第14話 重き槍先
泥の上を、鈍く響く足音が進んでいく。
槍を構えた男たちが、無言のまま歩いていた。靴底に絡みつく粘土質の土。雨上がりの冷気が、地面から腿の裏へと這い上がる。重い。濡れた鎧も、湿った空気も、黙りこくった列の空気も。
けれど、列は崩れなかった。
「歩幅、ずれてるぞ……間、詰めろ」
声は小さかったが、前後の兵たちが即座に反応する。
副列長――オズベルは、列の左翼を任されていた。初陣を経てなお緊張は残るが、足は止まらない。前を見る。自分の指示で人が動き、列が保たれる。その感触が、少しずつ身に馴染み始めていた。
戦列とは、こうして「維持」されるものだと知った。
先の戦では、列を崩さず帰還できた。敵の刃を跳ね返したのは、自分一人の力ではなかった。皆がその場で「列を信じた」から、耐えられたのだ。
今のこの訓練も、決して無意味ではない。
――自分が“副列長”である以上、声を出すのは義務だ。
「右、半歩寄れ。間、詰めて」
隊列の一部がわずかに歪み、それを即座に正すように小声で伝える。前方にいるマリオン列長は、なにも言わない。ただ、それを見ていた。
数刻前、指示が下された。
「全列、最終調整を終え次第、集結地点へ移動せよ。戦域移動に備えること」
兵たちはその意味を、言葉にせずとも理解していた。
これは、ただの訓練ではない。
「でけえ戦が来るってことっすよね」
列の中ほどから聞こえた声に、オズベルは振り返らずに返す。
「そのとき、列を崩さないための練習だ」
「……了解」
声の主はノランだった。肩越しに視線を送ると、彼もまた槍を握り直し、前を睨んでいた。
訓練の終了を告げる角笛が遠くから響いた。
列が止まり、静かに整列が解かれる。
オズベルは槍を立てたまま、泥に沈んだ足を引き抜き、深く息を吐いた。
「よく保ったな」
後ろからマリオンが声をかけた。
「列がまっすぐだった。……前より良くなってる」
それは、無骨な列長にしては珍しい、明確な言葉だった。
「お前の列も、だいぶ“らしく”なってきた」
オズベルは何も返さず、ただ軽く頭を下げる。
そのときだった。伝令の若い兵が、泥を跳ね上げて駆け寄ってきた。
「列長殿、副列長殿、緊急通達! 軍本隊より、前線再配置の命あり!」
「……来たな」
マリオンが呟いた。
「これでようやく、戦らしい戦になる」
日が傾き始めた頃、オズベルたちは列を抜け出していた。
野営地で命じられたのは、前線予定地の廃村への偵察だった。偵察といっても、地形の把握と残存物資の確認、周辺の敵影の有無を確かめる程度。戦ではない。だが、誰の目にも、これは“火種”だった。
「廃村って、……嫌な予感しかしねえ」
後方からベーネが呟いた。軽口とはいえ、緊張を紛らわそうとしているのがわかる。
「やることは決まってる。列を崩さず、先に動かない」
オズベルは振り返らずに答える。
泥に覆われたあぜ道を進み、廃村の手前で隊列は止まった。
瓦礫と朽ちた木柵が斜めに倒れかけている。かつての畑だったらしき場所は、いまや草に埋もれ、遠くで風が葉を揺らす音だけがしていた。
マリオン列長が前に出る。
「右側、槍兵三。左は盾一、弓一。俺は正面から進む。副は左から回れ」
オズベルは頷き、ノランともう二人を引き連れて左手の物陰へと移動する。静かに、音を立てずに。瓦礫を踏まないように。
そのときだった。
――キィ、と軋むような音。
次の瞬間、古びた小屋の影から矢が飛んだ。
「伏せろッ!!」
オズベルが叫ぶより早く、前を行く兵が肩を押さえて倒れた。
「矢だ、物陰に伏兵あり! 数は五、いや六!」
どこかから叫び声が返る。
「動ける奴は右から回れ! 正面は引け!」
オズベルは即座に、瓦礫の間を抜けて小屋の裏手に回る。ノランが後に続き、斜めから突入する形で小屋の裏を突いた。
敵兵の一人が驚いて振り返るが、遅い。
オズベルの槍が突き出され、胸を貫く。
呻き声が上がり、敵が崩れる。すぐさま別の兵が飛びかかるが、ノランが膝を蹴り、相手を転ばせた。そこへ後続が追いつき、混乱の中、抵抗は潰えた。
やがて、静寂が戻る。
「全員、確認!」
マリオンの号令が響いた。
「負傷二。死者なし!」
報告に、小さく安堵の息が漏れる。
だが、オズベルは血に濡れた槍を見つめたまま、動かなかった。
「……あんたが叫んでくれなかったら、俺、たぶんあの矢、もらってたっす」
ノランが隣で言う。
「反応、速かったっすよ。……副って感じじゃなくて、もう完全に隊の“先”だ」
オズベルは答えなかった。ただ、風に揺れる古びた屋根の上を見上げていた。
