第20話 敗走と孤独
そして、空気が微かに震えた。
敵陣の奥――無数の角笛が、再び空に響く。
それは、さきほどまでのものよりもはるかに強く、鋭い合図だった。
「……来るぞ」
オズベルが低くつぶやく。
地響き。
遠くで馬のいななきが重なり、鎧の金属音が波のように押し寄せる。
前方――敵軍が全軍を挙げて突撃してくるのが見えた。
今度はさっきより、はるかに密集した重装兵の列、その背後に騎馬兵、そして槍を携えた歩兵の群れ。
「列、乱すな! ――踏みとどまれ!」
オズベルが叫ぶと、ノランが「了解っす!」と振り絞るように返す。
ベーネも、エルも、歯を食いしばって前を見据える。
だが、戦場の空気はすでに異質なものに変わっていた。
味方の列のあちこちで叫び声。乱れ。誰かが転び、誰かが槍を落とす音。
「やべぇ、後ろ下がってきてるぞ!」
誰かが悲鳴を上げた。
オズベルの視界の端で、補充兵の一人が押し戻され、泥に転げる。
その隙間を、敵兵の槍が一気に突き出された。
「下がるな! 前を――!」
叫ぶ間もなく、右隣の列が完全に崩壊した。
泥と血と叫び声。すぐ脇から敵兵が雪崩れ込む。
ノランが「オズベルさん!」と叫ぶが、その声も混乱の中にかき消された。
ベーネが槍をふるい、敵兵を押し返す――だが、味方の列はすでに後退し始めていた。
どこかで旗が倒れた。
旗手が斬られ、叫びながら泥の中に沈む。
「……下がるな、――まだ――!」
それでも、オズベルは必死に声を張り上げた。
だが、その叫びも、周囲の波に飲まれていく。
足元を泥に取られ、背中を誰かにぶつけられる。
後ろの兵士が転び、オズベルの肩をつかんで倒れかける。
エルの声が「オズベル!」と呼ぶが、その顔はすぐに敵兵にかき消された。
列は――もう、列ではなかった。
気づけば、左右も後ろも、見知った顔はまばらになっていた。
敵兵の怒号と味方の悲鳴が交錯し、戦場全体が押し流されていく。
誰かが「退け!」と叫び、無数の兵士が後方へと殺到する。
オズベルも泥の中、やっとのことで立ち上がる。
ノランの姿を探す――が、もう見えない。
ベーネ、エル、旗手――
誰もが泥と血にまみれて、ある者は倒れ、ある者は必死に後退し、ある者は姿を消していた。
「……っ……!」
オズベルは、槍を強く握りしめたまま、戦場の端へと押し流されていった。
どこまでも続く混乱の波の中で、誰かの叫びも、味方の名も、もはや遠くなっていく。
――列は、ついに崩れた。
戦場の泥の中、オズベルはそのまま倒れ込み、這いながら必死に遠ざかった。
振り返れば、倒れた旗。
地に伏す仲間たち。
そして、なおも前進してくる敵軍の旗――。
誰かの腕を掴んで引きずり、誰かの声に応じて、ただ本能のままに走り続ける。
――生き延びるために。
敗走のはじまりだった。
オズベルは、生き残った数名の兵士とともに、戦場の外れの森へと逃げ込んだ。
泥だらけの顔、傷だらけの手。
無言のまま、ただ息を切らし、互いに支え合いながら森の奥へと歩みを進める。
やがて、夜が訪れる頃には、誰も言葉を発さなくなっていた。
疲労と恐怖。傷と空腹。
それぞれが、自分の生を守るために、黙って歩き続けるだけだった。
――そして、翌朝。
オズベルは、森の中にひとりきりで目を覚ました。
夜のあいだに、仲間はばらばらになっていた。
残されたのは、自分の槍一本と、泥と血の染みついた衣服だけ。
戦場はすでに遠く、もう誰も自分を知る者はいない。
オズベルは、重い体を引きずって森を抜け出し、見知らぬ道をただ歩き始めた。
オズベルは、深い森を彷徨っていた。
足元は泥にまみれ、膝まである草を分けながら進む。
昼は木々の間から鈍い光が差し、夜は冷たい風が枝を鳴らす。
