第28話 その槍の価値を示せ
白く霞んだ朝の空の下、オズベルは砦の南側にある兵舎群の一角へ歩を進めていた。昨日、正式に従士として任命された身だ。今朝からは、ファーレン=グライスの配下として、従士詰所に再び戻ることとなっている。
歩調は速くも遅くもなかった。ただ、周囲を行き交う兵の視線が、どこか変わったように思えた。
門番に名前を告げると、あっさりと通された。階級を問われることもない。ただの歩兵ではないという扱いが、皮膚の下にしっとりと染みてくる。
詰所の戸を開けると、先にいた数人の従士たちがこちらを一瞥した。言葉はない。視線も長くは続かない。だが、彼らがオズベルを“同じ従士”として見ていることだけは、ありありとわかった。
そんな中、奥から立ち上がった影があった。
「よお。やっぱお前だったか、オズベル」
振り返ったその男――ラルスは、薄く笑った。先日、野営地でともに任に就いた相棒。今は、同じ従士の一人として、詰所にいた。
ラルスは軽く肩をすくめて、壁際の腰掛けから立ち上がった。剣帯を片手で押さえ、あくび混じりに言葉を継ぐ。
「昨日の動きでなんとなく察してたけどな。……従士、か。まあ、似合ってるよ。なんか、こう、地面の匂いがする感じでさ」
「……よくわからん」
オズベルは少し眉をひそめたが、ラルスは悪びれず笑っている。
「褒めてんの、こっちは。無理に背伸びしてる従士より、土の上にちゃんと立ってる奴の方が頼りになるんだよ」
そう言って、手近な机から水差しを取って一つの椀に注ぐと、無言で差し出してきた。オズベルは礼も言わずに受け取り、一口すすった。
ぬるい水の味が、ようやく朝を連れてきた気がした。
「隊の顔ぶれは、まだ全部揃ってない。お前のことを知らねぇ奴もいる。けど、まあ……おれが言えば、誰も無下にはしないさ」
ラルスはそう言うと、自分も一椀を満たして口をつけた。
「ファーレン様から伝令が来てる。午前中に、野営地まで移動。午後には前線補助に回るってさ。お前も当然、同行な」
オズベルはうなずいた。
命じられれば行く。それが従士という役目ならば、なおさらだ。
だが、これまでのように隊列の一隅でただ槍を握っているのとは違う。隊を導く者の傍に立つということは、選ばれた兵を代表する立ち位置に、自分の名が並ぶということだ。
それは、槍を振るう理由を問われるということでもある。
椀を置き、立ち上がる。
「支度、しておく」
短くそう言って詰所を出ると、冷たい朝の空気が再び肌を包んだ。
空は淡く、だが確かに戦の色を帯び始めていた。
陽はまだ半ばを越えたばかりだったが、野営地に立ち込める空気は既に鉄の匂いを帯びていた。帷幕の間を歩く兵たちの動きには、緊張と慣れが混ざり合い、どこか沈んだ熱気が漂っている。
オズベルは、従士としての装備を改めて身に着けたまま、割り当てられた小さな天幕を後にした。革製の肩紐で留められた小剣、継ぎを当てた槍の柄。どれも昨日までのものと大差はない。だが、周囲の目はわずかに変わっていた。
朝の報せ通り、午後のうちに部隊は主道へ進出することになっていた。従士としてファーレン=グライスに随行すること、それ自体に重責はあるが、それ以上に、他の兵の視線の冷たさを、オズベルは自覚せずにはいられなかった。
「……おい、あれじゃないか。新しく従士になったっていう……」
「たかが農民が、従士になったら調子に乗ってすぐに死んじまうんじゃねぇか?」
耳に入る声は多くないが、わざと聞こえるように言っている。そういうことだと、ラルスからも釘を刺されていた。
