第30話 風は旗の先より

あの戦から、幾年の歳月が過ぎた。


従騎士であったファーレン=グライスは、今ではひとつ位を上げ、正式な騎士として名簿に列せられている。かつては戦場の末端に身を置いていた彼も、いまや小規模ながら自らの部隊を持ち、命を預かる立場にある身となった。


その側には、常にオズベルがいた。


戦いの中で槍を振るい続けた日々は、彼を確実に鍛え上げていた。過去の戦功に加え、各地の遠征や制圧戦を幾度も経験し、いまや年若い兵からは自然と目標とされる存在となっている。


「……槍を掲げる手が鈍ってきたなどと、言わせませんよ」


冗談めかして笑うその横顔には、かつての荒削りな若者の面影が微かに残る程度だった。


日の出前の空気は冷え込んでいた。陣の一角、馬の鼻息が白く立ち昇る中、オズベルは手早く装具を締め直す。近くにはファーレンの姿もあった。


「全体、十分ほどで出立だ。遅れるなよ、オズベル」


「承知しております、ファーレン様」


かつてのような砕けた言葉遣いは、いまの彼にはない。主従の隔てはあくまで守られ、それでも通じ合うものがそこにはある。


帷幕の向こうで旗が揺れていた。新たに縫われたばかりの軍旗――今やファーレンの名とともにあるその旗は、薄紅を差した朝の光の中で、まるで風の先を指し示すかのように、真っ直ぐに翻っていた。


