第16話 戦場の礫

叫び声が、耳を劈いた。


 それはもはや言葉ではなかった。怒号とも悲鳴ともつかぬ声が、戦場の地を這い、空を揺らしていた。槍が、剣が、喉笛を裂き、肉を砕く音が、泥と血の中で混ざり合って響く。


 オズベルの足元は、ぬかるんだ地面に沈んでいた。鉄の靴底が泥を吸い込み、まるで足かせのように重さを増していく。だが止まらなかった。止まるということが、即ち“死”を意味していると、体が知っていた。


 「っ……ぉおおッ!!」


 咆哮。喉が切れるほどの叫び。振るった槍が、敵兵の脇腹を薙ぎ払う。肉が裂け、骨が砕ける感触が柄を伝って手に戻ってきた。血が噴き上がる。隣では別の兵が、喉元を掻き切られ泥に沈んでいく。


 だが立ち止まる暇はなかった。土塁の上へ。敵の陣の“喉笛”を突くため、列は進む。


 「間を詰めろ! 散るな、列を保てッ!」


 マリオンの怒声が飛ぶ。列長として、彼女は前線の端で叫び続けていた。その視線の先には、崩れそうな列。疲弊した兵。剥き出しの恐怖に顔を強張らせながら、なおも進もうとする仲間たちの姿がある。


 「副列長、右! 潰れそうだ、詰めてくれ!」


 「了解!」


 オズベルは、振り返りざまに仲間たちへ手信号を送り、わずかに膨らんだ右翼の列を押し戻す。ノラン、ベーネ、ロドリク、エル――すでに言葉はいらない。彼らは彼の動きに合わせて位置を修正し、槍を突き出した。


 敵兵が襲いかかる。牙のように鋭く突き出された短剣が、オズベルの顔面を狙って走る。すかさず頭を引き、脇から槍を突き上げる。刃が、敵の顎を貫いた。


 肉が焼けるような匂い。地面に崩れ落ちた敵兵の肩から、布の破れた断章が覗いた。見覚えのない紋。おそらく、対岸の領主軍か。


 ――領主軍。そう、これが現実だ。


 「っ……あれ……!」


 ノランの声がした。振り返れば、戦列の背後――はるか上空に、複数の旗がはためいている。


 帝国の双頭鷲の黒旗。その隣には、見慣れぬ赤地に白い双線を描いた旗、さらに遠くには緑の竜を描いた紋章旗もある。


 「なんだ……俺たち、どこの所属なんすか……?」


 その呟きに、オズベルもはっとした。


 ――そうだ。俺たちは“帝国軍”だと思っていた。だが……いや、違う。あの旗は、あの紋は。


 思い返す。徴兵の時、徴収官の袖についていた印。彼が持っていた書簡の紋様――それと同じだ。赤地に白双線。聞いたことがある。北辺の領主、ガルデン伯爵の家紋。


 オズベルたちは、帝国の名のもとに戦ってはいる。だが実際には、“領主ガルデンの私兵的部隊”として、この戦場に立たされていた。


 「……なるほどな。俺たちは“国軍”じゃなかったんだ……」


 オズベルの呟きに、ノランが力なく笑う。


 「ま、だからって、やることは変わんねえっすけど」


 ――変わらない。敵が目の前にいて、自分が槍を握っているなら、それがすべてだ。


 「右、進め! 土塁まであと十歩だ!」


 号令が飛ぶ。


 前線の列が、最後の突進を開始する。


――オズベルたちは、泥を蹴った。


 土塁は、想像していた以上に高かった。


 視線の先にある斜面は、雨で削られ、ところどころが泥となって滑っている。踏みしめれば沈み、掴もうにも草は引き抜けるばかり。人が駆け上がるにはあまりに不向きな地形だった。


 だがそれでも登らねばならない。そこを超えねば、戦列の圧力は届かない。


 「ノラン、ロドリク! 前列援護! ベーネ、エル、続け!」


 副列長としての声が自然と口から出た。もう命令することに迷いはなかった。


 「了解っす! 行くぞ、ロドリク!」


 「おう!」


 先陣を切るノランとロドリクが、左右に展開して土塁の縁に突きかかる。敵兵が迎撃に現れた。盾を構えた一人がロドリクの前に立ちはだかり、もう一人が上段から斧を振り下ろした。