野営地の一画、背の高い黒髪の若者が、馬の口を引いてこちらに向かってくるのが見えた。ラルスだ。すでに鎧は着込み、半分笑ったような顔をしている。
「おう、新入り従士殿。槍の磨きは足りてるか?」
ラルスは肩で笑いながら、馬を繋ぐ杭のそばで足を止める。騎乗するのではなく、馬は荷を運ぶためのものだ。斥候任務に出る隊は、しばしば徒歩と騎の混成となるが、彼らは今回、地形上の制約から歩兵装備での進出を命じられていた。
「……槍は、いつでも使えるようにしてある」
オズベルは短く答え、槍の石突を地に立てた。
「ならよし。今日は森の縁を抑えてる前衛の再確認だ。昨晩、歩哨がわずかな動きを報せてる。気づかぬふりをしてたが、もう限界だってさ。こっちから先に動くことになる」
「接敵、するのか?」
「可能性は高い。だがそれより……」
ラルスは一歩近づき、低く言った。
「お前の“立場”を見てる奴が多いってことを忘れるな。兵どもの何人かは、まだお前の槍がどれだけ刺さるか、試したがってる」
それは敵兵の話ではなかった。
だが、オズベルは目を逸らさず、ただ静かにうなずいた。
「……わかってる」
誰に示すでもない、槍の柄の重み。
その重さが、今は一つの“答え”になる。
藪の奥に、一斉に矢が飛んだ。
「接敵! 突撃準備!」
ファーレンの怒声とともに、槍が構えられた。斜面の陰から現れたのは、先の戦で散った敵の残党か、それとも斥候部隊か。装備はまばらで、だが動きは速かった。
数にして二十に満たない。だが、馬を持つ数名がこちらの側面を突こうとしていた。
「馬だ、右側に! 止めろ!」
叫びが飛ぶ。オズベルは一歩前に出て、槍を構えた。右から迫る影を見て、足を止めずに突き出す。
手応え。甲冑越しの肉を貫いた感触が、掌に重く返る。
そのまま斜面に転がる騎乗兵。馬は悲鳴を上げて逸れていった。
すぐさま別の兵が止めを刺し、残りの敵は散り散りに撤退した。
小競り合いだった。だが、先に気付かねば、側面からの突入で隊は乱れていた。
「負傷者を運べ! 斜面を押さえ直せ!」
指示を飛ばすファーレンも、肩に傷を負っていた。だが顔は平静を保ったまま、指揮を続けていた。
斜面の木々が揺れるなか、戦場に静けさが戻ってくる。
やがて、オズベルは一歩下がり、斜面の端で槍を地に立てた。
息を整えながら、背を伸ばす。
ふと聞こえた声に、首をわずかに傾ける。
「……あれか。戦功で従士ってやつ。農民から、いきなりなれるもんなんだな」
「突きの速さは悪くなかったけどな。槍の動き、ちょっとぎこちなかったろ?」
「まあな。でも、あの馬上兵を止めたのは確かにあいつだ。グライス様も見てた」
「ってことは、これが初任務か。……農民上がりの従士様、ってやつかよ」
オズベルは何も言わず、遠くを見ていた。
声は聞こえている。だが、気に留めるものではない。
背後から歩み寄ったラルスが、ぼそりと笑う。
「言わせとけ。……そういうのは、何人も見てきた」
「……」
「でも、お前が馬を止めたのは事実だ。俺は見た。あれは、従士の突きだった」
そのとき、踏みしめる音。静かな、整った足音。
「――よくやった。オズベル=ハスタ」
ファーレンが近づいてきた。肩の包帯は、すでに血で滲んでいる。それでもその目は、凛としていた。
「お前の突きが、隊の混乱を防いだ。……初任務としては、上出来だ」
「……はっ」
オズベルは一歩前へ出て、槍を立てたまま、敬意を示す。
ファーレンは頷き、周囲を見渡す。
「敵の動きは散発的だ。だが、このあたりで野営の可能性もある。……ハスタ、ラルス。斜面の南東を確認しろ。騎乗は禁止。足で見ろ。戻ったらすぐ報告しろ」
「了解」
ラルスが応じ、オズベルも頷いた。
