第42話 決まりし婚儀
オルメル家の訪問が終わり、季節が廻った。
ヴァルトの地に帰還した後、領内ではそれぞれが然るべき務めに追われていた。開墾の見回りに、訓練の調整、兵たちの宿舎改修に関する決裁――。主君ファーレンは相変わらず淡々と政務をこなし、従士たちもまた、その背に倣うように日々をこなしていた。
そんな折、一報が届いた。
本家グライス家よりの使者が、遠路はるばるヴァルトを訪れたのだ。
訝しむ空気が城内に漂う中、ファーレンは使者の前で眉一つ動かさず、その書状を受け取った。そして、ほんの短い間だけ沈黙を置いたのち、従士らを集め、静かに言葉を紡いだ。
「――このたび、婚儀を命じられた」
その言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。
誰もすぐには返せなかった。
だが、それが喜びでも、悲しみでもないことは、皆の胸に伝わっていた。
ファーレン=グライスの表情は変わらなかった。
ただ、命じられた――そう言った。
それは、主家たるグライス本家からの意向であり、従わねばならぬ政の一手であることを示していた。
「相手は、ケルヴィア辺境伯家の次女、リゼット嬢だ」
名を聞いて反応する者はなかった。
よほど遠くの家だろうとオズベルは思った。
辺境――ファーレンの治めるヴァルトよりも、さらに外縁。
つまりは、中央から見れば同列に過ぎぬ“端”の者同士、ということか。
「来月には婚儀の準備が整う。しばらくは来客も増えるだろう。警備と応対の分担は、追って命ずる」
短く告げて、ファーレンは背を向けた。
それ以上、語るべきことはないと判断したのだろう。
だが、扉が閉まるその瞬間、わずかにその背が緩んだようにも見えた。
気のせいかもしれない――オズベルはそう思いながら、ラルスと視線を交わした。
「……本家の思惑ってやつか」
ラルスがぽつりと漏らした。
その声音には、憐れみでも、怒りでもない、淡い呆れと諦めが混ざっていた。
「ファーレン様ほどの方が、好きな相手すら選べないんですかね」
そう言いながら、オズベルは知らず拳を握っていた。
ファーレンがどれほどの覚悟でその言葉を口にしたのか――その重みが、皮膚の奥に響いていた。
婚儀の報せが砦を駆けた翌日。
ヴァルトの館の広間では、来たる日への備えに向けて、従士たちが静かに動き始めていた。
「応対の要は、お前と俺に任されるだろうな」
ラルスが書状を畳みながら言う。
それは、グライス本家より送られてきた来客一覧であった。婚儀に合わせて、同家に連なる諸家の使節が順次訪れる予定となっている。
「迎えの手配、滞在の部屋割り、それと……供の者の監視もだな」
「監視、ですか?」
「用心に越したことはねえよ。祝いの席だが、裏で何かを嗅ぎまわるやつも出てくる」
ラルスの声音に、冗談はなかった。
その目は、かつて戦場で幾度となく死をくぐり抜けてきた従士の目だった。
「……畏まりました。警戒の手は緩めません」
「頼むぜ、オズベル=ハスタ。お前が締めてくれりゃ、他もついてくる」
呼び慣れた通り名で名指され、オズベルは小さく頷いた。
数年前までは列の中で槍を握るだけだった自分が、今では従士の中でも中心を担う立場になっている――そう自覚するたび、背に力が入る。
ふと、遠くから軽い足音が響いた。
館の廊下を通る侍女たちの声。
「花飾りは、やはり青紫がよろしいかと……」「姫様のお顔映えなら、薄紅も……」
噂話を含んだ声がすれ違っていく。
「……まるで祭り前の村みたいだな」
オズベルが漏らすと、ラルスが鼻で笑った。
「違いねえな。だが、ここは戦場でもあるんだ。主君の面目を潰すわけにはいかねえ。ひとつの油断が、家全体の信用を損なう」
「ええ。心得ています」
言葉に出してみて、ようやく胸の奥に落ちてきた。
この婚儀はただの祝い事ではない。
主君ファーレンが家として、貴族として、外の世界に名を示す場なのだ。
その場を陰で支えることが、従士の務め――オズベルはその責を、心の底から引き受ける覚悟でいた。
その日の夕刻。
ヴァルトの館の奥、ひとけのない書庫脇の渡り廊下にて、オズベルはふと足を止めた。
