第2話 「妖怪街の紅い瞳」

電車が妖怪街駅に到着すると、蓮太郎は他の乗客と共にホームへと降り立った。改札を抜けた瞬間、彼の五感は一気に異世界の雰囲気に包まれた。


甘い線香の香りと、どこか懐かしい木の香りが混じり合った空気。遠くから聞こえてくる三味線の音色と、商店街の賑やかな話し声。そして何より、夕暮れ時の空に浮かぶ無数の提灯が、橙色の優しい光を街全体に落としていた。


「これが、妖怪街か」


蓮太郎は思わず息を呑んだ。以前に観光で訪れた時とは、全く違う印象を受けた。今日は、ただの見物客ではない。自分の人生を変えるかもしれない重要な用事があるのだ。


駅から延びる石畳の道を歩いていくと、両側に並ぶ町屋造りの建物が目に入る。しかし、よく見ると普通の町屋とは少し違っていた。軒先に吊るされた風鈴の音が、通常の金属音ではなく、どこか神秘的な響きを奏でている。店の看板も、「狐火軒」「鬼灯茶屋」「化け猫堂」など、明らかに妖怪を意識した名前ばかりだった。


道を歩く人々も、よく見ると人間ばかりではない。頭に小さな角を生やした少年、尻尾を揺らしながら歩く女性、そして顔に狐の面をつけた店主が店先で客引きをしている。


「いらっしゃいませ、お客さん」


突然声をかけられて、蓮太郎は振り返った。そこには、本物の狐の面をつけた着物姿の女性が立っていた。


「妖怪街は初めてですか?」


「いえ、以前にも来たことは」蓮太郎は少し緊張しながら答えた。「今日は、鬼灯茶屋という店を探しているんです」


「あら、鬼灯茶屋でしたら、この道をまっすぐ行って、桜並木の角を右に曲がったところですよ」狐面の女性は親切に道を教えてくれた。


「ありがとうございます」


蓮太郎は礼を言って、教えられた道を歩き始めた。街の奥に進むにつれて、観光客らしき人の姿は少なくなり、代わりに妖怪と思われる住人たちの姿が目立つようになってきた。


桜並木の角を右に曲がると、そこは先ほどまでの賑やかな商店街とは打って変わって、静寂に包まれた小さな路地だった。石畳の両側には、桜の木が植えられており、まだ散り切れていない花びらが時折風に舞っている。


そして、路地の奥に見えたのが「鬼灯茶屋」の看板だった。


伝統的な町屋造りの建物で、格子戸の奥から温かな光が漏れている。軒先には、赤い鬼灯の形をした提灯が揺れており、その幽玄な光が建物全体を包んでいた。


蓮太郎は深呼吸をして、格子戸を開けた。


「いらっしゃいませ」


中から聞こえてきた声は、思いのほか若い女性の声だった。店内は、木の温もりを感じる落ち着いた空間で、カウンター席と座敷席が設けられていた。客は他におらず、静寂な雰囲気が漂っている。


「あの、朱音さんはいらっしゃいますか?」


蓮太郎が声をかけると、カウンターの奥から一人の女性が現れた。


その瞬間、蓮太郎の心臓が止まりそうになった。


女性は、蓮太郎が今まで見たことのない美しさを持っていた。艶やかな黒髪は腰まで届き、その髪の間から小さな角が二本、可愛らしく突き出している。しかし、何より印象的だったのは、その瞳だった。


紅い瞳。


まるで深い紅の宝石のような、神秘的で美しい瞳。しかし、その瞳には感情らしい感情が見えず、まるで仮面のように無表情だった。


「私が朱音です」


女性は簡潔に答えた。その声は、先ほどの「いらっしゃいませ」とは全く違う、どこか警戒心を含んだトーンだった。


「僕は、橘蓮太郎です」蓮太郎は緊張しながら自己紹介をした。「橘千代子さんから、お手紙を」


蓮太郎は、祖母から預かった封筒を取り出して差し出した。朱音はそれを受け取り、封を切って中身を読み始めた。


読んでいる間、朱音の表情は微塵も変わらなかった。しかし、蓮太郎は彼女の紅い瞳を見つめながら、不思議な感覚に襲われていた。


(この人を、どこかで見たことがある?)