ふたりはすぐに斜面へと向かう。背後には、まだ血と焦げの匂いが残っていた。
彼らが去ったあと、ふたりの兵がぽつりと口にした。
「ハスタ、か。槍って意味だろ?」
「悪くない名だよな。……似合ってる」
「農民上がりにしては、な」
風が吹いた。戦場の残響が、遠くへ流れていく。
夜明けとともに、山道を踏破した。
森の陰を縫って進んだ小一隊は、岩稜地帯の外れに姿を現す。敵の斥候とすれ違わぬように、背を丸めて慎重に進み、ようやく傾斜の緩んだ尾根に達した。そこに、戦の予感はあった。
谷を見下ろす位置に立った時、オズベルは目を細めた。木々の合間に、薄黒く揺れる影。動きのない幟のようなものが見える。
「……先の斥候の報告通りだな」
馬を下りたファーレン=グライスが声を低くする。従士ラルスが頷いて言った。
「恐らくはあれが敵の前衛陣。数は……十五から二十、まとまって動いています。恐らくは巡回かと」
オズベルは、緊張した面持ちで前を見つめていた。
それが初めての、“従士ハスタ”としての実戦であった。
彼は命じられるでもなく、自らの槍を構え直した。
その動きを見たラルスが少しだけ口元を歪めて言う。
「張り切ってるな。……ま、見せ場だ。こっちに来れば、迎えてやるしかない」
「来るぞ」
ファーレンが呟いた。
谷底の小道を抜けた敵影が、こちらへ向きを変える。風が吹き、敵兵の持つ槍が夕日に照らされる。
「――伏せっ!」
号令とともに、部下たちは姿勢を低くする。ファーレンは視線を切らずに命じた。
「五騎残して待機。残りは、俺についてこい」
オズベルはその言葉を受けて駆けた。
敵影が距離を詰めた。十丈、五丈、すれ違いざまにこちらへ気づいた一人が叫ぶ。
「伏せろ、抜けるぞ!」
だが、その声より早く、オズベルの槍が突き出された。
疾走する敵兵の肩口に直撃したそれは、鋼鉄の鉤爪のように装甲を裂き、男の体を馬上から引きずり落とした。
悲鳴が上がる。
それを合図に、伏せていた味方が一斉に飛び出した。
「かかれ!」
ラルスの叫びとともに、短剣を構えた者たちが斜面を駆け降りる。
ファーレンも駿馬を駆って敵陣を切り裂いた。敵は混乱し、まともに応戦できずに弾け飛ぶように散った。
オズベルは、二の槍を敵の背へ突き立てた。目を見開いたまま倒れ込むその男を振り返ることもなく、すぐに次を探した。
息を切らす暇もなく、戦いは終わった。
十数人いた敵の斥候隊は、数人を残して斃れた。残った者たちも追撃の末、深い谷へと落ちていった。
ファーレンは馬を下り、仲間たちを見回した。目立った負傷はない。死者もいない。斥候襲撃としては、これ以上ない成果だった。
「……ハスタ」
彼はオズベルの名を呼んだ。
「俺が背後を見た時、もうお前の槍は伸びていた。あの一撃がなければ、俺は敵の主力をまともに背負っていた」
オズベルはただ黙って立っていた。だが、その眼差しは確かに主君の言葉を受け止めていた。
「……お前を選んで正解だったよ」
それだけ言うと、ファーレンは再び馬へと跨がった。
ラルスが小声で囁く。
「初陣にしちゃ、上出来だな。これでようやく、ハスタの名に血が通ったってもんだ」
オズベルは、槍の先についた返り血を黙って拭った。名を授かるよりも前に、戦場に立ち、命を賭けていた。だが、今ようやく、自分が戦の中で役割を持てたことを、彼は肌で理解した。
「戻るぞ。まだ道は半ばだ」
ファーレンの言葉とともに、小隊は再び森へと姿を消した。
日は既に傾きかけていた。
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