第6話 食卓と決意

夜明け前の砦には、まだ霧が立ちこめていた。湿った冷気が石壁を這い、野営地に薄く白い帳をかける。

 その中に、焚き火の赤がぽつぽつと浮かんでいた。


 オズベルはそのひとつの前に、しゃがんでいた。

 焼け石に置かれた鉄鍋の中では、固く干からびた麦と、塩をふった乾肉が湯に溶けている。

 空腹を満たすための“食事”――それだけのものだったが、今の彼にとっては、まぎれもない“生きるための糧”だった。


「オズベル……少し、分けてくれないか」


 背後から声がした。振り返ると、そこにはユーグがいた。

 左の頬にはまだ痣が残っており、着ている革鎧は血の染みがこびりついている。

 だがその瞳だけは、昨日までの焦燥から、かすかに希望の色を取り戻していた。


「食料は支給分で足りるだろ」


「……あいつらに、取られた」

 そう言ってユーグは、自分の布袋を握りしめた。ほつれた紐と、切られた口。

 昨夜の騒ぎの中で、誰かが盗んだのだろう。


 オズベルは鍋を少しだけ傾け、匙で中身を掬った。

 ごろりと沈んでいた肉のかけらも、二つに割り、ひとつを差し出す。


「……ありがとな」


「礼はいらん。食わなきゃ死ぬだけだ」


 二人は言葉少なに、鍋を囲んだ。

 夜が明けるまでに時間はない。もうすぐ号令が響き、またどこかの補給路を整備させられるのだろう。


 火の向こうには、他の新兵たちも数人、焚き火を囲んでいた。

 顔も知らない、名も聞いたことのない者たち。

 だが皆、同じように泥にまみれ、血を浴び、飢えていた。


 それでも、火を囲むこの時間だけは――彼らは“人”だった。

 兵士でもなく、肉でもなく、ただ命を繋ぐ者として、そこにいた。


 オズベルは槍の柄を見つめた。

 昨日、この柄で何人の命を奪ったのか、もう数えられなかった。


 だが、それでも手放せない。

 これがなければ、自分は――生きられないのだから。


 鍋が空になったころ、遠くで号令が響いた。


「全隊、整列! 補給路再確保任務、出発準備せよ!」


 火が、ぱち、と音を立ててはぜた。


「……行くか」


「ああ」


 ユーグと共に立ち上がる。

 生き残るために、また槍を握りしめ、泥道へと足を運ぶ。


 命を繋ぐ食卓は、すぐにまた――戦場へと続いていた。


補給路再確保――それは、戦で荒れた道を通り、荷車が通れるよう整備する任務だった。

 戦場で兵が生きるには、飯と水と矢弾が不可欠だ。だがその運搬路を守るのは、戦と同じほど過酷な仕事でもあった。


 オズベルたちは、十数人の新兵で編成された小隊に組み込まれた。

 隊を率いるのは、腰を痛めたらしい下士官の男。口の悪さと経験の長さだけが取り柄らしく、足を引きずりながら前を歩いていた。


「耳を澄ませろ。森の影に潜んでるのは、獣か、それとも矢を構えた敵かもしれんぞ」

「……お前ら、死ぬときはせめて声を出せ。そうすりゃ残りが逃げられる」


 脅しとも忠告ともつかない言葉だったが、誰も反論はしなかった。

 昨日までに死んだ仲間の顔が、脳裏にこびりついていたからだ。


 道はぬかるんでいた。馬車の轍が深くえぐれ、水がたまって泥と化していた。

 荷車がここを通るのは難しいだろう。新兵たちは鍬と鋤を手に、崩れた地面をならし始めた。


「これ……整備、っていうのか?」

 ユーグが泥まみれになりながら、ぼそりと呟いた。


「軍のやることに文句を言うな。誰かがやらにゃならんことだ」

 そう答えたのは、同じ隊の男――確か名はダールといった。隣村出身で、歳はオズベルと同じくらい。


「俺たちが整備して、明日にはまた敵が踏み荒らして……それをまた俺たちが整備するってわけか」

 ユーグの皮肉に、誰も笑わなかった。


 そのときだった。

 藪の向こうで、小さく枝を踏みしめる音がした。


「……動くな」

 オズベルが槍を構えた。


 それは、訓練で身につけたものではなかった。

 戦場で“死にたくない”という本能だけが、彼の腕を動かした。


 次の瞬間、矢が飛んできた。


 木の幹に突き立つ音と、誰かの悲鳴。

 矢を受けた若者が膝をつき、呻いた。


「伏兵だ、散開しろ!」

 下士官の叫びが響いたが、ほとんどの新兵は動けなかった。


「っくそ!」

 オズベルは一歩前に出ると、声を張り上げた。


「伏せろ、木の陰に入れ! 後ろの荷車を盾にしろ!」


 叫びながら、敵の弓兵がいるであろう方向へと踏み出す。

 槍を横に構え、体を盾にするようにして。


 矢が彼の肩をかすめ、血がにじむ。

 だがオズベルは止まらない。唸るように声を上げ、突き進む。


「撃てるもんなら撃ってみろ……!」

 その巨躯と殺気に、森の奥で何人かが息を呑んだのが分かった。


 敵の動きが鈍った一瞬。

 その隙を突き、下士官が再び叫ぶ。


「前に出ろ! 逆に押せば、やつらは逃げる!」


 オズベルの前に飛び出した影――弓を構えた敵兵。

 彼はためらわず、槍を突き出した。


 鋼の穂先が男の胸を貫き、後ろの木に突き刺さる。

