客の名は
雨は弱まる気配を見せなかった。
壁に残された手形は、雨粒に流されず、まるでコンクリートに染み込んでいるかのように濃く、しつこく残っていた。
俺は階段を降り、車に戻った。
助手席には、まだあの紙袋があった。
今度は恐る恐る、中身のもう一つ――あの古びた封筒を取り出した。
封筒は表面がよれており、裏には赤茶けた朱印のような印がある。
表書きには、くっきりとした筆跡で、名前が書かれていた。
「佐藤 拓郎 様」
その瞬間、背筋に電気が走った。
“さとう”――
さっき、階段の手すりに引っかかっていた白いハンカチに書かれていた、あの名前と一致している。
俺は急いでスマホを取り出し、管理会社に電話をかけた。
夜間対応の番号に繋がり、眠たげな男性の声が応じた。
「302号室について……ちょっと確認したいんですが。以前の入居者、ご存じですか?」
数秒の沈黙ののち、返ってきた言葉に、俺は言葉を失った。
「佐藤……拓郎さんですね。ええ、去年の秋に、お亡くなりになっています」
「……死因は?」
「自殺でした。気づかれにくい場所で、かなり時間が経っていたそうで。
……302号室は、その後、解体の対象になりまして。
現在、部屋は壁でふさがれていて、実際には“存在していない”状態ですね」
俺は黙って、電話を切った。
⸻
車内の空気が、急激に冷えていた。
助手席を見ると、そこにはもう――紙袋はなかった。
封筒も、写真も、すべてが消えていた。
ただ、座席のシートの上に、小さく折りたたまれた一枚のメモだけが残されていた。
「忘れ物、届けてくれてありがとう」
震える手でその紙を持ち上げた瞬間、車内のルームミラーが、何の操作もしていないのに、ふいにぐらりと角度を変えた。
後部座席が映る。
だが、そこには――誰もいなかった。
⸻
エンジンをかける。
再び、雨の道へ車を出す。
佐藤という名の男は、何を「取りに」戻ってきたのか。
自分の記憶か。
後悔か。
それとも……死んだ部屋に取り残した、**“何か”**か。
分からない。
ただ一つ言えるのは――
あの夜、確かに俺のタクシーに、呼ばれていない客が乗ったということだ。
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