第25話 「槍の穂、再び向けられ」
低木の間を踏み分け、ラルスが手を挙げて制止の合図を出した。
その指先の先――森が一段、開けている。風に煽られた枝葉の音の下、踏みしめる音があまりに重たく響いた。
「……動いてる。三、いや、四か」
ラルスが、地面すれすれに身を沈めながら言う。
マルクが頷き、手早く槍の穂先に布を巻きつけて反射を防ぐ。
オズベルもまた、膝をつき、地面に手を当てた。踏み跡は浅いが新しい。濡れたような匂いが、すぐそこにいた気配を裏付けている。
「斥候か」
ラルスが小声で言った。
「距離を取って引くか? 報告だけでもいいだろ」
マルクがそう言ったとき、藪の奥でわずかに金属の鳴る音がした。
「……もう遅いな」
ラルスの声と同時に、葉を払うように敵が現れた。斜面の上、三人。粗末な革鎧に剥き出しの剣。
先手を取られたのは向こうだった。だが、彼らは逃げる素振りを見せない。むしろ――
「囲む気か。後ろからも来る」
ラルスが呟き、すぐに叫んだ。
「構えろ、下がるぞ!」
槍を前に突き出し、三人は背を向けずに退く。相手も深追いはしてこない。距離を測るように、じりじりと間合いを詰めるだけだ。
「追う気はないな……牽制だ。こっちの動きを探ってる」
「じゃあ、ここで叩く?」
マルクが息を整えながら問う。ラルスは答えず、視線だけをオズベルに投げた。
「……やるか?」
「はい」
オズベルは短く返した。その声に、ラルスの口元がわずかに吊り上がった。
「よし、三歩前進。槍を開けて、俺が先頭を取る。オズベルは右から入れ」
敵の位置に光が差した。戦の火が、また始まろうとしていた。
斜面の影から飛び出してきた敵の一人が、低く吠えるような声をあげて剣を振りかざした。
「下がるな、オズベル、右へ!」
ラルスの叫びが風を割る。咄嗟に足を横へずらし、オズベルは半身で槍を突き出した。敵の剣は空を切り、オズベルの槍先が肩を裂いた。だが、肉を割った感触の後、相手は踏みとどまり、剣を振り下ろしてくる。
「……重いっ」
槍を持ち上げて受け止める。衝撃に足が軋む。だが、それでも崩れはしなかった。
その一瞬の隙に、ラルスの槍が横から打ち込まれた。呻き声を上げて敵が崩れる。泥の上に崩れた敵を振り返る暇もなく、次が来る。
「くそ、二人目!」
マルクの声とともに、背後で金属音が弾けた。彼の槍が敵の太刀を受け止め、滑るように外へ弾き出している。その動きは粗いが実戦慣れしていた。
だが、マルクの肩がぐらついた。
「うっ……!」
「マルク!」
ラルスが叫び、身を翻して間に入る。マルクの肩から、赤いものが滴っている。浅くない。
「下がれ、下がれ! 一旦後退!」
「でも――!」
「命令だ! 引くぞ!」
ラルスがオズベルの腕を引く。迷いはなかった。敵もそれ以上追ってこなかった。三人のうち、一人は倒れ、二人は手傷を負っていた。
茂みを抜けて森の裏手へ逃れる。足元はぬかるんでいたが、斜面が視界を閉ざすまでに距離を取ることはできた。
「くそ、応急処置を……布を貸せ!」
ラルスが言いながら、マルクの背を木に預ける。オズベルは荷嚢から布を取り出し、差し出した。ラルスはすぐに巻きつけ、圧迫しながら問う。
「動けるか?」
「……たぶん、まだ……少しなら」
マルクが歯を食いしばってうなずく。血の気は引いていたが、意識はある。
「戻るぞ。これ以上の接敵は避ける。オズベル、お前が前を行け。何かあったら即報せ」
「……はい」
槍を構え直し、再び歩を進める。倒した敵の顔は、思い出せない。突き刺した感触だけが、腕の中に残っていた。
自分が守ったのか、それとも運が良かっただけか。
それすらまだ分からない。ただ、誰かが隣にいて、その誰かが倒れかけたとき、自分が前に出ていた。――それだけが、確かだった。
戻ったのは、日が傾きかけた頃だった。灰色の空の下、森を抜け、詰所のある小高い丘へとたどり着く。歩みは遅かった。マルクの傷は深くはないものの、動くたびに痛みが走るようだった。
「ここから先は俺が背負う」
ラルスがそう言ってマルクの腕を取り、肩を貸す。彼の顔からは、先ほどの険しさが少し抜けていた。
「悪い……」
「礼はいい。どうせすぐまた使う羽目になる」