乾いた風が、草地の尾根をなぞるように駆けていく。

遠くに連なる丘陵の向こう、空の縁にはもう薄く煙が立っていた。火ではない――軍勢の吐く塵煙だった。


オズベルは馬上で手綱を握ったまま、視線を前方に据え続けていた。軽装の騎乗である。前衛の偵察から戻ってきたばかりだった。


「西の丘を抜けてきた部隊が一つ。恐らくはフェルク家の旗です。先発していたとの情報とも一致します」


報告を受けたファーレン=グライスは、頷くだけで特に驚きも見せなかった。

今では“騎士”の名を戴くようになった若き主君は、まだ年若いながらも指揮官としての態度を少しずつ身につけていた。


「接触は?」


「ありません。こちらの存在には気づいていない様子でした。巡回の騎士と二度、視線が交差しましたが、距離を保って通過しています」


ファーレンは、隣の古びた軍地図に目を落としながら言った。


「なるほど……この辺りは小侯たちの派遣軍が交差しやすい。混乱もありましょう。――それでも衝突が避けられているなら、まだましな方か」


オズベルは黙って頷いた。


数年前であれば、こんな会話の中に立つ自分の姿など想像もできなかった。

いまや彼は、ファーレンに最も近い従士――腹心とでも呼ばれる立場にある。


あの戦の後、多くの者が去った。

死に、離れ、行方を絶った者もいた。

残った者の中で、ただ静かに、しかし確かに場数を踏んできたのが彼だった。


部下の指導を任されることもあった。補充兵の世話から、軽い戦の指揮まで。

手足のように動く数人の従士と、小隊規模の隊士たち。オズベルは今や、その中核だった。


彼がそれをどう思っているのか――自分でも時折、よくわからなくなる。


「オズベル」


名を呼ばれ、彼は反射的に顔を上げた。


「敵の接近には気を配れ。西では、まだ日が沈み切らぬうちに火が上がる可能性がある」


「承知しました、ファーレン様」


すぐさま返したその声には、既にかつての素朴さはなかった。言葉には重さと節度が宿り、従者の口調としては、少なくとも兵たちから文句は出ない。


「先遣隊にもう一度、補足を命じろ。丘陵を迂回した道が通れそうか確認したい」


「畏まりました」


オズベルは軽く一礼し、手綱を返すと踵で馬腹を叩いた。

そのまま尾根を駆け下りていく背を、ファーレンはしばし見送っていた。


やがて、足元で砂利を踏み鳴らす音。

オズベルが降りると、そこには彼の部下たちが立っていた。


「――隊を動かす。サリオ、おまえは五人を選び、南へ抜ける路を再確認しろ。トーヴァルは反対の尾根を押さえておけ」


従士たちは素早く頷き、散っていった。

命令の言葉に迷いはない。場数を踏んだ者の口ぶりだった。


残った兵の一人が、軽く息を吐いたように言った。


「オズベル殿、ずいぶんと冷えてきましたね……丘の向こうで、また何かあるんでしょうか」


「火の臭いはなかった。ただ……風向き次第では、何が来てもおかしくはない」


「なるほど」


若い兵士が小さく息を飲む。

こうした一言で、兵の心持ちは大きく変わる。オズベルはそれを知っていた。


派手な鼓舞や叫びは要らない。

ただ状況を言葉にすることで、兵たちは自分の足場を確かめることができる。


それを知るようになったのも、いくつもの戦いを超えてきたからだ。


彼の背後で、隊の旗が揺れていた。

ファーレン=グライスの紋章――銀地に黒の小枝。従騎士時代から引き継がれたその意匠は、いまや騎士旗として軍の末列に翻っている。


遠目には、旗と風と、そして槍の先しか見えない。

だがその先にあるものを、オズベルはかつてよりも、幾分か見通せるようになっていた。


戦の準備は、整いつつあった。

火は、まだ見えぬが――風は、確かに向こうから吹いていた。


丘を越えてすぐ、乾いた風が戦場に吹き抜けた。朝露の消えかけた草原に、砂混じりの土煙がうっすらと立ち、前進する兵たちの視界を曇らせる。オズベルは、槍の石突で土を軽く叩きながら進み、部隊の進行速度を調整していた。


「まだ、姿は見えませんが……斥候は、すでに接触したと」


副隊長の一人が控えめに言う。彼もまた、幾度か戦をくぐった顔つきになっていたが、こうした開けた地形では、敵がどこから現れるかわからず、不安の色は隠せなかった。


「焦るな。焦った者から焼かれる」


オズベルの声は、低く、しかし良く通るよう調整されていた。従兵が小さく頷き、列に伝えるように前方へ走る。ファーレンは後方の高所から全体を見渡しており、細かい指示はすでにオズベルに任されている。今の立場は、指揮というより――戦の舵だ。


その時だった。突如、前列の左翼で叫びが上がり、視界の端に赤い閃光が走った。


「……っ、火か! 魔法兵だ!」


言うが早いか、爆ぜる音と共に左翼の隊列が崩れ始めた。炎が空を裂くように伸び、草原の一点を焼き払っている。火線の中心にいた数人は転げ、あるいは叫びを上げ、あるいはその声すら失っていた。


「全隊、遮蔽物へ! 右翼、三歩後退! 左翼は耐えよ、火線が逸れた瞬間に伏せ!」


オズベルの怒鳴り声が空気を裂いた。即座に、部隊は半ば自動のように動き始める。日頃の訓練と実戦の積み重ねがなければ、これほど迅速な反応は不可能だった。


敵の魔法兵は、一人ではなかった。視線の先、丘の中腹に三つほどの赤い光源。焔術――かつて目にした火槍と似た挙動。距離と角度からして、彼らはこちらの動きを狙い澄ましている。


「……ファーレン様は?」


「後方で控えておられます。介入の命はまだ――」


「ならば、ここは私が動く。あの炎を止めねば、列は保てん」


言って、オズベルは自ら小隊を選び、右翼の林へと移動を開始する。道中、転がる遺体に一瞬だけ目をやるが、足を止めることはない。長い戦の中で、見るべきものと、見てはならぬものの区別は、自然と身についた。


「槍の先で、魔を黙らせるぞ。いいな」


「了解!」


小隊の面々は短く返し、林の中に身を潜めた。オズベルは、火線が集中している中央に対して、斜面の陰から接近を図った。敵の視野の死角となる角度で、かつ距離も近づきすぎないよう慎重に。


風の音が変わる。焔が一瞬、空を裂いたそのとき――


「突撃ッ!」


号令一声。オズベルが先頭に立ち、斜面を駆け下る。槍は両手で深く構え、脚の運びと共に自然と前に出るよう訓練されていた。斜面の下にいた敵兵が驚愕の声を上げる。


「く、来るぞ、槍が――!」


魔法兵の護衛らしき数人が動いたが、斜面の利があった。オズベルが踏み込むと同時に、槍先が敵の胴を貫いた。叫びが上がり、隣の者も倒れる。小隊が後に続き、守りの薄い側面から一気に突破を仕掛ける。


魔法兵は呪文の詠唱を始めかけたが、オズベルがそれより早く距離を詰め、槍の石突で膝を払う。詠唱は中断され、火の光は弾けることなく消えた。背後の兵がとどめを刺す。残る二人の魔法兵も、混乱の中で後退を余儀なくされた。


