第12話 歩哨の声
夜が落ちきるより前に、砦の門が閉ざされた。
いつもなら夕刻を合図に徐々に静まっていくはずの兵舎周辺が、この夜ばかりは妙にざわついていた。誰もが口数を控え、足音を立てぬよう歩きながらも、その背には戦で張り詰めた疲労と、生き延びたことへの困惑が色濃く漂っている。
オズベルはその一人だった。
肩に掛けた槍は、まだ敵の血で赤黒く染まったままだったが、洗う気にはなれなかった。それが戦果を意味するとも、誰かの命を奪った印であるとも、まだ明確には思えなかった。ただ、戦いの最中に何度も振り下ろし、振り払った“重さ”だけが、腕にしつこく残っていた。
「名簿、確認終わりだ。――列を崩すな、歩哨の指示が出てる」
軍吏らしい若い声が叫び、列の先頭が静かに動き出す。
砦の中、歩哨と夜営が交互に割り当てられるのだ。
夜半の歩哨は、兵にとって最も精神を削られる任務の一つだった。
戦場で死を味わい、砦へ戻ってもなお気を抜けぬというのは――疲弊というより、次の何かへと心が引き裂かれるような感覚だった。
「オズベル。夜番、交代の列に入れ」
横から声をかけてきたのは、肩を引きずるユーグだった。
あの地獄のような戦場から、生きて帰った仲間の一人。
「……ああ」
オズベルは短く応え、並んで歩き出す。
いまだに実感は薄い。誰が死に、誰が残ったのかも、数としては分かっていても顔と結びつかない。
いや、正確には死んだ者の顔だけが、妙に鮮明に焼きついていた。
ハンメルの最期。血と泥に塗れた手。微笑のようなもの。
「……オズベル、お前、あの槍――まだ持ってるのか?」
ユーグが目をやったのは、オズベルの背に括りつけられた長柄の槍だった。
戦前に“父の形見”として語られたあの槍。古く、太く、柄にはいくつかのひびも入っている。だが、その重量と頑丈さが、あの混乱の中では何より頼りになった。
「……折れなかったからな」
オズベルは、柄に手をやりながら答えた。
皮肉にも、訓練も受けず、技術もなく振り回したそれが、味方の何人かを守り、生き残らせたのだ。
ユーグは肩をすくめた。
「折れないのも、武勲のうちだな」
冗談めかした口調に、少しだけ笑みが浮かびそうになった。
それでも、背後の暗闇に、どこか冷たい視線が潜んでいるような錯覚が消えなかった。
「歩哨――交代の番だ。東壁に就け」
命令が下り、オズベルたちは順に外縁の見張り台へと配置されていった。
その夜、月は雲に隠れ、風はぬるい血のように吹き抜けていた。
東壁の歩哨台は、砦の中でも最も風が強く、夜気が鋭く肌を刺す場所だった。
とはいえ、風が吹けば吹いたで、今度は鎧の継ぎ目に砂埃が忍び込んでくる。
城壁に背を預けて立ち尽くすオズベルは、そんな風の気まぐれを無言で受け入れながら、暗がりの向こうを見つめ続けていた。
何もない。
眼前に広がるのは、黒く沈んだ丘と、遥か遠くの林の影。
人の気配も、火の灯りも、夜鳥の鳴き声すら聞こえない。あの戦の翌日でなければ、ただの静かな夜だったのかもしれない。
しかし、オズベルは知っていた。
この“静けさ”は、死の余韻の延長だ。血を流し、肉を裂いたばかりの大地が、まるで息を潜めているかのように沈黙している。
それは、心を凍えさせるほどの――静けさだった。
(歩哨とは、こんなにも孤独なのか)
初めて立つ城壁の上。
同じ砦にいる仲間たちは遠く、声は届かず、音もない。自分が今この場所にいて、目を見開いている理由すら、一瞬ぼやけそうになる。
オズベルは無言で槍の柄を握りしめた。
戦場では、あの重さが敵を押し返し、生き延びる術となった。だが今は、目の前に敵も、守る者すらもいない。
「お前が……“あれ”を振るっていたのか?」
