚。
頭の中は、驚くほどクリアだった。
深く、深く、息を吸い込む。
ハーブの清々しい匂いが、体中に満ちる。
五臓六腑が、洗浄されるようだ。
心臓が、ゆっくりと、しかし力強く脈打つ。
胸いっぱいに広がる、確かな安堵の感覚。
窓から差し込む、柔らかな陽光に目を細める。
光の粒が、きらきらと舞っているように見える。
まるで、祝福のシャワーのようだった。
遠くで、鳥のさえずりが優しく響く。
何の警戒心もなく、彼女は耳を傾ける。
その声に、心が安らぐのを感じた。
そして、かすかに土の匂い。
足元にあるはずの地面から、香るように。
彼女は、そっと鼻を近づけ、深く嗅いだ。
都会では、アスファルトと排気ガス。
その人工的な匂いに慣れきっていた鼻が。
今、自然の生命の香りに驚いているようだった。
深呼吸を繰り返す。何度も、何度も。
そのたびに、体に力が満ちていく。
安堵の表情が、その顔に浮かんだ。
その表情は、かつての強張った顔とは違う。
ふわりと、優しく微笑んでいるようにも見えた。
過去からの解放。魂が、震える。
ここがどこなのか、まだ分からない。
なぜ自分がここにいるのかも、不明だ。
しかし、間違いなく、ここは特別な場所。
周囲をゆっくりと見回す。
小さな小屋の、木の壁に触れる。
温かい感触が、指先から伝わってくる。
ひび割れた部分も、愛おしく思える。
棚には、素朴な陶器がいくつか並んでいる。
手作りの温かさが、そこから伝わる。
テーブルには、野の花が一輪挿してある。
何の飾り気もない、質素な空間だ。
なのに、なぜか心が満たされていく。
彼女は、首を微かに傾げた。
疑問は、まだ言葉にならない。
ただ、心が満たされていく感覚だけがある。
かつての焦燥や不安は、どこにもない。
頭の中は、からっぽだ。
思考が、驚くほどクリアだった。
遠い昔の出来事のように、都会での日々が蘇る。
冷たいオフィスビル。
キーボードを叩く、無機質な音。
上司の、厳しい声。胃の痛み。
眠れない夜、天井の模様を数えた日々。
常に感じていた、閉塞感と息苦しさ。
満員電車の圧迫感。
人々の、無関心な視線。
スマートフォンの画面の、まぶしい光。
それらが、今は遠い幻のようだ。
まるで、誰かの見知らぬ過去の記憶。
この小屋の窓から見えるのは、緑豊かな森。
そして、どこまでも広がる青い空だけ。
聞こえるのは、風のささやきと鳥の声だけ。
彼女は、ベッドからゆっくりと体を起こした。
すっと、足が地面につく。
裸足の足裏に、木の床の温もりを感じる。
ひんやりとした感触が、むしろ心地よい。
小屋の外へ、一歩、足を踏み出す。
朝露が光る、草の葉を踏みしめる。
足元から、微かな冷たさが伝わる。
それが、むしろ清々しく感じられた。
目の前に広がるのは、豊かな自然。
どこまでも続く、木々の連なり。
その緑の深さに、心が洗われるようだ。
空は、どこまでも高く、青い。
白い雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていく。
それらを、ただ見上げる。
飽きることなく、時間を忘れて。
彼女の表情に、安堵と、かすかな好奇心。
そして、ほんの少しの希望が宿る。
ここは、きっと、第二の人生の始まり。
そう、漠然と、しかし確信に近い形で感じていた。
この世界は、彼女を包み込むように存在している。
まるで、彼女のためだけに用意されたかのように。
彼女の心には、もう悲しみはなかった。
疲れも、絶望も、消え去っていた。
ただ、穏やかな波が、静かに押し寄せる。
それは、確かな幸福の予感だった。
新しい世界の、始まりだった。
彼女は、大きく深呼吸をした。
体中に、新鮮な空気が満ちていく。
その感覚に、深く感謝する。
この、名もなき箱庭で。
彼女の物語は、今、静かに始まる。
過去を捨て、未来を迎えるために。
静かに、彼女は目を閉じた。
そして、再び開いたその瞳には。
確かな光が、宿っていた。
その光は、希望に満ちていた。
不安は、微塵も感じられない。
ただ、新しい生への期待だけが。
彼女の瞳の中で、きらめいていた。
周囲の静寂が、それを祝福している。
鳥の声が、再び優しく響く。
彼女は、小さく微笑んだ。
その微笑みは、誰のためでもなく。
彼女自身の、内なる光の輝きだった。
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