数分後、火の光は完全に止み、草原に再び乾いた風が戻っていた。地に伏せていた兵が立ち上がり、倒れた者の名を呼ぶ声が、戦後の静けさを際立たせていた。


「終わったか……」


オズベルは息を整えつつ、地面に突き立てた槍を見やった。先端には火の粉を弾いた痕跡が残っている。彼の元に副官が駆け寄ってきた。


「敵、撤退を開始しています。ファーレン様が前進の許可をお出しに」


「わかった。後続に伝令を出し、陣を前へ。焼け跡は踏み荒らすな、火の残り香で足を取られる」


「はっ!」


オズベルが振り返ったとき、少し離れた高所に、馬上のファーレンの姿が見えた。風に靡く騎士のマントの端から、彼はわずかに頷いてみせる。主君の言葉は届かないが、その視線は、すでに全てを伝えていた。


オズベルは槍を肩に担ぎ直し、部隊へと戻っていく。その背に、風が流れていた。旗は、まだ立っていた。


魔法兵の息絶えた丘上に、風が吹いた。

かすかな火の匂いを含んだ風は、戦場の隅々まで行き渡り、敵も味方も一様にその変化を感じ取っていた。


敵兵の足が鈍る。

槍を支え直す音、互いの視線が交錯する瞬間に、オズベルはその“緩み”を見逃さなかった。


「……いま、敵の動き、止まったな」


背後から駆け寄ってきた若い兵が、息を荒くしながら言う。


「丘の上、片がついたようです。魔法兵も……倒されたとのこと」


「確認は?」


「矢倉手前の斥候が合図を出しました」


オズベルは頷き、すぐさま背後へ振り返った。そこには、指揮を預かる中兵の数名と、情報伝達のため控えていた使い番が待機していた。


「合図旗を準備しろ。ファーレン様の意図を早急に受ける」


すでに空は午後の光を孕み、戦場に影を落としつつあった。風に揺れる旗の動きが、いつもよりはっきりと見える。


そのとき、丘の後方、谷筋を回り込む形で展開していた味方の別部隊が、遠目にも明らかな進軍を開始した。

黄色と赤の混じる幟が風に踊り、その先端には《ハインズ家》の印がある。


「ハインズ家の別動が動いたか……!」


オズベルは短く息を吐くと、すぐさま一歩を踏み出した。


「伝令、右側面へ急げ。こちらの隊と進軍を合わせ、丘へ向けて圧をかけると伝えろ」


「はっ!」


「左翼の騎兵予備も動かす。敵が丘から下がれば、そちらで受けて削る。……補助の槍隊を後方に回し、合流地点を制圧させろ」


次々と飛ぶ指示に、周囲の兵たちはほとんど言葉もなく動いた。

かつてならば伝令一つで躓く者もいたはずだ。だが今や、彼らは幾度もの戦を経て、オズベルの言葉が「命の通る道」であることを知っていた。


「オズベル殿、敵の中央がやや動きあり! 丘への圧力が薄れてるようです!」


「ならばこちらは、あえて圧を強めて誤認させる。中央ではなく丘を抜かれたと敵に思わせろ」


「了解!」


土埃が舞う。声が飛ぶ。兵が動く。

それは戦場というよりも、まるで鍛冶場のようだった。熱を孕み、音が響き、鉄と鉄とが軋む。


しかしその中心に立つオズベルの姿は、以前のように槍を掲げて走る者ではなかった。

彼は前線と後方の狭間に立ち、味方の各部隊をつなぎ、声と旗とを通じて戦の形を整える者となっていた。


「このまま包囲の態勢を整えれば、敵は引くか、潰えるかの二択……」


小さく呟いたその声は、どこか静かで、冷えていた。


「……だが、甘く見るな。魔法兵が倒れても、ここはまだ、戦場だ」


再び使い番が駆け戻ってきた。


「報告! ファーレン様より、丘に突入する部隊との連携指揮を一時的に任されたとのこと!」


「了解した。前方、三つの小隊を再編。丘へ向けて楔を打つよう進路を合わせろ。旗の位置はこの場に固定し、後衛との伝達を保て」


もはや彼の言葉を待つ者はいない。指示が飛ぶよりも早く、兵たちは動き出していた。

そこにあるのは、強さではなく、信。かつての戦では得られなかったものが、彼の周囲に宿っていた。


視線の先、遠く丘の上に、小さく見えたのは――ファーレン=グライスの姿だった。

馬上から全軍を見渡す主君。その背を、風が吹き上げ、黒地の旗が烈々とたなびく。


(風は……旗の先より吹く)


オズベルは、槍を握る手をいま一度確かめた。


かつて、自分がただ走り、ただ刺していたころには見えなかったものがある。

その一つひとつが今、眼前に現れ、声となり、戦場を動かしていた。


「前へ。今一歩、進め」


声は低く、だが確かに周囲へ響いた。


指示ではなく、信じる者たちを前に進ませるための一言。

その瞬間、彼は「槍」としてではなく、「旗のもとにある者」として在った。

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