 呻き声とともに崩れる音。敵が退く気配。


「……引いた!」

 誰かが叫んだ。


 伏兵は、数人だった。おそらく偵察か、陽動。

 だが、たった今、命を賭けた者にとっては、それも“戦”だった。


 オズベルは深く息をつき、肩の傷を押さえた。

 痛みが指先に伝わるが、それすらも遠く感じる。


「お前……また一人で突っ込んだな」

 ユーグが、泥だらけで駆け寄ってきた。


「他に誰がやる」

 そう言って笑うが、その顔には疲労が色濃くにじんでいた。


 任務は続く。

 補給路は確保された。だが、またいつ壊されるかも分からない。

 戦とは、そういうものだと――オズベルはようやく理解しはじめていた。


 その夜。

 食料の支給は、少しだけ多かった。

 パン一切れ分の違いだったが、空腹の者たちには天と地ほどの差だった。


「オズベル。……今日は、お前のおかげだな」

 ユーグが言った。


「違う。おれたち皆でやった。……生き延びただけだ」


 火を囲み、硬いパンを噛む音だけが響いていた。

 戦のなかで唯一温かいこの時間が、誰にも壊されぬように――。


 翌朝、隊の雰囲気には微かな変化があった。


 昨夜の襲撃に際して、オズベルが身を挺して敵兵を退けたことは、小隊の者たちの間に静かな印象を残していた。


「……あいつ、見直したな」

「でかい図体だけかと思ってたが、案外、使える奴かもしれん」


 そんな囁きが、火の気のない冷えた朝に交わされていた。


 一方で――全員が同じ感情を抱いていたわけではない。


「……調子に乗ってるんじゃねえのか?」

 誰かの低い声が背後から聞こえる。


 振り返ると、同じ隊の兵――背は低く、顔に斜めに傷を持つ男が、オズベルを睨んでいた。


「昨日のは、たまたまだろ。でかいだけの奴が前に出て、敵が引いただけだ。……お前が槍の使い手ってわけじゃねえ」


 その言葉に、オズベルは何も返さなかった。

 反論の術も、必要もなかった。


 事実、槍を“使えた”わけではない。

 ただ、振り回した。力任せに。

 それが通じたのは、敵が少数だったからに過ぎない。


 ――槍は、思ったより重い。

 ――そして、思ったより、技術がいる。


 昨日の戦いで、はっきりと気づいた。

 突き方一つで、重心がぶれる。

 柄を握る位置で、間合いが変わる。


 父の背を見ていた頃は、そんなこと、考えたこともなかった。


 槍で敵を倒すには、ただ腕力があればいいと思っていた。


 だが違う。

 “突く”だけでも、研ぎ澄まされた感覚が必要なのだ。


「……それでも、俺は振るうしかない」


 小さく、呟いた声は、誰にも聞こえなかった。


 その日、小隊は新たな命令を受けた。

 補給路確保の次は、“陣の移動”だった。


 味方軍は前線を押し上げたため、野戦本陣を数里先に移す必要があった。

 野営地の設営と、食料・水・医療物資の移送。兵站の要となる任務だ。


「お前たち新兵は、木を伐れ。杭を立て、布幕を張る。……杭の打ち方すら知らねえだろうが、殴れば覚える」


 そう笑いながら命令を下したのは、例の下士官だった。


 木を担ぎ、土を掘り、杭を打つ。

 戦ではない、だが体は確実に削られていく。


 陽が高くなるにつれて、口数は減り、皆が無言で働いた。


 オズベルは、杭を一本打ち終えるたびに、遠くを見やった。

 ――敵の姿はない。だが、昨日のように突然現れるかもしれない。


 気を抜けば、死ぬ。


 そう思っているのは、自分だけではないはずだった。


 その夜。

 野営地の周囲に柵が張られ、番兵が交代で見張りに立った。


 オズベルは、その夜の当番だった。


 月が雲に隠れ、あたりは暗かった。

 冷たい風が草を揺らし、遠くの焚き火がかすかに見える。


 静かな時間。

 だが、心の内は静かではなかった。


「……あんた、昨日はよくやったよ」

 背後から声をかけてきたのは、ダールだった。


「なんだ、お前も見張りか」


「ああ。……というか、あんたが一人で出たの、無茶だと思ってたんだがな。俺には、できなかったよ」


 その言葉を聞いても、オズベルはうなずくだけだった。


 沈黙が少し続いたあと、ダールがもう一つ声をかけた。


「そういやさ。……槍、父親の形見なんだって?」


「……ああ」


「だったら、きっと強くなれるさ。道具ってのは、気持ちがこもってりゃ応えてくれるもんだ」


 言い終えると、ダールは焚き火のほうへと戻っていった。


 オズベルは、自分の槍を見下ろした。


 木の柄はひび割れ、革巻きも剥げている。

 だが、その握りには、父が残した重みが確かにある気がした。


 ――もっと、使えるようにならなければ。

 ――もっと、多くを守れるようにならなければ。


 夜風が吹いた。

 その音に混じって、遠く、戦鼓のような音が響いた。


 明日もまた、何かが始まる。

 その予感だけが、槍を握る手に熱を与えていた。


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