外では、婚儀に向けての装飾や手配が次々に進められている。
館の中も慌ただしく、召使いたちは昼も夜もなく動いていた。
それでも、ここだけは喧噪の届かない静けさがあった。
そこへ、歩を進めてきたラルスの姿が見えた。
「――いたか。なんだ、逃げたかと思ったぜ」
「逃げる理由などありません」
即答したオズベルの声に、どこか気の抜けた語調が混ざっていた。
ラルスは肩を竦める。
「主の婚儀だ。あれこれ思うところもあるんじゃねえの、従士ってのはさ」
オズベルは黙した。
しばし、窓から差し込む光だけが、壁に映る二人の影を伸ばした。
「……ファーレン様の婚儀が、グライス本家の差配によるものだというのは、以前から聞いていました」
「まあな。本人は口に出さんが、顔に出てる」
ラルスは小さく息を吐いた。
「けどな、家を継ぐってのは、そういうもんだ。誰のための婚姻か、なんてことより、何を得るかのほうが先なんだろうよ。貴族ってのは」
「……わかっているつもりです」
だが、胸のうちのもやは晴れなかった。
主君が選んだ道ではない。にもかかわらず、それを黙って従うしかないという現実。
それが、従士の立場であることも、頭では理解している。
だが――。
「なんだ、お前も女房が欲しくなったか?」
唐突な問いに、オズベルは目を見開いた。
「……どうしてそうなるんですか」
「いやな、ふとそう思ってな。俺もそろそろ本格的に考えてんだわ。ひとりで戦場を渡ってくのも、いつか終わる日がくるしな」
そう言って、ラルスは壁にもたれ、窓の外を眺めた。
「この間、村の長の娘がさ、こっちに野菜を届けに来たんだよ。そしたら、なんだかやけに話しかけてきてな……」
「……話を戻してくださいよ」
「おう、すまんすまん」
笑うラルスの様子に、少しだけ、オズベルの肩の力が抜けた。
「主君の婚儀だ。従士として、誇りに思おうぜ。たとえそれがどんな形でも、俺たちの支えがあったからこそ、こうして家が成ってるんだからよ」
「……そうかも、しれないですね」
言葉の意味は、ようやく胸の底に落ちてきた。
主の婚儀は、自分たちの歩みにもまた、刻まれるものなのだ。
それを、ただ見届けるだけで終わらせてはならない。
これから先、自らの道もまた定まっていくのだと――オズベルは胸中で、そう噛みしめていた。
日が沈み、ヴァルトの館には暖かな灯がともる。
中庭では、小規模ながらも婚儀を祝う前夜の準備が進められていた。
軍楽の演奏こそないが、酒樽が転がり、食卓の上には手製の料理が並べられている。館の者たちが総出で手を動かしたささやかな祝宴――それが、今夜の幕開けだった。
オズベルは離れの廊下からその様子を眺めていた。
遠巻きに、ファーレンの姿も見える。表情に大きな変化はない。だが、これまでに見たどんな戦場の顔よりも、幾ばくかの緊張が見てとれた。
「……やっぱり、納得はしていないんですね」
ふと横から声がかかる。
ラルスだった。肩には防寒の外套を軽くかけ、手には酒器をひとつ持っていた。
「ま、ああ見えて顔に出る人だからな。いつも口じゃ言わねえけど」
「……」
「けどな、あの人がここまで来れたのは、戦場でしっかり結果出してきたからだ。お前の支えも大きかったと思うぜ。俺はあの頃、ただの従士だったお前が、今じゃ家臣筆頭みたいな顔してるの見てて、妙に感慨深いっつーか」
「顔はしていません」
「してるしてる」
茶化すように笑うと、ラルスはオズベルの隣に立ち、酒器を差し出す。
「乾杯しようぜ。俺たちの主の門出に」
「……ええ」
オズベルは杯を受け取り、並んで夜空を仰いだ。
この数年、槍を振るい、命を預け合い、築かれてきたものがあった。
それがひとつの家として形になり、その主がいま、新たな段階へと進もうとしている。
従士である自分も、また一歩先へ進むべきときが来ているのかもしれない。
その思いが、杯の酒を重たくした。
祝宴の灯の中、ファーレン=グライスの横に立つ、見知らぬ婚約者の姿が見える。
淡く、影のように揺れるその姿を見つめながら、オズベルは静かに杯を傾けた。
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