やがてマリオンが近づいてくる。
「次からは、こういう小手先じゃ済まんぞ」
「……分かってます」
「じゃあ、次も守れ。列を、仲間を」
その言葉に、オズベルははっきりと頷いた。
廃村からの帰還は、黙々としたものだった。
戦果はあった。敵は排除し、死者は出なかった。だが、誰も声を上げなかった。オズベルも、槍を肩に担いだまま、ただ列の中に戻っていった。
野営地に戻ると、空気が変わっていた。
慌ただしい足音。伝令の声。荷馬車の荷台に積まれる補給物資。普段よりもはるかに規模の大きな動きが、そこかしこで起きていた。
列の兵士たちがざわめく。
「……何か、始まるのか?」
「いや、これは……部隊ごと再配置か?」
そこへ、整然とした足取りで近づいてきたのは、戦列副官のトラヴィスだった。眉間にしわを寄せ、携えた帳面に目を落としたまま、列長マリオンの前で足を止める。
「命令書だ。……本隊より、前衛部隊としての集結命令が下った」
マリオンが眉をひそめる。
「全体が動くのか?」
「ああ。主戦線が北東の平原地帯に展開される。こちらの列も、第四戦列隊に組み込まれることが決まった。……明日には移動開始だ」
それはつまり、“戦場”に出るということだった。
これまでの偵察戦や小競り合いではなく、軍そのものが動く。大規模な布陣と、計画的な進軍。そして、正面からの会戦――。
兵たちが一斉にざわつく。
オズベルはその場で一歩踏み出し、静かに問いかけた。
「……俺たちは、どこを?」
トラヴィスは帳面を閉じると、はっきりと答えた。
「前衛中央、第二列。貴様の列も含めて、縦隊の一翼を担う」
ノランが息を呑んだ。
「前衛……って、じゃあ、俺たちが最初に……」
「そういうことだ」
マリオンは短く応じた。
「ようやく戦らしい戦になる。……逃げ場はねえぞ、誰にもな」
それは、鼓舞でも警告でもなく、ただ事実を告げた言葉だった。
夜が、野営地を静かに覆っていた。
空は曇っていたが、風は穏やかで、星の代わりにいくつもの焚き火が地面を照らしていた。赤い火が、兵たちの顔を揺らめかせる。槍を立てかけ、粥を啜る音だけが聞こえる静かな時間。
オズベルは、火の前で黙って座っていた。
火の粉が時折、はぜる音を立てて宙に舞う。その光の揺らぎを、じっと見つめながら、彼は何かを考えていた。
向かいに腰を下ろしたノランが、ぬるくなった粥の椀を両手で抱えながら口を開いた。
「……明日には、出るんすね」
「……ああ」
「やっぱ、怖いっすよ。俺」
素直な言葉だった。軽口でも、冗談でもなかった。
オズベルは少し間を置いてから答える。
「俺もだ」
「え、マジで?」
「誰だってそうだろ。こんなもん、慣れるもんじゃない」
それを聞いて、ノランは少しだけ笑った。焚き火の光がその顔に陰影を落とす。
「でも……俺、オズベルさんがいるってだけで、まだマシなんすよね」
オズベルは返事をしなかった。
だが、ノランは構わず言葉を続けた。
「最初の戦のとき、オズベルさんが前に立ってなかったら、俺、突っ込んで死んでました。あなたの声で止まれた。今回も、あの村で……あなたの叫びがなかったら、また誰か死んでた」
言葉を切って、ノランは椀を地面に置く。
「だからオズベルさんが前にいてくれるだけで、俺は踏みとどまれる。そう思ってます」
オズベルは、焚き火に細く薪をくべた。
炎が一段高くなり、火の粉が夜空に散った。
「……俺は、そんなに頼れるもんじゃない」
「でも、頼ってるんすよ、みんな」
その言葉に、オズベルは静かに顔を上げた。火の向こう、ノランの目はまっすぐこちらを見ていた。
「……死なせない。できるだけ」
その言葉は、誓いだった。
火に照らされた槍の柄を、彼は静かに握りしめる。
明日は、列ごと動く。軍全体の流れの中に、自分たちが組み込まれる。隣の列が崩れれば、波が自分たちにも押し寄せる。自分の列が崩れれば、次の列を殺すことになる。
槍は、ただの武器ではない。
それは、列の命をつなぐ“鎹(かすがい)”だった。
どれだけ泥にまみれようと、折れかけようと、握り続けなければならない。
オズベルは火を見つめたまま、静かに立ち上がる。
「明日は、早い。寝ろ、ノラン」
「ああ……わかりました、副列長殿」
苦笑まじりに敬礼の真似をしながら、ノランは腰を上げて去っていった。
その背を見送りながら、オズベルはひとり火の前に残った。
その手にある槍は、熱も言葉も持たない。
だが、確かにそこに“命”が通っていた。
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