何日も同じ景色が続き、やがて空腹と疲労で足がもつれる。
ようやく森を抜けたとき、目の前に広がるのは小高い丘と、その向こうに聳える石造りの都市だった。
煙が立ち上り、屋根の連なりが地平線まで続いている。
都市の外れには、掘っ立て小屋や粗末なテントが立ち並び、道端には痩せた男たちが力なく座り込んでいる。
衣服はぼろぼろ、顔には疲労の色が濃い。
彼らのほとんどが、オズベルと同じ――戦場から流れ着いた敗残兵か、行き場を失った浮浪者だった。
オズベルは足を引きずるようにして都市の門前に立った。
門番が訝しげに睨むが、よほど同じような流れ者が多いのか、特に追い払われもしない。
都市の中は思ったより活気があり、商人や職人、子供たちの姿もある。だが、路地裏や広場の片隅には、戦で身を落とした男たちが、うつろな目で肩を寄せ合っている。
オズベルは、何とか空腹をしのごうと、広場で日雇いの募集がないか目を光らせた。
だが、慣れない土地では仕事も見つからず、ひたすら人波に流されるばかり。
そんな折――
「おい、兄ちゃん。お前、戦の帰りだろ?」
背後から声がかかる。
振り向けば、薄汚れた長衣をまとった中年の男が、鋭い目でこちらを値踏みしていた。
「その手と顔つき――どう見ても戦場上がりだな。寝る場所もねぇだろう。……雇い口を探してるなら、いい話がある」
背後からかけられた声に、オズベルは振り向く。そこには中年の男が立っていた。薄汚れた長衣をまとい、鋭い目つきでこちらをじっと見つめている。
「俺はヨハン。ここらの口入屋だ。戦場から流れてきた連中をまとめて、仕事に繋げてる」
オズベルは疲れた体を引きずりながらも、黙って頷いた。
ヨハンは軽く笑い、手招きして路地裏へと誘う。
オズベルは人混みを抜け、男の後ろについていく。やがて薄暗い路地裏の空き家に到着する。
中に入ると、土間に腰を下ろしたヨハンがゆっくりとオズベルを見た。
ヨハンはオズベルの大柄な体を一瞥し、薄く笑った。
「お前のその体格があれば、腕っぷしはだいたいわかる。戦場上がりならなおさらだ」
「ここは楽な場所じゃねぇ。だが今ならちょうど兵の募集がある。戦ったことがある奴は歓迎だ」
そう言うと男は手招きした。
オズベルは薄汚れた街の片隅にたむろする浮浪者たちの中に連れて行かれた。彼らもまた戦場から逃げ帰った者たちで、傷だらけの顔や疲れ切った瞳をしている。
ヨハンはそこにいる連中に声をかけた。
「おい、聞け!明日になれば新しい戦場が開ける。腕のある者は来い」
浮浪者たちは口々にうなずき、疲れた体を引きずりながらも希望の灯を胸に秘めていた。
オズベルもまた、名も無き槍兵として再び戦場に身を投じる覚悟を決めていた。
翌朝、街の広場には早くも男たちが集まっていた。
ヨハンは一列に並ぶ者たちをざっと見渡し、ざわつく群れを一喝する。
「聞け、ここの主が来るまで待て。無断で勝手な動きをするなよ」
男たちはそれぞれ疲れ切った表情のまま、黙って整列する。
オズベルは自分の槍を握りしめ、静かに周囲を見渡した。
そこには、荒くれ者、元盗賊、敗残兵……多種多様な顔ぶれが揃っていた。
しかし皆、戦場を知る者同士の妙な連帯感が漂っていた。
やがて、大柄な男がゆっくりと現れた。
「おい、集まったな」
その声にざわめきが収まる。男は一瞥し、鋭い目でオズベルを捕らえた。
「お前たちを率いることになる。腕は確かだと聞いているが、ここは楽な場所じゃない。戦は甘くない。命を懸ける覚悟があるなら、ついてこい」
オズベルは、拳を握りしめ、ゆっくりとうなずいた。
名も無き兵士たちの新たな物語が、今、動き出した。
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