作品の中の笑顔

俺は濡れたランドセルを、そっと助手席から取り上げた。


 薄汚れてはいたが、どこか手入れのされた形跡があり、丁寧に扱われてきたことがわかる。

 ただ、表のネームプレートには紙が差し込まれておらず、名前は記されていなかった。


 中を開けると、濡れた教科書や筆箱の中に、一枚だけ――厚紙のような工作物が入っていた。


 それは、小学校低学年の図工の授業で作られたような、

 **「じぶんのかおを つくろう」**と題された、顔のコラージュ作品だった。


 色紙をちぎって貼り合わせ、子供が描いたであろう笑顔が、にっこりと浮かんでいる。

 だが、その笑顔はどこか歪み、両側から“白い手”で引き伸ばされているように見えた。


 目の位置、口元、輪郭――すべてに違和感があった。

 それでも、子供は懸命に「笑っている顔」を作ったのだとわかる。


 俺は、その裏側を見た。


 裏には、薄く消えかけた鉛筆書きで、名前が記されていた。


 「さとう けんた」


 ――記憶の奥で、その名前にひっかかりを感じた。



 数年前、同じ北区の団地で起きた事故。


 老朽化した団地の外階段から、小学一年生の男の子が転落し、死亡した。

 事故か、自殺か――原因は不明のまま報道も小さく扱われ、やがて風化した。


 だが、俺は当時その団地の前をよく通っていた。

 花が供えられ、児童の絵が並べられたあの階段の記憶。

 そして、その名札の一枚に確かに書かれていた名前――


 「さとう けんた」



 再び胸ポケットに手を伸ばす。

 そこには、湿ったままの五千円札があった。


 折り目の中、わずかに透けるような赤いシミ。

 前の話――青山霊園の「最後の客」が去ったときにもらったもの。


 あの時の男の隣には、黒髪の女がいた。

 助手席の子供が話していた「五千円札」のこと。

 団地の202号室の白い灯り。


 全部が、何かしらの“つながり”を持っていた。



 その晩、ランドセルは警察署に届けた。


 だが、後日連絡が来たとき、署員は不思議そうに言った。


 「確認した住所には、該当する家族も住んでいませんし、そもそもランドセルも工作物も――なかったですよ?」


 俺は黙って電話を切った。



 タクシーのルームミラーをそっと倒す。

 助手席にも、後部座席にも、今は誰もいない。


 だけど、まるで誰かがまだ、

 後ろのドアの外に立っているような気配だけが、残っている。



 その夜の売上は、わずかだった。


 だが、あの子が、ちゃんと“帰れた”のなら――

 それでいい。


 俺はエンジンをかけ直す。


 「……さあ、次の客を探しに行こう。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る