声がかけられたのは、いつの間にか背後に立っていた男からだった。
鉄鎖のついた胸当て、銀細工を施した肩当て。雑兵のものではない。
階級章はない。だが、その身なりと立ち居から、“上の者”であることは明らかだった。
「……何の話だ?」
オズベルが振り返ると、男は肩をすくめて答えた。
「戦場で、鉄塊のような槍を振り回していた大男がいると聞いてな。あれで数人は助かったと。誰もが逃げ惑う中で、前へ出ていた者がいたと」
オズベルは何も答えなかった。
ただ、それが誤解であるとも言わず、誇りにするでもなく、黙って夜の空気を見上げるだけだった。
男はふ、と息を吐いた。
「……そうか。名は?」
「オズベル」
それだけを言い、オズベルはまた視線を前に戻した。
「覚えておこう。……歩哨任務、ご苦労だったな。休息を取れ。補充部隊の再編が近い」
男はそれきり、足音を立てずに闇へ消えた。
その背に、わずかな銀飾の紋章が揺れていた。
所属不明のまま、だが確実に上層の者。
オズベルは何も言わず、しばし立ち尽くしていた。
風が再び吹き、髪を揺らす。どこかで鈴のような音がしたのは、仲間たちの歩哨が交代を始めた合図だろうか。
(――見られていた)
それは警戒でも監視でもない。
言葉にすれば、“選別”に近いもの。
いつからか、戦場の裏で動く視線が、自分に重なりつつある――
そんな直感だけが、胸の奥に残った。
翌朝、砦内に号令の響きが走った。
「第三兵舎前に集合! 隊再編の告示が出たぞ!」
慌ただしい足音と怒鳴り声が、まだ白む前の広場に集まり始める兵士たちを急かす。
その中に、オズベルもいた。着古した軍衣の袖をまくり上げ、背に槍を背負いながら、黙って列の後ろへ加わる。
集まった兵士たちは、みな一様に疲れきった顔をしていた。
先の戦から生き延びた者もいれば、他の砦から回された補充兵もいる。中には顔に包帯を巻いたままの者や、腕を吊ったまま来た男もいた。
(再編、か)
オズベルは列の隙間から前方を見やった。
砦を預かる指揮官と、その副官と思しき男が帳面を手に兵士たちを見渡している。
「――これより小隊単位での再編を行う。先の戦での損耗を踏まえ、実戦経験のある者を軸とし、再編成する。呼ばれた者は、前へ」
次々と名前が読み上げられ、兵士たちが動き始める。
オズベルは呼ばれることもなく、静かに列の中に留まっていた。
(俺は……経験に入るのか?)
ふと、斜め前の男が振り向いた。若く、浅黒い肌。先の戦いで隣を走っていた新兵の一人だ。
「あの。もしかしてオズベルさんですか?」
「……ああ」
「やっぱりですね。噂になってますよ、あなたの槍の振り回し方。あれで後ろのやつらが何人か助かったって」
言葉に、とくに返すべきものは見つからなかった。
だがその男は笑って、勝手に続けた。
「俺はノランっていいます。覚えてといてくださいよ。小隊一緒になったら、頼らせてもらいますから。」
軽口とともに、はにかむ。
オズベルは少し間をおいて、静かにうなずいた。
やがて、隊の編成が進み、再編表が掲示される。
オズベルの名前は、第五小隊の末尾に記されていた。
その横に記されていた指揮官名は「副曹長ハインリヒ」。
「……小隊、か」
それはただの一兵卒ではない、部隊の一員として正式に“組み込まれた”ということだった。
雑兵の群れではなく、任務に就く隊の兵として。
そして午後、早速その小隊での初動訓練が始まった。
広場の一角、隊列を組み、基本的な動作から確認が行われる。
掛け声、移動、対槍の間合い、応戦の基礎。実戦で死に損なった者たちに、ようやく体系だった“戦場の常識”が注がれる。
だが――
「オズベル、間合いが広すぎる! 突くな、払え!」
「その体格で勢い任せに動くと、全体が崩れる! 一拍おけ!」