既視感とも呼べる、奇妙な懐かしさが胸の奥に湧き上がってくる。初対面のはずなのに、どこか心の琴線に触れるような、不思議な感覚だった。


「なるほど」朱音は手紙を読み終えると、蓮太郎を見つめた。「千代子さんからの紹介ですね。あなたが、契約結婚を希望する除霊師の」


「はい」蓮太郎は頷いた。「でも、僕には霊感がないんです。だから、契約により力を借りたいと」


「霊感がない除霊師」朱音の口元に、微かな笑みが浮かんだ。「珍しいですね」


「朱音さんは、なぜ人間との契約結婚を?」


蓮太郎の問いに、朱音は少し考え込むような表情を見せた。


「私は、人間社会で生活したいのです」朱音は静かに答えた。「鬼族の中では、私は異端児扱いされています。人間への憧れが強すぎると」


「憧れ」蓮太郎は朱音の言葉を繰り返した。


「鬼族は、本来人間を恐れさせる存在です。しかし、私は人間になりたい。人間のように、普通の生活を送りたいのです」


朱音の紅い瞳に、一瞬だけ何か感情らしいものが揺れたような気がした。しかし、すぐにまた無表情に戻ってしまった。


「契約結婚により、私は人間社会での永住権を得ることができます。そして、あなたは私の力を借りて除霊師として活動できる」


「利害の一致、ということですね」蓮太郎は複雑な気持ちで言った。


「そうです」朱音は即答した。「感情的な結婚ではありません。互いの目的を達成するための、ビジネスライクな契約です」


蓮太郎は、朱音の言葉に少し寂しさを感じた。確かに、これは恋愛結婚ではない。しかし、何か大切なものが欠けているような気がした。


「朱音さん」蓮太郎はゆっくりと口を開いた。「僕は、あなたを一人の人として尊重したいと思っています」


「一人の人として?」朱音が首をかしげた。


「鬼族であろうと、人間であろうと、一人の人格を持った存在として接したいんです」蓮太郎は真剣な表情で言った。「契約結婚といっても、一年間は夫婦として生活するわけですから」


朱音は、蓮太郎の言葉に少し驚いたような表情を見せた。


「あなたは、私を恐れないのですか?」


「恐れる?」蓮太郎は首を振った。「なぜ恐れる必要があるんですか?」


「私は鬼族です。強大な力を持ち、人間を害することもできます」


「でも、僕を害そうとは思っていないでしょう?」蓮太郎は朱音の目を見つめた。「もしそうなら、こうして話し合いの場に来ることはないはずです」


朱音は、蓮太郎の言葉に言葉を失った。しばらく沈黙が続いた後、彼女は小さく息を吐いた。


「あなたは、変わった人ですね」


「よく言われます」蓮太郎は苦笑いを浮かべた。


「私の力は、確かに強大です」朱音は説明を始めた。「炎を操り、物理的な力も人間の数倍。契約により、あなたもその力の一部を使うことができるようになります」


「どのような契約になるのでしょうか?」


「正式な結婚契約書を交わします。そして、鬼族の伝統的な契約儀式を行います」朱音は詳しく説明した。「その際、私たちの間に魔法的な絆が生まれ、互いの力を共有できるようになります」


「魔法的な絆」蓮太郎は初めて聞く言葉に戸惑った。


「心配しないでください。危険なものではありません」朱音は蓮太郎の不安を察したようだった。「ただ、互いの感情がある程度共有されるようになります」


「感情が共有される?」


「強い感情の時だけです。恐怖、怒り、悲しみ、そして」朱音は少し躊躇った。「喜びなども」


蓮太郎は、この契約が思っていた以上に複雑なものだということを理解した。しかし、これが橘家を継ぐ唯一の道なのだ。


「分かりました」蓮太郎は決意を込めて言った。「契約を結ばせていただきます」


朱音は、蓮太郎の決意を確認するように彼の目を見つめた。


「本当に、後悔しませんか?」


「後悔するかもしれません」蓮太郎は正直に答えた。「でも、やらない後悔の方が大きいと思います」


朱音の紅い瞳に、また何か感情らしいものが揺れた。今度は、先ほどよりもはっきりと。


「あなたは」朱音が小さな声で呟いた。「どこかで会ったことがありませんか?」


蓮太郎の心臓が高鳴った。彼も同じことを感じていたのだ。


「僕も、同じことを思っていました」蓮太郎は正直に答えた。「初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしいような」


朱音は、蓮太郎の言葉に少し動揺したような表情を見せた。しかし、すぐにまた無表情に戻った。


「気のせいでしょう」朱音は冷静に言った。「では、契約の詳細を決めましょう」


二人は、茶屋の奥の座敷で契約の内容について話し合った。


契約期間は一年間。朱音は人間社会での永住権を得るために、蓮太郎の妻として生活する。蓮太郎は朱音の力を借りて、除霊師としての活動を行う。期間終了後は、互いの目的が達成されていれば離婚する。