軽口のような言葉に、マルクは小さく笑った。
詰所の前までたどり着くと、見張りをしていた若い従士が目を見張るように声を上げた。
「おい、傷人だ! 薬係呼べ!」
中から駆けつけた二人がマルクを引き取り、手早く詰所内へ運び込む。その騒ぎを聞きつけてか、ファーレン=グライスが奥の間から現れた。剣帯を巻いたまま、戦装束のままだった。
「どういう状況だ」
「三人編成で斥候に出た先、敵影を確認。三人中一名負傷。二名は無事帰還しました」
ラルスが即座に報告する。その声ははっきりしていたが、どこか僅かにかすれていた。
ファーレンは頷き、オズベルへ視線を移した。
「お前は」
「……無傷です」
「敵は何者だ」
「三名。武装に統一はなく、装いは雑多。恐らくは……」
言葉を選ぶ。だが、頭に浮かぶのは、あの乱れた剣の振り、無言の突進。
「戦で散った部隊の残党……もしくは、野盗に近い存在かと」
ファーレンはそのまま、短く頷いた。
「ラルス」
「はい」
「明日の朝、再度斥候。別の組と交代だ。休んでおけ。オズベル――お前はこのまま、従士見習いとして動いてもらう。異議はあるか」
オズベルは首を振った。
「ありません」
「なら、今のまま動け。しばらくは手を借りることになる。……今日の働きは見ていた者がいる」
ファーレンはそれだけ言うと、踵を返して去った。従士らの間に微かなざわめきが走る。視線の幾つかが、オズベルに向けられていた。
「なあ、見習いって言っても、もう一人前みたいなもんじゃないか」
誰かがぽつりと言い、ラルスが笑った。
「まあ、口の利き方はもうちょい覚えた方がいいがな」
「……気をつける」
オズベルがぽつりと返すと、詰所の奥で笑いが広がった。敵の血の匂いがまだ鼻に残っていた。だが、それでも――この場に、居てもいいのかもしれないと思えた。
夜が来た。風は乾いていたが、火のそばだけは暖かかった。
詰所の裏手――小さな炊事場の近くに、臨時の焚き火がひとつだけ灯っていた。木片のはぜる音が、辺りの沈黙を切り裂いていた。
オズベルは、その火のそばに座っていた。槍は手元にある。すでに血は拭ってあるが、刃の根元にこびりついた泥が、戦場の記憶を曖昧に残していた。
「おい、まだ起きてたのかよ」
背後から声がした。振り返ると、ラルスが干し肉を手に近づいてくる。
「ほれ。今日の残り。お前が食いそびれてたからな」
無造作に差し出されたそれを、オズベルは少し迷ってから受け取った。
「……悪い」
「いいって。今日の働きは悪くなかった。マルクを担いで戻るだけでも、たいしたもんだ」
ラルスは隣に腰を下ろす。火を見つめたまま、何かを言いかけては黙った。
「俺は……」
沈黙ののち、オズベルが口を開いた。
「斬った相手の顔、ちゃんと見てない。動きだけで、体が動いた」
「それでいいさ。顔なんか見てたら、槍は止まる」
ラルスはそう言って笑った。
「お前、前の戦で、逃げずに残ったんだってな。口入屋の親父が言ってた」
オズベルは小さく頷いた。
「あの時は、動けなかっただけだ。ただ……列が潰れて、全部が崩れて、誰がどこにいるのかも分からなかった」
「そういうのを“逃げなかった”って言うんだよ。どんな理由だろうと、残った奴が次の場所をもらえる」
ラルスは火の枝を拾い、火の中で炙るように回す。
「俺も一回、崩れた。前に仕えてたところでな。あれはもう、まともな戦じゃなかった。でも、戻ったら何人かが見ててくれて、それで今がある」
火がぱちりとはぜた。
「だからまあ、お前も気にすんな。ファーレンが『見ていた者がいる』って言ってたろ。俺もそう思ってる。誰も見てないと思ってる時ほど、見てる奴はいるんだよ」
オズベルは何も言わずに頷いた。火の温もりが、頬の泥に染み込んでいくようだった。
遠くで夜の風が、木々の葉を鳴らしていた。槍はそばにある。使い慣れてなどいないが、けして手放したいとも思わなかった。
従士見習い――その立場は、まだ仮のものに過ぎない。それでも、今日の一歩は、確かに何かを前へ進めたのだと感じていた。
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