副曹長の怒声が、何度も飛んだ。
他の兵が恐る恐る動く中で、オズベルの動きは速すぎた。
戦場で生き延びた経験から、感覚だけは鋭くなっている。だが、槍術の理(ことわり)からは逸脱していた。
それは“偶然の力”に過ぎなかった。
「……槍ってのは、押し合いだけじゃないんだな」
訓練の終わりに、オズベルは肩で息をしながら独りごちた。
戦場で振るえば相手を倒せると思っていた重槍。それが、仲間と動く中では時に“足手まとい”になりうると知った。
初めての敗北感だった。
周囲の兵たちは、ちらちらと彼を見ていた。
誰も笑わない。だが、そこに蔑みもなかった。
(見られている)
昨日の歩哨台で感じた視線とは違う。
ここにいる者たちは、オズベルを“同じ隊の一人”として見ていた。
もしかするとそれは、初めてのことだったのかもしれない。
村でも、徴兵の列でもなく。
――今、ようやく、“名前”として呼ばれ始めている。
夜が更ける。
砦の外に広がる草原を、冷たい風が渡っていく。
火を囲む者たちは毛布を肩にかけながら、低く笑い、肉をあぶり、短い安堵をかみしめていた。
オズベルはその輪のひとつ、少し離れた位置に腰を下ろしていた。
鍋から湯気の上がる音、串に刺した肉が焼ける匂い。
言葉は交わさずとも、ここに“誰かといる”という感覚だけは、わずかにあった。
「お前さ……その槍、持ち込みか?」
ある隣の若い兵士が不意に声をかけてきた。
オズベルは少しだけ顔を向ける。
「……ああ」
「だよな。支給品の中には、あんな真っ直ぐな柄、なかったしな。……親父のか?」
オズベルはしばし口を閉ざし、それからうなずいた。
「……父の槍だ。昔、村の守り手だったと聞いた。もう使える腕じゃなかったが、死ぬ前に渡してくれた」
「へぇ……そりゃ、ちゃんとしたもんだな」
男は火にあたったまま、槍の輪郭をちらりと眺めた。
煤けてはいるが、芯の通った木柄と、丁寧に研がれた鉄の穂先がわかる。
「俺も、兄貴がいたよ。前の戦で死んじまったけど。……あいつの剣、持ってくればよかったな。そしたら、もうちょい真っ当な兵士になれた気がする」
ふっと笑いが漏れた。
オズベルはそれに返す言葉を見つけられず、ただ火を見つめる。
けれどその場の空気は、どこか穏やかだった。
火の揺らめきとともに、何人かの隊員が槍の整備を始めていた。
革を巻き直し、油を塗り、柄のささくれを小刀で削る。
オズベルも腰から布を取り出し、父の槍を静かに磨き始めた。
「……まだ、振り方もろくに知らん。でも、これだけは落とせない」
つぶやいたその言葉に、誰かが応じた。
「それでいいさ。戦って、生き残れば、勝手に覚える」
振り返れば、それは小隊の中堅兵――トルステンだった。
無精髭を生やし、無言のまま他人を見透かすような目をしている男だ。
今日の訓練では、終始、オズベルの動きを遠巻きに見ていた。
「お前の突きは、見ていて怖い。だが、まだ鋭くはない」
「……そうか」
「だがな、“戦場の槍”ってのは、それだけでも意味がある。仲間の盾になり、重さで敵を押し返す。それができる奴は、そう多くない」
言葉は少ないが、それははっきりとした“肯定”だった。
それが、どれほど重たいものか。
オズベルは身に沁みるように感じていた。
(誰かが、俺を見ている)
ただ大きいだけの身体。振り回すだけだった槍。
それでも、それが「戦場で通用する」と、誰かが言葉にしてくれる。
――初めてだ。
槍の穂先が、少しだけ光ったように見えた。
夜はまだ冷たい。
だが、火の周りだけは、ほんのわずかに温かかった。
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