「住居はどうしましょう?」蓮太郎が尋ねた。


「私は、妖怪街の奥に小さな家を借りています」朱音が答えた。「でも、人間社会での生活を学ぶためには、人間の住む場所で生活した方が良いでしょう」


「それなら、橘家に来てもらうことはできますか?」蓮太郎が提案した。「家族もいますが、きっと歓迎してくれると思います」


朱音は少し考え込んだ。


「家族の方は、鬼族の私を受け入れてくれるでしょうか?」


「大丈夫です」蓮太郎は確信を込めて答えた。「僕の家族は、外見や種族で人を判断するような人たちではありません」


朱音は、蓮太郎の言葉に少し安堵したような表情を見せた。


「では、明日にでも契約書を作成し、正式な契約を結びましょう」


「分かりました」蓮太郎は頷いた。


契約の話し合いが終わると、朱音は蓮太郎にお茶を出してくれた。桜の香りがする、上品な味わいの茶だった。


「このお茶、美味しいですね」蓮太郎が感想を述べると、朱音の表情が少し和らいだ。


「鬼灯茶屋の特製です」朱音は説明した。「妖怪街の奥にある桜の木から採れる花びらを使っています」


「妖怪街の桜は、普通の桜とは違うのですか?」


「はい。魔力を含んでいるため、香りも味も特別です」朱音は珍しく表情を緩めた。「人間の方々には、とても人気があります」


蓮太郎は、朱音の表情が和らいだ姿を見て、彼女の美しさに改めて感動した。無表情の時も美しかったが、微笑みを浮かべた時の美しさは、それ以上だった。


「朱音さんは、どのくらい鬼灯茶屋で働いているんですか?」


「三年ほどです」朱音は答えた。「人間社会に憧れを持つようになってから、少しずつ人間との接触を増やしてきました」


「人間社会のどんなところに憧れを?」


朱音は少し考え込んだ後、小さな声で答えた。


「家族というものに、憧れを持っています」


「家族」蓮太郎は朱音の言葉を繰り返した。


「鬼族は、基本的に個人主義です。家族という概念はありますが、人間ほど強い絆で結ばれることはありません」朱音は寂しそうに言った。「でも、人間の家族は違いますよね。互いを思いやり、支え合う」


蓮太郎は、朱音の言葉に胸を打たれた。彼女は、家族の温かさを求めているのだ。


「橘家の家族は、きっと朱音さんを家族として受け入れてくれると思います」蓮太郎は優しく言った。「僕の両親も祖母も、とても温かい人たちです」


朱音の紅い瞳に、希望の光が宿った。


「本当でしょうか?」


「本当です」蓮太郎は断言した。「約束します」


朱音は、蓮太郎の言葉に小さく頷いた。


外はいつの間にか暗くなっており、提灯の光が茶屋の格子戸を照らしていた。


「そろそろ、失礼します」蓮太郎は立ち上がった。「明日、契約書を持参します」


「はい」朱音も立ち上がった。「お疲れ様でした」


蓮太郎は茶屋を出て、妖怪街の夜道を歩いた。提灯の光に導かれながら、今日の出会いを振り返っていた。


朱音は、想像していたよりもずっと複雑な人だった。強大な力を持つ鬼族でありながら、人間への憧れを抱き、家族の温かさを求めている。そして、どこか寂しげな表情を浮かべることもある。


(彼女を、幸せにしてあげたい)


蓮太郎は、契約結婚という形であっても、朱音に幸せを感じてもらいたいと思った。それが、彼なりの優しさだった。


駅に向かう道すがら、蓮太郎は桜の花びらが舞うのを見上げた。妖怪街の桜は、確かに普通の桜とは違う美しさを持っていた。


(明日から、新しい人生が始まる)


蓮太郎は、不安と期待が入り混じった気持ちで、電車に乗り込んだ。


一方、鬼灯茶屋では、朱音が一人で片付けをしていた。


「橘蓮太郎」朱音は、彼の名前を小さく呟いた。


彼との出会いは、確かに不思議な感覚をもたらしていた。初対面のはずなのに、どこか懐かしい感じがした。そして、彼の優しさに、心が少し動かされた。


鬼族の中では、朱音は常に一人だった。強すぎる力のせいで、同族からも恐れられ、人間への憧れを持つことで異端児扱いされてきた。


しかし、蓮太郎は違った。彼は、朱音を恐れることなく、一人の人として接してくれた。


「家族」朱音は、蓮太郎が話してくれた橘家の家族のことを思い出した。


もしかしたら、この契約結婚は、彼女にとって新しい人生の始まりになるかもしれない。


朱音は、格子戸の外に見える桜並木を見つめた。風に舞う花びらが、まるで希望を運んでくるかのように見えた。


紅い瞳に、微かな期待の光が宿っていた。

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