 ガキィン、と金属がぶつかる音。ロドリクは槍を斜めに構えて衝撃を受け流し、ノランがすかさず斜面を駆け上がって槍を敵の脇腹に突き入れた。


 「っしゃあっ!」


 ノランが声を上げ、敵兵を土塁の向こうへと突き飛ばす。その隙にオズベルが中央から駆け上がる。


 足元の泥が滑る。だがもう止まれなかった。


 「ぉおおおおッ!」


 喉が裂けるほどの叫び。腕に力を込めて槍を突き出し、斜面の敵兵と組み合う


 「ノラン、ロドリク、ついてこい!」


 オズベルの声に、背後から二人の気配が応じる。


 「了解っす、副列長!」

 「応っ!」


 命令に即応できる関係になっていた。まだ数度しかともに戦っていないとは思えないほど、動きに迷いがない。


 そのまま、三人は泥斜面を駆け上がった。足が滑り、泥が跳ね、脚がとられる。それでも進む。槍を突き立て、身体を支え、前に――前に。


 斜面の上、先に上がっていた先遣隊の兵が叫ぶ。


 「斜面、空いてるぞ! こっちへ!」


 その声を合図に、オズベルは最後の一歩を跳ね上がった。滑る足を抑え込みながら、膝で斜面を乗り越える。視界が一瞬、開けた。


 土塁の上。そこには、折れかけの柵。崩れかけの小壁。その向こうには、敵の陣地が広がっていた。


 ――目と目が合った。


 敵兵。槍を構えた少年のような顔。恐怖と驚愕に満ちた眼差し。それは、こちらを見て、瞬間、踏み出しかけた。


 オズベルは一歩、踏み込んだ。

 槍が地を擦る。勢いそのままに、前へ突き出す。


 「ッ――うおおおお!」


 叫びとともに、彼は刺した。


 槍が鎧の下を裂く感触。敵兵が崩れる。息を飲むような音。背後から、ノランとロドリクが続いた。


 「こっち、まだ空いてるっす!」

 「踏み止まれ、隊列呼べるぞ!」


 土塁上の小さな突破口。その一瞬を、三人の連携が押し広げた。


 後続の兵が這い上がってくる。戦列が繋がる。槍が揃い、前を向く。


 そして、次の瞬間――


 「旗、見えたぞ!」


 誰かの叫びに、オズベルは顔を上げた。


 彼方、斜面の向こう。激戦の煙と土埃の先に――数本の旗が翻っていた。


 中央に金糸で刺繍された大鷲。左右に二つ、異なる家紋が配されている。


 ――帝国の旗だ。そして、その左右に、諸侯の家旗。


 「……あれが、俺たちの……」


 オズベルの声が、自然と漏れた。


 これまで、ただ命令に従い、進めと言われれば進み、戦えと言われれば戦ってきた。だが今、初めて、自分が何の軍に属しているのかを、目で見て、知った。


 ――自分は、帝国軍ではない。あの旗の一つ。自分の村の領主、フレイゼル家の紋が、帝国旗の横で揺れている。


 つまり、自分たちは領主軍なのだ。帝国の命を受けた、諸侯の私兵的な列。


 それを、今、視覚で知らされた。


 「……フレイゼルの連中か。あの旗……間違いねえっす」


 ノランが隣でぼそりと呟いた。泥だらけの顔に、わずかな皮肉のような笑みが浮かんでいた。


 「俺ら、ずっと何も知らずに戦ってたってことすかね……」


 オズベルは答えなかった。ただ、戦列の前へ再び槍を構えた。


 旗があろうと、なかろうと、やることは変わらない。

 だが、知ってしまったことで、ほんの少し――ほんの少しだけ、立ち位置が変わった気がした。


 ここが、どこかを知ること。自分が、誰に仕えているのかを知ること。


 それは、戦場の中で、武器や盾と同じくらいの意味を持つのかもしれない。


 「……行くぞ。俺らの旗だ」


 その言葉を皮切りに、オズベルの列が動いた。


 泥濘の土塁の上から、さらにその先へ。槍を前に、声を合わせて突き出す。


 その動きが、次の突破口となる――そんな気がしていた。


 土塁の上から見下ろす敵陣は、想像以上に脆かった。


 柵の隙間から見えた敵兵たちは、すでに混乱の中にあった。土塁を越えてきた者たちに備えるどころか、列の再編すらままならず、ばらばらに動いていた。槍を構えたまま後退する者、仲間を呼び合って逃げる者。中には、すでに武器を捨てている者さえいた。


 「副列長、左から――来ます!」


 ロドリクの叫びと同時に、横合いから鋭い突撃が迫った。


 敵の小部隊が、散乱する戦列の隙間を縫って駆けてくる。狙いは明確だ。まだ列を整えきれていないオズベルたちの戦列。その隙を突こうとしていた。


 「ノラン、ベーネ、右へ一歩。構えろ!」


 オズベルは即座に号令を飛ばした。敵の突撃に備えるように隊列をずらし、槍の穂先を一斉に向けさせる。


 「了解っす、副列長!」


 ノランの返事が響く。


 敵の足音が近づく。だがその気配は、恐怖よりも鮮烈な集中を促してくる。オズベルは息を殺した。


 そして――激突。


 敵兵の先頭が突きかかってくる。狙いは中央、オズベルの位置。


 「遅えよッ!」


 槍の柄を滑らせ、突き出した。敵の胸甲に直撃。勢いのままに吹き飛ばす。衝撃で肩に痛みが走るが、そんなものは意識の外だ。


 ロドリクの一撃が、敵の太腿を貫く。隣ではノランが叫ぶ。


 「こちとら副列長が前に立ってんすよ!」


 槍が、敵の横腹を貫く音。悲鳴が上がる。


 仲間たちは、もう“ただの徴兵兵”ではなかった。戦列の中で、生きて、動き、判断している兵士だった。


 敵兵たちは、防ぎきれないと悟ったのか、あっという間に散っていった。


 彼らの足元には、血と泥の混ざった戦場の匂いだけが残った。


 「……踏みとどまったな」


 マリオンの声が、背後から聞こえた。


 列長である彼女は、常に一歩後ろから全体を見ていた。その姿は、一見すれば戦わず指示するだけの役割に見えるかもしれない。


 だが、オズベルは知っている。彼女の目は、常に列全体を守るために動いていることを。


 「副、よく動いた。あんたの指示がなけりゃ、この列は潰れてた」


 「……いや、皆が持ちこたえただけだ」


 オズベルは短く答えた。だが、どこか誇らしい気持ちが胸を満たしていた。


 兵の顔を見る。皆、疲労はある。傷もある。だが、視線は生きていた。誰もがまだ立っていて、槍を握っていた。


 「よし、次はこの列で、前へ出る。土塁を維持したまま、さらに押し上げるぞ!」


 マリオンの号令に、列が再び引き締まる。


 そのときだった。


 遠方、戦場の奥に――閃光が走った。


 真紅の光。それは、空中で火のように弾け、敵陣の一部を灼いた。


 「……魔法兵、か?」


 誰かが呟いた。


 オズベルは、目を凝らす。あの光。以前、戦場で見たことがある。味方の魔法兵――戦術魔導士が放った火術だ。


 それは合図だった。


 「来るぞ……次の波だ。こっちも陣形整えて備えろ!」


 戦場の流れが変わりつつあった。


 そしてオズベルたちは、その中心にいた。


 地面が、揺れた。


 轟音――いや、もはやそれは音というより圧だった。空気そのものが爆ぜ、振動が肉を叩いた。視界の端、敵陣の一角が爆炎に包まれる。


 「火術、第二波……こっち側にも来るぞ!」


 叫び声が響く。味方の魔法兵による大規模な攻撃が、いよいよこの土塁周辺にも拡大してきたのだ。


 「魔法兵って、こんなに大っぴらに撃ってくるんすね……」

 「いや、これだけ戦線が開ければ、隠しても仕方ないって判断だろうな」


 ノランとロドリクの会話が、緊張の合間を縫って漏れる。


 火術だけではない。別の方角では、氷のように白く凍てついた霧が立ち込めていた。敵兵がそこに踏み込んだ瞬間、動きが止まり、味方の槍に貫かれて倒れていく。


 ――だが、オズベルの目は、それ以上に別のものへと吸い寄せられていた。


 火の煙の向こう、敵の本陣と見られる場所に――巨大な紋章旗が立っていた。


 黒地に銀の三重線。見たことのない紋章。だが、その周囲に集う部隊の整然さ、その陣の守りの堅さ。そこがこの戦の中枢であることは明らかだった。


 「……あれが敵の“主”の旗か」


 オズベルは、低く呟いた。


 そして同時に、気づく。


 自分たちの列の役割が、まさにこの“中枢”へ向かう突破口の一端であることを。


 ――ただの一列。それだけではない。後列、左右、すべてが連動し、今この瞬間、巨大な包囲の波を形成している。


 「俺たちは……大きな歯車の一つってことか」


 その事実に、圧倒されそうになった。だが、不思議と胸の奥には納得の熱が宿っていた。


 これまで、自分たちは小さな戦場に投げ出されるだけの、駒のような存在だった。だが今、自分のいる位置、その一挙手が、軍全体の動きの一部となっている。


 列長マリオンが前に出る。指を高く掲げ、合図を送った。


 「次、右斜め前方! 突破列との連携! 五列縦隊、前進準備ッ!」


 命令が伝令によって走る。


 そして――その前進が始まった。


 隊列が動く。隣の列、さらに後方の重装兵たち、剣盾部隊、魔法兵。それぞれが波のように動き、敵の陣地を削り取っていく。


 「オズベルさん、俺たちも動くっすよ!」


 ノランが、少し口元を引き締めながら叫ぶ。


 オズベルは頷いた。


 「行こう。……俺たちは、ここで止まるわけにはいかない」


 再び、列が動く。槍を構え、土塁の下へ駆け下り、敵陣へと踏み込む。


 地鳴りがするほどの戦列の踏み込み。その一角に、確かにオズベルたちがいた。


 泥と血と炎と氷と。すべてが渦巻く戦場の中心で。









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